ストラング「訴求的記述」で日本史の「史料主義」を一刀両断!

 前回は、日本史の公地公民制、班田収授を素材に「時系列記述」の問題点の一つ、存在しないはずの「はじまり」を定めることで生じる問題点について考察した。今回は、現在の日本史界隈においてみられる「史料主義」にストラングの視点から焦点をあてたい。
 「史料主義」とは、日本史研究者たちが外部からの考察に対して「史料が存在しない」という一点で排除しようとする姿勢を指して使われる言葉である。例えば、ある日本史研究者は、「司馬遼太郎さんの作品はあくまで小説、あれを歴史、史実だと考える人が多くて困る。」とぼやく。これなどもストラングの「遡及的記述」の立場からすればおかしい。現在から過去に遡及する研究方法からいけば、史料の有無は絶対ではないからだ。

そもそも史料は次のような性格を有する

①その当時当たり前だったことは記載されない
 私たちは日記に歯磨きをしたこと、トイレに行ったことなど普通は書かない。当たり前のことを記録する意味がないからだ。書くとしたら普段と違ったことを書くことになる。だから、当時のことを記録から知ろうとするのは意外と難しいし、注意が必要となる。歴史家の中には「史料として残っていないものは信用できない」という人がいる。先ほどの意味からいえばとんでもない、むしろそれが真実である可能性が高い。日本史界にみられるこのような史料主義は、歴史の解釈を誤る危険性をはらんでいる。

②うそが書かれている可能性がある
 当時は現在よりも紙は貴重であるし、今のように書かれたものを活用する人間はごく一部である。よって、記録は何か特別な意図があるときになされると考えた方がいい。(法令や日記文学など)その特別な意図の典型が、中国の「易姓革命」である。即ち、悪政を施した政権は天の意思によって倒される、という思想があるので、倒した国は前の国がいかに悪行非道を施していたかも記録に残す。
 日本史においては「日本書紀」の内容が、当時の国際関係を意識して記録された可能性、あるいは皇統の正当性を示すために記録された可能性があり、内容の信憑性についていろんな意見があるところである。

 以上みてくると、史料の存在を重視しすぎると、史料に現れてこない史実をない見落としたり、嘘の史料に振り回されることになる。

なぜ史料主義が大手を振っているのか?

 では、そうしたリスクがありながら、日本史においてはなぜ「史料主義」、即ち史料の存在を絶対視するのだろうか?
 これを考える際に、ストラングの考え方が力を発揮する。ストラングは現代から過去へと遡る「訴求的記述」の利点を三つあげている。(以下、訳はhellog#1340より。)
 一つは、英語にはじまりがないという事実を強調できる、二つ目が、英語に終わり(目的)がないという事実を強調できる、三つ目に、同じ質問を各時代の記述において繰り返すことを余儀なくさせ、現在の時点における我々の限界(無知)を思い起こさせてくれる。(残念ながらこの部分が分かりにくい。ストラングの思想からこう訳することができないか?即ち、訴求的記述では常に現代から遡って分析する。そうなると、毎回毎回新鮮な目で見ることになる。つまり、思考にとらわれ、史料にとらわれない。というわけだ。)
 ところが、一方の「時系列記述」は「はじまり」を前提とする記述法である。よって、本来存在しないはずの「はじまり」をどこかから連れて来なければならない。と言っても、「この際、適当に選んで…」と言うわけにはいかない。歴史の「はじまり」となるわけだからそれなりの由緒が必要になる。考古学上の発見や史料があれば最上だ。もちろん、史料には先ほど述べたような落とし穴、リスクがある。しかし、ブツがあるのは強い。
 そうやって「はじまり」が作られ、そこから歴史の記述がスタートすると、スタート以降の史実にも史料優先の法則が適用される。そうでないと整合性が取れない。だから、いくら理論上正しいと思われる史実であっても、全く史料がなければ認めにくい。逆に、史料さえあれば理論はそこそこでも史実として採用される。例えるならプロレスのようなもの。あくまで興行である。ルールを無視して真剣勝負を挑んでくる人間は退出させられるか無視されるかのいずれかだ。
 そうした中、もっともタブー視されているのが日本書紀。なにしろ日本のはじまりを記した「国記」である。これを否定されたら「はじまり」がゆらぐ。もっとも、かなり史実としてありえない部分もあるのでその部分についての批判は自由、しかし、史料価値に関わるような部分についての批判は許されない。そうした一見すると緩く見えて一線を超えると厳しい縛りがある。




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