『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』
とても良い映画。良い映画だった。『パターソン』なんかを好きな人には刺さると思う。でも、寝ちゃう人もいると思う。そんな映画。
ある家に、ささやかに暮らしている夫婦がいる。夫であるCは交通事故で急死。病院で夫の遺体を確認する妻M。その直後、Cはシーツを被ったオバケになって蘇る。歩いて家に戻ったCはMの姿を見つめ続けるが、やがてCは引っ越していき……。
【ネタバレあり】
ゴーストとタイトルについてはいるが、まったくもってホラーではない。ファンタジーというか哲学というか、非常に観念的な作品だった。セリフは最低限しかなく、シーツ姿のゴーストは一言も発しないし表情も見えない。いわば地縛霊となったCは、その家に留まり続け、現在から未来、過去へと時間軸を飛び越えていく。ちょっと『火の鳥』みたいな感じ。なぜCはその場にとどまり続けているのか?もちろんハッキリと理由が語らることはないが、私たちにはそれが愛ゆえであることが痛いほどわかる。これは愛についての映画だ。
突然だが、レイモンド・カーヴァーの短編に『大聖堂』という作品がある。夫婦の元に妻の友人である盲目の男がやってきて、夕飯を共にした後で一緒に絵を描くというストーリーなのだが(傑作なのでオススメ)、その中で3人が猛烈な勢いで食事を食べるという描写が出てくる。『ア・ゴースト・ストーリー』に度々登場する「食べる」シーンで、私は『大聖堂』のことを思い出していた。
キリスト教のミサのクライマックスは聖体拝領だ。キリストの体とされるホスチアを分かちあって口にする。この儀式は信仰のしるしというか確認というか、まあ難しく言えば色々あるのだが、とにかく私はいつも聖体拝領のときに「食べる」という行為を強く意識する。キリストの体とされるものを皆で「食べる」という状況が、とても原始的というか根源的というか動物的というか、ものすごく儀式っぽいなと感じて、「いま私は生きている」と再認識させられるのだ。わかるかな、この感覚……。
「皆で何かを食べる」という行為はライブ感に溢れたものであり、生きている人間同士の結束を感じさせるものだ。『大聖堂』を大学で読んだとき、私はこの作品に出てくる異様なテンションの食事描写と、ミサとの繋がりについてレポートに書いた。そして、食べるという行為は、なによりも「生」を象徴する。いわば、死んでいるゴーストとは対極にある行動だと言えるだろう。聖体拝領は最後の晩餐を再現したものだが、最後の晩餐はイエスが自分を待つ死を意識した上で行ったものなので、やはり死と対比されるものだろう。
Mが去った後でやってきた母子家庭が幸せそうに食卓を囲む様子を見て、ゴーストはキレる。また、議論していた男女が開いていたのはパーティだった。その後に聳え立ったビルでは誰も食事を取っていなかったが、ゴーストはその場にいた人間に対して興味を持たなかった。そして、遠い過去の世界では、やはり母親が食事を作っていた。この映画に出てくる「生きている人間たち」のキモとなるシーンには、なにかと食事が絡んでいることが多い。それはゴーストにとって「自分が死んでいる」ことを強烈に感じさせる光景だっただろう。
そして、忘れてはいけないのがMの食事シーンだ。Cを失った後、隣人が作って置いて行ったパイを一心不乱に無言で食べるロングショット。本作の中でも特に印象的なシーンだが、Mが誰とも食事を分かち合うことなく、数分に渡って黙々と食べていたことの悲痛さ。生を分かち合う人はもういない。でも、生き続けなければならない。愛する人を亡くした悲しみをこれほどまでにシンプルに描いたシーンを、私は他に観たことがない。
そして、何よりも特筆すべきはラストシーン。展開が想定外だったわけではないのに、あまりにも鮮やかで今も脳裏に焼き付いている。今まではミュージカル『ウィキッド』の幕切れの瞬間に勝るラストシーンはないと思っていたが、本作のラストの一瞬はそれに匹敵する。あのラストシーンを観るためだけにでも観てほしい。魂が震えるから。
それにしても、この脚本を書き上げて、こうして映画にするためにはどんなドラマがあったのだろう?どういう経緯でスタッフやキャストが集結したのか。この、セリフが極端に少ない奇妙な大傑作がこの世に誕生したことが、何よりも嬉しい。
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