言語学者が「言語化」という表現になぜ違和感を抱くのか?勝手に考えてみた。

 8月18日の配信で「言語化の流行」について語った3日後の8月21日、voicyにおいて「言語化」が#企画となったことを受けその日に「言語化」をテーマに配信。それを受けてコメント欄も大いに盛り上がっている。では、なぜ言語の専門家は「言語化」という言葉に違和感を抱くのか?言語学の専門家になったつもりで考えてみたい。

(コンテンツの要約)
#809 私はなぜ「言語化」を使わないのか?①出力するのは当然のこと。みんなにすごく必要な能力なの?②どうやったら言葉になっていくのか?を研究している。言語化そのものを研究している。言語化が簡単ではないから研究している。だから軽々しく使いたくない。③言語化された時点で伝えたい内容の何割かは捨て去られるが、他人に伝わらないはずの考え方が7、8割くらいは伝わるのでオッケー。同じことを違う角度からひたすら言語化すると漏れがなくなってくる。英語史に関しては伝え切った、という感覚がある。言葉は意外とすくい取ってくれる。④楽観的にも悲観的になってもいけない。言語化=言葉で通じ合うことは大切だ、は公的な部分では確かにそうだが、私的な部分では言語化したくない。言語化しない、できない、漏れてしまう部分こそがほんとは重要。共有されうることはそんなに大切ではないのでは。
(umisio所感)①と②についてはおおいに共感できるが、③、④については「言語化」という言葉自身というより「言語化すべき」に対する違和感のような。「言語化」の流行の一面だけを切り取っているのでは?
#812   なぜ違和感を抱いているのか?おそらく、言語化という三文字に単純化されているからでは?と自己分析している。公的には言語化は当たり前…(以下#809と同じ)。流行語になると一人歩きしてしまい、何でも言語化することがいいことだ、と受け取られかねない。言葉にすべきでないこともある。タブー(死、性、差別など)。コミュニケーションを遮断する側面(暗号など)もあるのに、言語化の流行は後者の側面は視野には入っていないのでは?流行語になってしまうとなんでもかんでも言語化することがいいことだ、という雰囲気になるのが心配。三文字で名詞化することで概念がカプセル化(しかも漢字)、「言葉にすること」という言葉があるのに難しめに漢字にすることで見栄えが良くなる。で、流行語になると消費されて終わる、と軽い概念に見えてしまう。短期間だけ消費されて終わり、にはなって欲しくない、という思いもある。

 コンテンツの内容には多少分かりにくい部分があるので、これにそのまま乗っかって違和感の正体を探り当てることは難しい。よって、凡そのところを頭の隅に置き、私なりの経験と解釈を持ち出し、言語学者が「言語化」になぜ違和感を抱くのか?考えてみたい。

 「寄り添う」という言葉がある。もちろん昔からあった言葉だろうが、東日本大震災のときだったか「この言葉しかない!」という場面(家族や友人など大切な人に対して何もしてあげられない、何の言葉もかけられないという手も足も出ない状況)で使われたことで世間の注目を集め(だったと思う)、結果、いろんな場面で使われるようになった。もちろん、その場にあった表現が発掘され、多くの人が使えようになるのは喜ばしいことである。しかし、それも程度を越せばマイナス面の方が大きくなる。
 「寄り添う」という言葉は徐々に、「一緒にいる」「付き合う」「付き添う」で済ませられる、済ませてきた場面でも多く使われるようになった。そうなると当然ながらインフレを起こす。結果、以前使われていたような大事な場面で使えなくなる。(作家によっては「手垢がつくから」と言うが、インフレが原因と考えるほうが妥当のような。)
 今回、「言語化」の流行を聞いて真っ先に思いついたのがこの「寄り添う」の末路だ。「言語化」しかり。自分の思いを言葉にする程度のことなら「言葉にする」で十分ではないか?(本のタイトルで名詞化が必要なら「言葉化」でどうか。)こんなに「言語化」があちこちでいい加減に使われるようになると、本当に使うべき場面で「言語化」が使えなくなる。これは言語を仕事にする人たちにとってはただならぬ事態であろう。
 ちなみに、「言語化」はどんな場面で使われるのが相応しいのだろう?想像してみる。
 まず、「言語化」は個人間の会話レベルで使う言葉ではないように思える。もっとマクロなレベル、例えば、人類の進化に関わるような場面とか…まだ言葉を持たずジェスチャーで情報をやり取りしていた人類が、その胸のうちを言葉にした瞬間とか、発した音声を文字という形に固定化した瞬間とか。そんな言語上の革命的現象に相応しい言葉のように思える。間違いなく言えるのは、胸のうちの思いを言葉にするという程度の意味で「言語化」が使われるのは相応しくない、大仰であると言えるだろう。
 そして、こうした言葉がもたらす弊害、危険性を感じたときに声を上げるのは、言葉を職業とする人間の責任でもあろう。(プロフェッショナル論になるので説明は割愛。)
 しかし、それはそうなのだが、この現象に対して正面から異議を唱えるのは難しい。なぜなら、①言葉をどう使うかは最終的には個人の自由であり、使い方を強制することはできないから。②言葉は変化し続けてきたから。「若者の言葉」や「ら抜き言葉」は許容されながら「言語化」だけダメとはならない。であるからこそ、「言語化」の流行の前に言語学者は言葉を失ってしまうのかも。
 同じようなことは、言語以外の世界でも起こりうる。自分が専門家としてきちんと使っていた知識、流儀とは異なるやり方が大手を振る、という状況にやり切れない思いをすることは他の分野でもあるだろう。そんなときは、自分が否定されたような気持ちになって心穏やかではいられない。私の場合も二度や三度経験した。怒り、焦り、イライラ、諦め…マイナスの感情に振り回され、憔悴したものだ。
 そんなときに決まって思い出すシーンがある。脚本家の山田太一氏のエッセイ集(「路上のボールペン」?)に収録された台本の1シーン。細かい設定や言葉は忘れたが、内容はだいたいこんな感じだ。主人公は若い男性。その彼には数年付き合っている彼女がいる。その彼女が突然、キャリアアップのためにアメリカに留学すると言い出す。あまりに突然のことで彼はうろえる。告げられたその場で彼女に何も言うことができなかった彼は、自宅に戻ると母親にそのことについてまくし立てる。

