英語史の輪#4「書き言葉vs話し言葉」その2

まずは前回の復習の意味でhellogから今回の要旨を引用。
 言語学の研究対象は第一に「話し言葉 (speech)」 。「書き言葉 (writing)」 は二次的.その理由は以下の通りである。(要するに「話し言葉」のほうがより根源的で本質的であるとの考え)
① 言語は「話し言葉」として発生。「書き言葉」の歴史は浅い.
② 個体発生においても幼児はまず「話し言葉」を習得する.
③ 「話し言葉」の能力は先天的だが「書き言葉」は常に後天的。
④文字のない言語の方が文字のある言語より圧倒的に多い.

これに対して、「この定説はごもっとも。たてつくのは難しいが」と断りつつ、立てついていく(笑)。(heldio子の言葉を借りればである。)
その主張はだいたい以下のようなもの。

 ①~③については通時性的判断、要するに「前が偉い!」ということだが、共時的にみればそうとばかりは言えない。そもそもメディはが違う。
(1)新しい言語学の分野と考える
 たしかに、文字をもつ言語は世界の半分かもしれないが、「話し言葉」と「書き言葉」の関係を探るとなると同数となる。
(2)「書き言葉」は単に「話し言葉」の写しなのか?二次的なものか?
 句読点は?大文字、小文字の区別は?書体、イタリック体とローマ字体?など、文字があればこそ差異が見いだせるともいえる。
(3)「書き言葉」のコンテキスト
 ロベル・カルビ「文字とコミュニケーション」
 1)影の存在としての文字
 2)資料(ドキュメント)としての機能
   辞書=データベース(話し言葉にすると延々に喋る続けること)
 3)図像的機能(空間、ビジュアル)
  新聞のレイアウト→全てに情報がある。
(4)なぜ書き言葉は影とみられるのか?
  アルファベット文化圏は表音、つまり書き言葉は影。
  日本の漢字は表意文字で音にするのが目的ではない。
  日本人はそれを知っている。受け入れやすいのでは?
  音を度外視してたら文字だけでも訛りを地図上にプロットできた。
  →書き言葉は音を写すだけじゃない。独立したメディアとしていける。
  今、文字は独立している、文字は独立したメディアである証拠をかき集 
  めている。「なぜ日本語話者が英語史をやっているのか?」の一つの目
  的がこのあたりにあると考えている。

以上である。
どうやら聴いているとheldio子の関心は、
1)「話し言葉」を優位とする考え方は妥当か?
2)なぜ研究者は「話し言葉」を優位とするのか?
3)両者を視野に入れた新たな学問領域は開けないか?
ということにありそうだ。

現時点での私の見解は、
1)については、そもそも論の出番だろう。「語源学とはなにか?」「英語史とは何を明らかにする学門なのか?」の議論抜きに結論は得られない、と考える。字面だけ見ると冒頭の①から④の理由で「話し言葉」のほうが優位のようにもみえるが、今回のheldio子の主張を踏まえると、「書き言葉」には「話し言葉」と重ならない市場があるように思われるので、別々の「市場」と考えるのが適切では?
2)については、語源とか英語史という専門性を一旦捨てて、「研究者の生態」をとおして考えることを提案したい。内容は次回。
3)についてはアカデミズム外の人間なので白紙ではあるが素人なりに考える。言語学でも新しい学問領域が誕生しているが、その際の成立条件となるものに沿って判断することではないか?と考えるが、今回の「書き言葉」と「話し言葉」の両者を視野に入れた学問となると、どうしても「話し言葉」しかない地域が多数あることが気になり??となってしまう。
以上、現時点での考えである。
それでは次回、2)についてさらに深く述べていきた。


  

 


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