なぜ英語を学ばなければならないのか? 語学を身につけて原文を読むべきか?それともその時間を…
前回ご紹介したcaminさんのコメントに沿って述べてみよう。
まずは、camin さんのコメントとheldioさんのコメントバックを再掲。
二つのコメントにはいくつかの重要な論点が含まれている(前回紹介)。その中でも今回はcaminさんのコメント太字の部分に注目したい。要約すると、「ある外国人の思想をしっかり理解するためには、多少時間がかかっても原文を読むべきか?それとも、その時間を利用して日本語訳を大量に読むべきか?」ということだろう。
論に入る前に一言。ここで一番大事なのは、①この学習者に誰を想定するか?語学の専門家(志望含む)?一般社会人か?また、②想定している研究対象はなにか?語学と全く異なる分野かそうでないか?この二点を区別して議論しないと混乱する。逆に言うと、ごっちゃに議論すればが結論を出さずに済む。(英語学習は従来通りで傷がつかない。)
caminさんはフランス語史研究者で、今回の対象がフランス文学のバルザック、とかなり特殊なケースなので、一般の学習者(中高生含め)について適用できる事例を作ってみた。
用意した事例は二つ。一つは、吉田兼好の「徒然草」。吉田兼好の思想をしっかり理解するためには、手垢のついた現代訳ではなく、古文の文法を身に付けながら原文にじっくり取り組むべきか?それとも、現代訳で済ませ、それでできた時間を使って当時の他の古典を読んだり、当時の習俗や文化について学ぶべきか?
もう一つは、外国語で自然科学分野。ニュートンの「プリンキピア」。ニュートンの発見した運動法則、ニュートンの科学的思想をしっかり理解するためには、三流科学者の訳した本ではなく、ラテン語で書かれた原文にしっかり取り組むべきか?それとも日本語訳で済ませ、空いた時間で科学全般、近年の相対性理論などまで学んだ方が良いか?
まずは、この二つの事例についての解答を考えてみてほしい。少し問題の本質が少し見えてくると思う。
私の結論を先に言えば、どちらも圧倒的に後者が効果があると考える。理由は二つ。
(理由1)どんなに精読しても著者の真意に辿り着くのは困難
学習してもプロにならないかぎり、いやプロでさえも、著者の思想に肉薄するまで理解するのは難しいだろう。「徒然草」は大学入試の定番である。(少なくとも私の時代は)このことは、裏を返せば同じ日本語でも古語を理解するのは難しいと言うことだ。であれば原文をじっくり読み解くよりも、空いた時間でを関連本を読んだ方が著者を理解できるとなる。
もちろん、caminさんのケースは別だ。対象がバルザックというフランス文学なので専攻の語学と密接しており、自然科学におけるように専門知はど必要としない。また、語学の習得自体にも価値のあるため、前者が有利になることもあるだろう。
(理由2)これは理由1の裏返しだが、精読には誤訳のリスクがある。
著者の真意に辿り着くのが困難であるだけではない。真意に肉薄すればするほど微妙な点での解釈が大事になり、その分、誤訳のリスクが高まる。一つのものを精読するという行為はそうしたパラドックスを孕んでいるのだ。
加えて、自然科学系の翻訳本では、その分野の専門についての理解度が影響する。極端ななはなし、語学力のスキルを磨くだけではそのリスクを回避することはできない。つまり、その本を精読する時間をその分野、周辺の分野について学ぶ時間に回す方が正解、と言うことだ。ニュートンという自然科学系の事例をあげたのはこのためだ。
数年前、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を読み、その訳の素晴らしさに感激した。この本の翻訳者の語学力、日本語力、それ以上に数学についての力量である。調べてみると訳者の青木薫さん、物理学者である。つまり、正確な訳は語学の能力プラスその分野の精通度が生み出すといえる。というより、その分野の人が語学を学び書き表すのがあるべき姿なのだろう。
ちなみに、私の専門分野での経験を一つ。翻訳がどうしても納得いかなかった箇所があったので読解には自信がなかったが原本を入手、該当の箇所を読んでみた。実力は中学校卒業程度に下がっているが、意外や意外、誤訳の箇所に気づき、納得のいく訳を導きだすことができた。ある程度の語学力さえあれば、精読や語学習得に費やす時間を著者の分野、周辺分野の学びに充てる方がその著者、本への理解も高まるのでは?と考えた。
(理由3)相対化して真相に迫る
理由1、2は、原文にじっくり読むことのマイナスから導いたが、最後は後者のプラス面、つまり、空いた時間を他に充てることの必要性に注目したい。言語学の話だが、一つの単語の意味が決まるためには、他の全ての単語の意味と「異なる」ことが必要だとされる。つまり、単語の意味は他の単語の意味との関係性で決まる、というわけだ。これと同じように、研究対象者の独自の思想を理解するためには、代表作を深く掘り下げるだけではダメで、あわせて、当時の歴史やほかの研究者についても知ることが欠かせない。ニュートンを理解するためには「プリンキア」をじっくり読むのではなく、その背景の数学、物理などについての学習、ガリレオ、さらにはアインシュタインについても知ることが重要となろう。
(まとめ)
caminさんの問いを改めて、
「…その段階まで外国語を習得するには多大な時間と労力が必要になります。英語の学習時間を英語圏について日本語で書かれた文献などを読むのに使った場合、異世界を理解し、新しい発想を得る上でどちらが有効性が高いでしょうか?」
「バルザックの短編小説一編を1年かけて原文で読んだ人に比べて、その間にバルザックの小説を翻訳で100冊読んだ人は、バルザックの理解が浅いと言えるか?」
先ほども述べたように、caminさんをこの事例の学習者として想定するのであれば、前者も選択肢の一つであろう。すでに読み解きのための語学力もフランス文学造詣も十分、仮に、学習する時間が必要だとしてもそれはスキルの習得としてプラスにカウントされる。
しかし、中学生がなぜ英語を学ばなければならないのか?(もちろん高校生でもいい)となると話はだいぶ違ってくる。岡倉天心や新渡戸稲造の時代であれば情報源は欧米しかなく、英語の語学力は必要不可欠だった。しかし、現代は違う。日本人研究者もいるし、翻訳本も山ほどある。まだ進路の定まらない中高生が、翻訳本よりも正確な情報を得るために英語を学ぶ必然性はない。その時間があれば、翻訳本を大量に読む、関連分野について学ぶ時間にあてる方がその目的を達成することができるだろう。
これは言い換えると、中学校で英語を学ばなければならないのは、そのような理由のためではないということだ。というわけで、中学生が英語を学ぶ理由は別のところを探さなければらない。それはなんだろう?その答えは英語史にあるような!?
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