なぜ平泉試案は葬り去られたのか?プロローグ 平泉試案と出会うまで


 1974年当時参議院議員だった平泉渉が自民党政務調査会に提出したいわゆる「平泉私案」。日本の英語教育のあり方に重要な示唆を与えるその主張はなぜ葬り去られたのか?当時の状況を振り返りながら、これからの外国語教育、とりわけ英語教育のあり方について考えていきたい。

 私が平泉私案を知ったのは、今から5年ほど前、NHKの「カルチャーラジオ」だったと思うが、英語研究者・鳥飼久美子氏が登場、恐らく英語教育についての話だったと思うが、その話の中でこの平泉試案に触れられた記憶がある。おどろいた!40数年前にそんな議論があったとは!早速、2冊の本を取り寄せた。鳥飼久美子著「英語教育論争から考える」と平泉渉+渡部昇一著「英語教育大論争」。今でも色あせない平泉試案の魅力に吸い込まれた。
 そのころ、娘の大学受験に付き合っていた。娘は基本的に勉強は好きなのだが、受験勉強がどうしてもいけない。とりわけ、数学と英語。考えることがは得意だったが、暗記が大の苦手。若いころ私もそうだったので、根本的な部分から一緒に考えるようにした。
 数学は教科書や問題集から一旦離れ、「数学ガール」など数学の面白さを伝える一般向けの本を読んだ。成績はともかく、数学に対する興味は沸いたようだ。しかし、英語がうまくいかない。英語はやればやるだけ成果が現れる教科である。これは私の経験からも言える。が、やる気がでない様子。
 実は、ほかの教科はできるが英語だけは苦手という生徒は意外といる。これは受験にとって致命的だ。もちろん、数学嫌いも当然いるが、私立や文系を選択すれば数学を避けることができる。が、英語はできない。文系、理系を問わず入試科目に登場する。英語が苦手なままでは受験では圧倒的に不利となる。

 8年前、そんな娘を連れて地元高校主催の社会人向け講座に参加した。90分×10コマの5教科(倫社,古文,現代文、英語、物理)。どれも面白そう。しかし、英語だけは意欲が湧かない。残りの人生で使う見込みがない、つまり役に立たないと考えたからだ。それでも全科目参加が原則だったので仕方なく参加した。うち1回は、映画「タイタニック」の1シーンを観てのセリフの和訳。参加者はブランク40年以上くらいの猛者ばかり、ワイワイガヤガヤみんな楽しそう。意訳す段になると豊富な経験が炸裂、終わってみればみんな大満足!
 いったいこの面白さは何なのか?だれも英語なんてほとんどできない。でも、吹替版で映画を観るだけでは味わえない何かがある。これまでに学んできたスピーキング、リスニングなどの実用英語にはない楽しさがあった。
 そして、ハタと気づいた。使う見込みがないから受講に躊躇していたが、よくよく考えればおかしな話だ。なぜならほかの教科だって使う見込みなどないからだ。つまり、全く役に立たない。ところが、英語だけ…ほかの教科とどこが違うのだろうか?
 小学校では読み書きが中心。即ち、役に立つのが前提、使えるために学ぶものばかりだった。そして、中学校に上がると実用からはなれる。例えば算数は数学に変わる。その他の教科もステップアップ、実用を離れて一般教養的な位置付けになる。その中で英語はあくまで実用。幼少期の言葉覚えを中学生が学ぶのだ。本来家庭で自然と身につける言語習得を中学校でやらなければならないのだ。中学校で九九をやるようなイメージだ。小学校で身に付けた読み書き力を生かして様々な本を読み、学ぼうと思っている人間にとっては辛すぎる。
 子どもたちも可哀そうだが英語って可哀そうに思えてきた。なぜなら、現在の英語は他教科よりも断然格下、もっといえば学問のレベルにすらあがっていない。中学生に相応しい英語学習はないか?そんなことを考えているとき平泉試案に出会った。
 次回から本論に入ってきたい。


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