平泉試案はなぜ葬り去られたのか?④成果はなぜ上がらない?

 1974年当時参議院議員だった平泉渉が自民党政務調査会に提出したいわゆる「平泉私案」。日本の英語教育のあり方に重要な示唆を与えるその主張はなぜ葬り去られたのか?当時の状況を振り返りながら、これからの外国語教育、とりわけ英語教育のあり方について考えていく。
 なお、記述にあたっては鳥飼久美子著「英語教育論争から考える」、平泉渉・渡部昇一「英語教育大論争」を参考にした。

 今回から平泉試案の具体的な提案に入っていく。これ以降は、鳥飼久美子著「英語教育論争から考える」から英語研究者・鳥飼氏の考え方も紹介しながら述べていきたい。

(平泉試案のつづき)
三.その理由は何か(※筆者注:二に記述されていた「卒業してもほとんど読めず、書けず、分からない」の原因は?)
1.理由は第一に学習意欲の欠如にある。わが国では外国語の能力のないことは事実としては全く不便を来さない。現実の社会では誰もそのような能力を求めていない。英語は単に高校進学、大学進学のために必要な受験用の「必要悪」に過ぎない
2.第二の理由としては「受験英語」の程度が高すぎることである。一般生徒を対象として現状の教育法をもって、現行の大学入試の程度にまで、「学力」を高めることは生徒に対してはなはだしい無理を強要することにほか.
ならない。学習意欲はますます失われる。
3.第三の理由は英語という、全くわが国語とは語系の異なる、困難な対象に対して、欧米におけると同様な不効率な教授法が用いられていることである。

 さて、平泉は、英語を学んでも卒業してもほとんど読めず、書けず、分からない理由として次のようなものをあげている。
理由1.学習意欲の欠如
 平泉は「わが国では外国語の能力がないことは事実としては全く不便を来たさない。現実の社会では誰もそのような能力を求めていない。英語は単に高校進学、大学進学のために必要な受験用の「必要悪」に過ぎない。」とする。ここまで英語教育をバッサリと切って捨てる意見をはじめて目にした。現在は英語能力を必須とする企業も増えてきたが、大卒であっても多くは英語能力を必要としない者が多く、この論は今でも大きくは間違ってはいないだろう。もっとも平泉は英語教育を全面的に否定しているわけではない。試案の3で出てくる「世界の言語と文化」という教科がその代案となる。

理由2.受験英語のレベルが高すぎ
 専門家ではないのでレベルの判断はできかねるが、受験勉強のうち多くの時間を英語に注ぎ込んだことからいえば、レベルが高いといってもいいのだろう。それもこれも、学習指導要領の目指す能力との兼ね合いなので、レベルが高い事実だけをとってダメとは言えないと思うが…。
 これは英語教育のみで結論を出すことは難しいだろう。大学入試は選抜のために内容が高度になる傾向にある。偏差値の高い大学になると全ての教科において難しい内容となる。よって、この受験英語のレベルの高さについては、入試選抜制度とあわせて議論する必要があると考える。

理由3.不効率な教授法
 平泉は英語が上達しない理由の三つ目に、「全くわが国語とは語系の異なる、困難な対象に対して、欧米におけると同様な不効率な教授法が用いられていること。」と述べている。
 鳥飼著によれば、米国国務省FSIの「英語母語話者にとっての言語習得難易度」で日本語はカテゴリー3「かなり難しい」に入るそうだ。このカテゴリの言語は、「一般的な仕事で読み、話せる能力レベル」になるまで2,200時間プラスその半分程度の時間を「現地で過ごし言語を学ぶこと」が望ましい。」としてる。そうした日本人にとって難易度の高い言語を今のような教え方でやっても上達は難しい、と平泉は言ってるのだろう。
 それは何となく理解できる。しかし、そもそも、スピーキング、ヒアリングといった技能といった本来、家庭や家庭周辺で知らず知らずのうちに習得するスキルを学校という場所、授業という形態によって習得させること自体に無理があると考える。私たちは生まれてからいろんな言葉、いろんな音を耳にしながら少しずつ言葉を覚え、聴いたり、喋ったりするようになる。このプロセスを人為的に(カリキュラムによって)習得させるという発想が間違っている。米国国防省FSIの「現地で過ごし学ぶこと」はそれを.踏まえてのうえだろうが、コスパは合わないだろう。

 まとめると、スピーキングやヒアリングなどの実用英語を義務教育において身に付けさせることは困難である。日本において中高かけて学んだ生徒が喋れない、聴けないのは当たり前なのだ。

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