YouTube井上堀田「読み手責任と書き手責任」~石井光太著「ルポ 誰が国語力を殺すのか」にみる読み手責任

(コンテンツの要約)
導入は村田和代「優しいコミュニケーション」(岩波新書)の紹介。
聞き手思考vs話し手思考のおはなし。
書き手責任vs読み手責任(Hind,1987)…書き方指南の本
→文章の意味が分からなければ書き手の責任
対して、日本は読み手責任になりがち。「わかってよ~」的。
empacy空気を読む。思いやり。日本の美徳。
欧米圏の国語…「書く」の割合大。パラグラフライティング、アカデミックライティングなどを小さいときからやらせる。
日本では読解力が重視。行間を読むとか。最近は少し違う。
しかし、日本でも最近、話し手責任が高まってきている。「ちゃんと言わないと。国際化、インターネットの影響も。
最近、主語を言わなきゃいけなくなった。だれだれ君!語用論が変わってきつつある。異文化→日本(同じ言語同士)フラグメンテーション。紅白歌合戦の長時間化、オリンピックの多種化

 複数の論点が含まれているが、今回は「読み手責任」と「書き手責任」について述べてみよう。コンテンツでもあったように、日本はどうも「読み手責任」の方が強く求められるようだ。このことがもたらす弊害について書き進めていたところ、この点について論ずるにあたってまたとない本をネットで上発見、これに沿って書き進めることにした。
 その本とは石井光太著「ルポ 誰が国語力を殺すのか」(文芸春秋刊)。2022年に出たこの本、5刷されておりかなり読まれているようだ。著者は貧困や格差などの社会問題を中心に取材、執筆している作家という。 彼が子どもたちの国語力を取り上げるきっかけとして「序章」で紹介している話題がまさに日本における「読み手責任」を象徴している。

  1.  石井氏は序章で「ごんぎつね」の読めない小学生たちを取り上げる。どういう内容か?ざっと要約する。石井氏がある公立小学校の国語の授業を見学したときのこと。クラスは小学4年生で題材は日本ではお馴染みの「ごんぎつね」(石井氏によると半世紀以上も国語の教材として用いられているとのこと)。先生がこの物語の一つのシーンについて児童に説明を求めたところ、耳を疑うような非常識な発言が飛び出したというのだ。授業終了後、石井氏が校長にそのことを伝えると、校長も「残念ながら他校でもしばしば経験してきた。」「こうした子たちは読解力以前の基礎的な能力。登場人物の気持ちを想像する力とか…常識に照らし合わせればとんでもない発想をしているのに気づかず、手をあげて平然と答えられてしまう。…」などと今の児童がいかに基礎的な能力がないかをなげき、石井氏はここから現代社会が抱える(と石井氏が思う)問題に舵をきっていく。

  2.  さあ、ここまで読んで気になる点はないか?子をもつ方はどうだろう?私には3人の子がいて、暇にまかせて保育園時代からその友だちも含めて付き合ってきたが、私たちの世代より能力的に劣っていると感じたことは一度もない。むしろ私たちの世代よりも冷静でものごとを考えている、と感じている。そのため、この箇所を放って先に読み進むことができず、「ごんぎつね」の実際の文章を確かめたくなった。原本にあたってみるとその箇所は次のようなものだった。

十日ほどたって、ごんが、弥助(やすけ)というお百姓の家のうらをとおりかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内(かない)が、おはぐろを付けていました。かじ屋の新兵衛(しんべえ)の家のうらをとおると、新兵衛の家内が、かみをすいていました。ごんは、「ふふん。村に何かあるんだな。」と思いました。
「なんだろう、秋祭りかな。祭りなら、たいこやふえの音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりがたつはずだが。」
 こんなことを考えながらやってきますと、いつのまにか、表に赤い井戸がある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、おおぜいの人が集まっていました。よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえています。「ああ、そう式だ。」と、ごんは思いました。「兵十の家のだれが死んだんだろう。」
 お昼が過ぎると、ごんは、村の墓地(ぼち)に行って…

新美南吉「ごんぎつね」より一部抜粋

 で、先生は児童たちを班にわけて「鍋で何を似ているのか」などを話し合わせたところ、
「兵十の母の死体を消毒している。」
「死体を煮て溶かしている」と回答したそうだ。
 この発言に石井氏は驚いて、次のように述べている。
「当初、私は生徒たちがふざけて答えているのだと思っていた。だが、八つの班のうち五つの班が、3,4人で話し合った結論として、「死体を煮る」と答えているのだ。」「初めてのことなら、苦笑いして流していただろう。だが、似たような場面に出くわしたのは一度や二度ではなかった。」と。
 では、みなさんならこの箇所をどう読み解くか?

 問題はこの箇所だろう。「大きななべの中では、何かぐずぐずにえています。「ああ、そう式だ。」と、ごんは思いました。」
 ポイントはこの「何か」という言葉と「にえています。」のすぐあとに
「ああ、そう式だ。」がきているところ。「何か」という言葉が、単なる食材ではない何か、トピックとなるような「何か」を連想させる余地を含んでいる。何か煮えているのをゴンがみてすぐに「葬式だ」と気づいたことが、煮えているものと死者をつなぐ余地を生じさせている。
 この表現では、大人でも「何だろう?」となるだろう?生徒たちは、先生から「何を煮ているの?」と訊かれて、きっとここは何かポイントがあるに違いないと想像力を膨らませて、常識とは違う答えを導き出したのだろう。
これこそ書き手の責任を読み手に転嫁する典型的な事例だ。
 ここの文章は明らかにおかしい。この話の流れで「何か」という言葉を入れると「なんだろう」と興味をそこに集めてしまうので削除したほうがいい。その代わりに具体的な食材を書く。いや、そもそもこの煮炊きの場面は必要か?全体の流れからすると削除したほうが誤解が生まれない。
 しかし、ま~なぜ本題とは関係のないようなこの箇所を班分けしてまで生徒たちに話合わせたのだろうか?これが本当の話だったとしたら生徒の国語力の問題というより、学校教育の問題であろう。そして何より問題なのは、問題を何とか探し出して社会に警鐘を鳴らそうとする人々の存在である。彼らの存在については別途「なぜドラマの黒幕はいつも政治家なのか?~偽エリート大国・日本」というタイトルでアップしよう。

 少々脱線した。実は、この本だけではない。日本には「書き手」を絶対視して、「読み手」側に責任を求める風潮が強い。この風潮が生み出す弊害はいくつかもあるが、その一つは、これによって「難解文」「悪文」が淘汰されず、結果的に「活字文化」が敬遠され、衰退していくということだ。要するに自分の首を自分で締めているわけだ。
以上。



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