ストラング「訴求的記述」その1 歴史に始まりはない

【コンテンツの要約】
 現在の歴史学における記述の主流は、太古からはじまり、現代史をゴールとする記述方法であるが、本書のいう「遡及的記述」はこの逆で現代をスタートとして過去に遡る。(ゴールはない。)これは学習者の身近で関心の高い現代を先にもってくることで高い学習効果が期待できる。chap②0535しかし、デメリットもある。まず、それを具体化するのが難しい。肝心の本書においても、純粋に遡っているわけではなく200年単位で。しかもその200年の中では時系列記述。最大の弱点は時系列記述の良さ、即ち原因にともない結果が現れる分かりやすさを失うことだ。200年単位としてかつ内部では時系列記述としたのはそのためか?これはある意味ダブルスタンダードで学習者を戸惑わせると思われるので初学者には勧めていない。まずは時系列記述でひととおり理解したうえで活用すると味わい深いと勧めている。つまり玄人向けである。しかし、そうしたデメリットを補うに余りある超える効果がある。なぜ著者が「遡及的記述」に注目したのか?第一章の最後に次のようにある。①英語(歴史)にはじまりはないという事実を伝えられる。時系列的に記述するためにはスタートラインが必要。ところがそれは厳密な意味では不可能なので象徴的な年代などをもとにエイやとやるしかない。「遡及的記述」では、今をスタートとして、太古へぼやーっと消えていくので人間の感覚にも近く、何より嘘がない。②終わりがないという事実も伝えられる。③時代ごとに同じ質問を繰り返すことを余儀なくされる。このことが私たちの無知を気づかせてくれる。→umisio解釈:ストラングの言いたいことが今ひとつ??「時系列記述」は全てが記述者のペース(因→果)で進むので学習側が「なぜだろう」と問う隙間はない。「訴求型記述」では、段階(時代区分)ごとに常に学習者に「どうしてこうなったのか?」と問う必要がある。即ち、仮説→検証となる(問題解決型スタイル)。私たちはまっさらの状態でスタートする、と解釈できれば納得できそうなのだが・・

(はじめに)
 歴史に関する記述は一般的に古い時代から現代に向かって書き進められるが、バーバラ・ストラングは自著「英語の歴史AHistoryofEngrish(1970年)」において、現代から過去に遡る「遡及的記述」の効用について述べている。と言うより、むしろこちらのほうが従来の「時系列的記述」よりも本道であると主張する。これを聴いてすぐに日本史のことが頭に浮かんだ。学校の歴史の授業は、古墳や土地制度(公地公民制とか班田収授制、荘園など)という古くてかつ地味な内容から始まるので多くの生徒がスタートで挫折する。身近な現代から過去に遡るほうが面白いし、理解が進むはず、そんなことを考えていたことを思い出し、今回「訴求的記述」を深掘りしてみることにした。

(1)時系列的記述と訴求的記述の特色
 ①時系列記述 
 ・原因から結果へと自然に流れるので学習者の頭には入りやすい。
 ・同様の理由で記述者にとっても記述しやすい。
 ・現代から離れれるほど関心、好奇心が薄れるので学びのモチベ維持困難。
 ・同様に理由で問題解決意識がもちづらいので受動的な学びに陥りがち。
  (結果がわかっているので仮説を立てない)
 ②遡及的記述
 ・結果から現にへと自然に逆らって進むので学習者の頭にすっと入りにくい。
 ・同様の理由で記述者は記述しにくい。
 ・現代が起点になるので学習者の興味、関心が高くなる。
 ・同様の理由で学習者は常に問題解決、能動的な学びの姿勢が求められる。
  ・さらに、他分野(数学、科学など)との相互作用を生み出す。

(2)遡及的記述の激ヤバポイント
 「遡及的記述」が学習面にもたらすメリット(現時点で考えられる)は以上であるが、私はそれはあくまで副次的なものであると考える。本質的なのは「時系列記述」の致命的欠陥を明らかにし、さらに歴史記述のあり方に一石を投じた点であると考える。
 1)まずは次のことを明らかにした。たしかに、歴史というか事実というものは、原因から結果へ流れるものでああろう。よって、その流れに沿った「時系列記述」が理解しやすいのは事実であろう。しかし、ここが重要なのだが、その場合の「原因」とはあくまで事実、つまりリアルな原因であり、私たちが推定したところの原因ではない。そもそも、私たちが現在の地点からそのリアルな「原因」を特定することはできない。よって、「時系列記述」はあくまでその記述を理解する上で優れているのであって、歴史を理解する上で優れた記述法とまではいえない。
 2)さらに、ストラングは「時系列記述」の致命的な欠陥を明らかにした。「英語(歴史)にはじまりはない」しかし、時系列的記述をしようとするとスタートラインを設けなきゃいけない。(そうしないと記述がはじまらないから。)となるとどうするか?象徴的な事件が起こった年代などを参考にしながらエイやと決めるしかない。しかも、スタートはそこそこ古くないと分量的に体裁がつかない。そうなると、時系列記述における「はじまり」はさらに怪しくなりそうだ。
 3)以上の1)2)を合わせるとさらに重大な問題点が浮き彫りになる。エイや!と決めた地点からスタート、そこから結果→原因→結果と積み上げられていくわけだ。となると、万が一スタートが間違ってたら、それ以降の記述、書き上げられた歴史全体が疑わしくなる。ドミノ倒しである。
 「それでは今の歴史は間違っているのか?」次回は、日本史を例にとってこの「訴求的記述」を深掘りしていこう。

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