なぜ平泉試案は葬り去られたのか?①平泉試案とはなにか?


 1974年当時参議院議員だった平泉渉が自民党政務調査会に提出したいわゆる「平泉私案」。日本の英語教育のあり方に重要な示唆を与えるその主張はなぜ葬り去られたのか?当時の状況を振り返りながら、これからの外国語教育、とりわけ英語教育のあり方について考えていく。
 なお、記述にあたっては鳥飼久美子著「英語教育論争から考える」、平泉渉・渡部昇一「英語教育大論争」を参考にした。


 平泉試案が出されたときのことを鳥飼は次のようにふりかえる。

1970年代、まだ私が大学英語教育と無縁だった時代に平泉参議院議員が提出した英語教育改革の試案に対し、我が母校の上智大学の渡辺正一教授が反論し、「実用か教養か」をめぐる2人の議論は英語教育史に残る「大論争」となっていた。この大論争を引き起こした「平泉試案」は私の理解では、戦後初の英語教育抜本的改革案であった。

鳥飼著

  

 平泉は元外交官で1974年当時は国際文化交流特別委員会副委員長という要職にあった。平泉試案の正式名称は、「外国語教育の現状と改革の方向ー一つの試案ー昭和49年4月18日」。少々長いで当方で要約しながら引用しようと思ったが、この論争においては試案に批判的な人々が、内容をすりかえて議論することが珍しくなかった。よってその轍を踏まないようここでは全文そのまま掲載することにした。

 わが国における外国語教育は、中等教育・高等教育が国民のごく一部に旧制中学・旧制高校を通じて、平均8年以上にわたる毎週数時間以上の学習にも係わらず旧制大学高専卒業者の外国語能力は、概して実際における活用の域に達しなかった。今や事実上全国民が中等教育の課程に進む段階を迎えて、問題は一層重大なものとなりつつある。それは第一に、問題が全国民にとっての問題となったことであり、第二に、その効率のわるさが更に一段と悪化しているようにみえることである。
 国際化の進むわが国の現状を考え、また、全国民の子弟と担当教職員がとが、外国語の学習と教育とのために払っている巨大な、しかもむくわれない努力をみるとき、この問題は今やわが文教政策上の最も重要な課題の一つとなっているといわねばならぬ。
一.高度の英語の学習が事実上国民に対して義務的に課せられている
 国民子弟の9割以上が進学する高校入試において英語が課せられない例はほとんどない。また国民子弟の約4分の1が進学する大学入試においても英語が課されない例は極めて少ない。結果として、国民子弟の全部に対して6年間にわたり平均して週数時間に及ぶ英語の授業が行われている。そして最終学年である高校3年における教科の内容ははなはだ高度なものである。
二.その成果は全くあがっていない。
 ひとり会話能力が欠如しているというのではない。それはむしろ外国語の専門家としての特別の課程を進むものについてはじめていい得ることであって、国民子弟の圧倒的大部分についてみれば、その成果は到底そのような域にすら達していない。卒業の翌日から、その「学習した」外国語は、ほとんど読めず、書けず、わからないというのが、いつわらざる実情である。
三.その理由は何か
1.理由は第一に学習意欲の欠如にある。わが国では外国語の能力のないことは事実としては全く不便を来さない。現実の社会では誰もそのような能力を求めていない。英語は単に高校進学、大学進学のために必要な受験用の「必要悪」に過ぎない。
2.第二の理由としては「受験英語」の程度が高すぎることである。一般生徒を対象として現状の教育法をもって、現行の大学入試の程度にまで、「学力」を高めることは生徒に対してはなはだしい無理を強要することにほか.
ならない。学習意欲はますます失われる。
3.第三の理由は英語という、全くわが国語とは語系の異なる、困難な対象に対して、欧米におけると同様な不効率な教授法が用いられていることである。
四.検討すべき問題点
1.外国語教育を事実上国民子弟のすべてに対して義務的に課することは妥当か。
2.外国語としてほぼ独占的に英語を選んでいる現状は妥当か。
3.成果を高める方法はないか。
五.改革方向の試案
1.外国語は教科としては社会科、理科のような国民生活上必要な「知識」と性質を異にする。また、数学のように基本的な思考方式を訓練する知的訓練とも異なる。それは膨大な時間をかけて習得される暗記の記号体系であって、義務教育の対象とすることは本来むりである。
2.義務教育である中学の課程においては、むしろ「世界の言語と文化」というごとき教科を設け、ひろくアジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの言語と文化とについての基本的な「常識」を授ける。同時に、実用上の知識として、英語を現在の中学一年修了程度まで、外国語の一つの「常識」として教授する。(この程度の知識ですら、現在の高校卒業生の大部分は身につけるに至っていない。)
3 高校においては、国民子弟のほぼ全員がそこに進学し、事実上義務教育化している現状にかんがみ、外国語教育を行う課程とそうでないものとを分離する。(高校単位でもよい。)
4 中等教育における外国語教育の対象を主として英語とすることは妥当である。
5 高校の外国語学習課程は厳格に志望者に対してのみ課するものとし、毎日少なくとも二時間以上の訓練と毎年少なくとも一カ月以上にわたる完全集中訓練とを行う。
6 大学の入試には外国語を課さない。
7 外国語能力に関する全国規模の能力検定制度を実施し、「技能士」の称号を設ける。
六.外国語教育の目的
 わが国の国際的地位、国情にかんがみ、わが国民の約五%が、外国語、主として英語の実際的能力をもつことがのぞましい。この目標が実現することは将来においてわが国が約六百万人の英語の実用能力者を保持することを意味する。その意義は、はかりしれない。
以上

https://core.ac.uk/download/pdf/229785671.pdf

次回以降、この試案の内容を踏まえて、当時の英語教育論争をみていこう。

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