学問から一般人を締め出す「俗説」というレッテルを拒否ろう!

【hellogから要約引用】
 tip [típ] 軽打,先端,チップ. この語には意味がいくつかあり,その語源も曖昧な点が多いが,「軽打」という意味では tap (軽くたたく),「先端」という意味では top (頂き)に関係があるものと思われる.
  「チップ」という言葉とその習慣も,コーヒー・ハウスで始まったとされる.コーヒー・ハウスには,真鍮の箱が置かれ,ウェイターのためにコインを入れるようになっていた.その箱には「迅速さをお約束するために To Insure Promptness」と書かれていて,この頭文字をとり「TIP」という語ができたといわれる.
 しかし,この語源説は怪しいようで,OED をはじめとした権威ある主要な語源記述では,この説は触れられてすらいない.語源の世界も,専門家向けと一般向けのレファレンスでは,そもそも交わっていないところがあり,語源学の難しさを感じさせる.

以上の引用を踏まえ私の考えを述べてみる。
ではいったいなぜOEDはコーヒーハウス説を無視するのか?
理由1:アプローチが違う
理由2:俗説は語源というに値しない
その上で、俗説を無視することは英語史の発展にプラスなのか?
考えてみたい。

理由1:両者の土俵が異なる
 OEDのようなアカデミックなアプローチから得られる語源と庶民の間でクチコミによって生まれる語源では、語源の捉え方もそれへのアプローチも異なるため、是非の議論は不可能であるため。
理由2:俗説は語源としての価値が低いのか?
 論点2で述べたように、語源のアプローチにはふた通りある。一つはアカデミックなアプローチ、即ち文献に証拠がある、時間的な整合性がとれているなど(血統書付きアプローチ)。もう一つは、そういった要件こそ備えていないが、国民レベルでの支持を集め、説得力をもつアプローチ(「俗説」と呼ばれる)。語源という面では両者対等なのだが(語源の定義がない以上)、後者の存在をストレートに認めると前者の権威は大いに揺らぐ。よって、「俗語」というレッテルを貼り差別化を図る。これは日本史の研究者たちが、「史料をふまえていない」という理由から小説家や哲学者の参入を阻むやり方を彷彿とさせる。

 ではそうした現在の状況は英語史にとってどうだろう?

「俗説」とは辞書的に言えば、「確かな根拠もなく、世間に言い伝えられている話」となる。「語源ではない」とまでは言い切れないが、アカデミックなアプローチで形成された説よりも価値が低い、というニュアンスが感じられる。「俗」という理論とは全く無縁の要素を入れて煙にまくのは反則技であり、代償は大きい。「俗説」という言葉が研究者と庶民の間の壁を作り相互交流、とりわけ庶民からの情報発信を滞らせる。「どうせ俗説扱いされるのだろう」となるからだ。
 もともと、真理に近づくという意味では研究者の主張も「俗説」も対等である。「英語史をお茶の間に届ける」heldioにおいて「俗説」は出禁にしたい。似たような言葉に「都市伝説」がある。「俗説」と違って庶民の間で生まれ庶民に支持されているイメージがある。何より特定の人を排除する姿勢がみえない。少なくとも「俗説」より断然いい!半分冗談だが半分本気でそう思う。


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