YouTube井上堀田「読み手責任と書き手責任」~なぜ活字はコミックに敗れたのか?~

 (コンテンツの要約)

導入は村田和代「優しいコミュニケーション」(岩波新書)の紹介。
聞き手思考vs話し手思考のおはなし。
書き手責任vs読み手責任(Hind,1987)…書き方指南の本
→文章の意味が分からなければ書き手の責任
対して、日本は読み手責任になりがち。「わかってよ~」的。
empacy空気を読む。思いやり。日本の美徳。
欧米圏の国語…「書く」の割合大。パラグラフライティング、アカデミックライティングなどを小さいときからやらせる。
日本では読解力が重視。行間を読むとか。最近は少し違う。
日本でも話し手責任が高まってきている。「ちゃんと言わないと。」
国際化、インターネットの影響も。
最近、主語を言わなきゃいけなくなった。
語用論が変わってきつつある。異文化→日本(同じ言語同士)
フラグメンテーション。紅白歌合戦の長時間化、オリンピックの多種化
以上、メモ書き程度に要約したが、論点はこんな感じか?
①「読み解く力」と「文を書く力」とどちらが大事?
②日本人はなぜ「文を書く力」を軽視するのか?
③日本人はなぜ「文を書く力」が育たないのか?

 日本においては長らく「読み手責任」が強く言われてきた。この「読み手責任」を重視する風潮が書き手の責任。即ち悪文を温存させ、「活字文化」の低迷を生み出している、と前回述べた。
 今回は、その「活字文化」の低迷する状況を「コミック界の隆盛」と比較しながら論じたい。活字の低迷が言われて久しい。その低迷の原因は常に「読者の活字離れ」、即ち読み手側の責任とされてきた。果たしてそうか?いや、これこそ読み手に責任を転嫁してきた活字界の姿勢自身に原因があると考える。そして、そのことは隆盛を極めているコミック業界と比較することで鮮明に浮かび上がる。

1)活字とコミックの性質
 基本的に活字文化は文章を読んでもらってなんぼの世界。文章は必要なことを最低限の分量で明瞭に伝えることができるが、基本は文字だけになるので伝えられる内容に限界がある。一次元的。よって、文字の読めない人は無理、読むのが嫌いな人には敬遠されがちである。
 対してコミックはイラストに少しの文字。伝えられる情報量は活字ほどではないが、伝えられる分野が広がり、難しい内容も平易に伝えられる。二次元、三次元的。文字が読めない人、読むのが苦手な人にも受け入れられやすい。

2)コミック業界のこれまで
 これまでコミックは格下扱いされてきた。頭を使わない、想像力が育たない、怠け者が読むものというレッテルを貼られてきた。そうした風潮には超然として、もっぱらそのスキルを磨いた。1)で述べたとおり、多くの読者を獲得できる武器を有していたところにスキルアップが加わり、コミック市場は益々拡大することとなった。一般商品と同じく消費者志向を貫いたため当然のこととして顧客、即ち「読み手責任」などあるべくもなく、コミックはその可能性を広げていった。

3)活字業界のこれまで  
 活字は情報や思想を簡潔にして明瞭に伝える唯一の媒体であるが、コミックと比較すると伝えられる分野が偏りがち、伝えられる描写にも限界があるため幅広い読者を獲得することはそもそも難しい。テレビやラジオ、インターネットなどの登場により徐々にその活躍舞台を奪われていく。
 そうした中での活字業界の対応が市場の衰退に拍車をかける。顧客志向に徹する取り組みではなく、政府、図書館、学校といった公共機関に委ねたこともあり、読書週間など上から目線の市場拡大が目立った。武士の商法のような取り組みともいえる。特に、活字離れに警鐘を鳴らすような「読み手責任」を求めるという市場軽視の姿勢が、「書き手の責任」を曖昧にし、書き手のスキルアップを妨げ、結果として悪文が、難解な文章が居座りつづける。それこそが活字市場の衰退に拍車をかけたと考える。

4)活字市場を元気にするには
以上を踏まえると、活字市場はまだまだ伸びしろがあると考える。成長のためには単純だが次のことが必要だろう。
 ①一般の商品と同じように市場志向を徹底する。
 ②「読み手責任」を放棄、読書への敷居を下げるとともに「書き手責任」を徹底する。
 ③「分かりやすさ」に価値をおき、たとえ価値のある内容であっても悪文、難解な文には文章としての価値を置かない。具体的には悪文や難解文を教科書や入試問題から排除する。



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