依存先の分散について

俗にいう鬱状態の改善には、依存先の分散が良いと聞く。一つ折れても大丈夫なように、自分を支える柱をいくつも用意することで倒れにくくするという訳だ。わかりやすい理論だ。

どれくらいからが「たくさんの依存先」になるんだろうか。私は、音楽、少しの友人、映画、美しい文章、煙草、ツイッター、温かい飲み物、おいしいご飯、いつか行きたい場所…などに依存していると思う。これらがなくなったら困るし、自分を支えてくれていると感じる。幾つからが十分な依存先かわからないけど、多いように思う。

しかし私はずっと変わらない。生きやすくならない。これ以上増やせというのだろうか?柱を増やすことに躍起になって、どうなるっていうんだ。仮に強固な柱がいくつあろうとも、上にある自分が脆いままではダメなままなのではないだろうか。砂の城は見た目だけ豪華絢爛でも簡単に崩れてしまうように。

そもそも大丈夫な人達はおそらく自分を支えてくれている柱を数えない。もしかして私が想像する数倍の柱を持っているのかもしれない。その上で彼らは大丈夫ならばそれは少し羨ましい。


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脆い自分を強くする方法はわからない。しかし今のところそのままでいいと考えている。「恒久的な欠落を愛してこその幸福だ」と信じているから。

私は、小さな依存先が幾つもある人より、弱いながらも自ら苦しみながらつくり上げた一本の大きな柱の上で生きている人の方がかっこいいと思う。「自分にはこれしかないんだ」「これを奪われたら、もうどうしようもない人間になってしまう」と恐怖に苛まれながらもその道を選んだ人こそが私の目にはかっこよく美しく映る。退路を絶たれた人間の作るものの方が悲惨で綺麗だ。確かに生き辛く恐ろしい道なのだろう。けれど私はそちらを選びたい。美しくなりたいんだよ俺は。


最後まで読んでいただきありがとうございます。 あなたの心に何か残れば幸いです。