英語史の輪#4「書き言葉vs話し言葉」その1

(hellogから要約引用)
 言語学の研究対象は第一に話し言葉 (speech) 。書き言葉 (writing) は二次的.その理由は以下の通りである。(要するに話し言葉のほうがより根源的で本質的であるということ)
① 言語は話し言葉として発生。書き言葉の歴史は浅い.
② 個体発生においても,幼児はまず話し言葉を習得する.
③ 話し言葉の能力は先天的だが,書き言葉は常に後天的。
④文字のない言語の方が文字のある言語より圧倒的に多い.

 本題に入る前に、hellogの次の箇所に言及しておこう。(なぜ言語学が「話し言葉」を優先的にとらえているのか?に関係してくる可能性があるので。)
 「文字をもつ社会においては,書き言葉はその持続的な性質ゆえに話し言葉よりも高い地位を与えられてきた経緯がある.書き言葉をもつ現代の言語共同体でも,文書のほうが口頭よりも正式で有効なものとして優遇される.書かれると「えらく」なるのである.」
→たしかに、実用性が重視される社会においては、「書かれると偉くなる」(偉いという表現はともかく)というのはある意味たしか。しかし、実社会を離れ、研究の世界に入った途端逆転する可能性があるのだ。
 契約という話も出たのでそれを例に取りあげる。(40年前の法学徒で当てにならないがおおまかに)
 たしかに、実社会では契約は書面でないと信用を得られない。口約束だけ済ますことなどほとんどない。しかし、法的効果はどうなのか?という抽象的な世界に足を踏み入れると様子が一変する。「書面のあるなしは関係なく、意思を表明した時点で契約は成立する」となる。そうなると、書面はいらないのか?となるが、ズバリ「要らない」、つまり成立要件ではない。書面はあくまで契約内容を争う事態になったときその証拠として有用である、というに過ぎない。(と記憶するが…。)そして、書面という制約を振りほどいた民法の世界は百花繚乱、様々な学説が入り乱れ、多くの研究者の住処となった。
 言語学の「話し言葉」優先と同じ構造ではないか?
 つまり、社会(実用面)においては断然「書き言葉」が偉い👏!のだが、これが抽象論に引っ張りこまれると逆に「話し言葉」が偉い👏となるのだ。そして、hellogから引用した①から④のような錦の御旗が持ち出され、身動きがとれなくなる、反論のしようがなくなる。
 正論、美名の裏にはなにかある。「話し言葉」の世界、そこは「書き言葉」の制約から解き放たれた自由な世界。実用に制約されることなく自由に論じることができる世界。議論は尽きない、議論のための議論だってできる。そんな世界をそうそう手放すことができようか?
 空想はこれくらいにして次回から本題に入っていこう。


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