「学問って役に立つんですか?」のベストアンサーはこれ!前編


(コンテンツの内容)
 16日(金)の「khelf声の祭典」の生放送で盛り上がったあとの二次会の様子が翌日のプレミアム放送「英語史の輪#5」で放送された。「英語史研究者が研究対象の時代(古英語期など)にタイムスリップしたら何をするか?といった興味深いテーマで盛り上がる中、「学問は役に立つかどうか?」と訊かれたらどう答えますか?との問いが出された。さすがはheldio子、「そんな観点ではみていません、と答えています。」。Mamiさんは「こちら側の問題ではなく相手の問題だと認識」などなど、「役に立つ立たない」を超えるステキな回答がズラリ。これまでずっと「学問は役に立つのか」考え続けてきた私にとっても考えを表明するまたとないチャンスとばかりここで述べることにした。なお、取り急ぎheldio次のコメントを送付しておいた。
(投稿コメント)
・迷ったときは将棋の棋士。「将棋を指すのが好き」これしか言わんのですわ。しびれる~~~
・「結果的に役に立つのかもしれませんが、それは私の知るところではありません 」も少々イケてるとおもうのですが?(・∀・)シランケド
・ジョン・レノン「僕たちか何に貢献して何に貢献してなかったか僕には分からない」「言えるのは僕たちの世代が全員で60年代という船に乗り新しい世界へ行ったことだ」だとか。

さて、本題に入ろう。「学問って役に立つんですか?」について考えてみよう。

 この問いに対する答えは、答えるタイミング、場所、相手によって微妙に異なるようだ。大学の研究者が公的な場で答えるときは、だいたい「役に立つ」で通しているようだ。もちろん、新聞紙上では「役に立つ」という回答しかみない。
(「学問」とはなにか?)
 まずは、そもそも学問とは何を指すのか?なぜこれを考えるのかというと、学問の定義自身に「役に立たない」という意味が含まれていればそもそも議論する必要はないからだ。「学問は役に立たないもの。だから役に立たなくて何の問題もない、で終わる。
 では、学問の定義はどうなっているか?
 「デジタル大辞泉」(小学館)は次のように定義している。
学び習うこと。学校通ったり先生についたり、本を読んだりして、  新しい知識学習すること。また、につけた知識。「—のある人」「—する楽しさ」理論に基づいて体系づけられた知識研究方法総称。学。
 やはり、「役に立つか、立たないか」という意味は含まれていないようだ。つまり、学問であることと役に立つことは直接結びついていない。だからこその「役に立つのか?」という問いである。
 では、問われている「役に立つ」とはどういう状態を指すのか?何かをやることで何らかの効果をもたらす、という意味であろうが、このこの問いが学問に向けられたときは、「研究費用を税金という形で負担していている私たちにプラスの何かが返ってくるんだろうか?」という意味をふくみ、さらにその裏には、「研究者の自己満足のために税金が使われていないだろうか?」という疑念が見え隠れしている。よって「役に立つ」というからには、その疑念を晴らすだけの納得感が必要となる。
 もっとも、この問いは学問全般というより人文科学(哲学、歴史、言語学、もちろん英語史も)に向けられることが多い。自然科学については科学のイメージがあり、一般の人々も日常生活において恩恵に預かっている感覚があるが、人文科学についてはそうした感覚があまりない。というより、文学や哲学、歴史と無縁の人にとっては役に立つかどうか以前の問題と言えそうだ。
 そうしたいわば不利な状況にもかかわらず、新聞などでは人文系研究者からは自然科学と同じように「役に立つ」という言葉が出る。もちろん、すぐに役に立つとか、科学というように形に現れるとまでは言わないまでも、私たちに欠かせないもの、と断言してする。
 しかし、その理由が非常に分かりにくい。一般的の国民を納得させるだけのものはほとんど聞かれない。それはある一定の教養のある人間だけしか分からない、一部の人間がわかればいい、というような傲慢な態度さえ感じる。
 この問いに対する科学的な答えはどういうものだろう?
 「役に立つかどうか分からない」というのがもっとも科学的で真摯な答えではないか?
 私が人文科学系の研究者だとしたら次のように答えたい。
 「なぜ私が学問をするのか?それは役に立つと信じるからではない。やりたいからである。なぜやりたいのか?それが面白くて仕方ないからだ。それが世の中の役に立つかどうか私は分からない。だから仮に、その研究が世の中で役に立ったとしても、それは自分の意図ではないし、自分の預かり知らぬところだ。」と断った上で「ただし」と続けたい。

 ここからが大事である。今までの歴史を振り返って、意図して役たつものばかりではない。何かを意図して開発されたものが役にたつというより、あるものをどう使うかで役にたつというケースばかり。レコードにしろ…そこにあるのは「面白い」。実は、こうした人間が本能的に感じることが結果的に役に立つということが多い。
 人間の本能を侮っていはいけない。「おいしい」と感覚が感じるものは大抵において、そのときのその人が必要とするもの。人間の体は必要なものを美味しいと感じるようにできている。それを科学的に証明するのは難しい。というのも科学は人間の仕組みを正しく理解することはできない。となると、人間の「おいしい」と感じる味覚こそが食べてよいサインとなるだろう。
 「面白い!」と感じるものもしかり。学問には実用の学にはない、わくわくするような楽しさ、面白さがある。人間がワクワクと感じるものは、人間にとってきっと何か必要なこと、科学では分からない必要なことに違いない。「面白い」が「役に立つ」を科学的に証明することはできないが、きっとそうに違いない。私たちは、学問が役に立つことを証明することはできないが、その面白さを感じてもらうことはできる。heldioの狙いもきっとそこにあるはずだ。



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