「何の相談もなく突然そんなことを言い出すんだ。」
「日常会話もできないのにアメリカにいくなんて無謀だよ。」
「普通は、何年か計画的に勉強していくもんだよ。」
「そもそもキャリアアップするなら海外という発想自体おかしいんだよ。」
「ま、彼女の人生だから決めるのは彼女だ。オレがシノゴの言うことはない。」
「ただ、彼女の将来のためにどうなんだろう?って思うんだよね。」
そうやって喋りつづける息子の話が終わる、それまで黙って聴いていた母親が一言。
「お前、寂しいんだね。」
 ……
 私たちは問題が起こると理屈だけで考えようとする。できるだけ、個人的な要因を取り除いて、客観的な事実に基づいて考えようとする。そして、相手側の理屈にこちらの理屈をぶつける。そうすると、相手側から理屈が返ってくる。それはある意味当然。物事には両面ある。こうだとも言えるしああだとも言える。ディベートを経験するとそれを痛感する。なかなか理論的には折り合いがつかずに、違和感だけ残り続ける。では、そのような状況になったとき、どうしたら良いのか?理屈ではなく自分の感情に目を向け、理屈ではなくその感情を相手に伝える。感情に正しいもクソもない。感情に対して理屈で反論などできない。素直な感情の表明を受けると、相手も素直な心で受け取れる。

 例えば、大切にしている万年筆があり、大切な人に手紙を書くときだけ使っている。その万年筆を家族全員が「ちょっと貸して」とメモの走り書きに使い始めたとしよう。大切な万年筆をそんなメモ書き程度に使って欲しくない。家族にどう伝える?
 理屈でいけばこうだ。万年筆は素人では使えない。力の入れ方が難しい。下手に使うとペン先が割れる、濡れると滲んで相手が読み辛い…使うべきでない理由はいくらでも思いつく。では、そんな理由を並べ立てると納得して家族は使わないようになるか?いや、かえって話がこじれる可能性がある。「じゃあその問題さえクリアすれば使ってもいいんだろう」と理屈で反発したくなる。で、こちらも納得して「たしかにそうだ」と折れるか?というと、心のザワザワはおさまらない。
 なぜか?使って欲しくない本当の理由は、大切にしている万年筆をみんながぞんざいに使っている、そのことが悲しく、腹立たしいからだ。それが嫌だと気づけばそれだけで心が少し軽くなる。そして、家族に対して派、その万年筆が自分にとってとても大切なものであり、メモ書き程度に使われると悲し苦なるので使って欲しくない、と伝える。すると、そんな気持ちにできるだけ沿ってあげたいと思うもの。解決の糸口が見つかるかもしれない。
 さて、「言語か」である。たしかに「言語化」の流行には問題点がある。言語を職業とする人がその点についてきちんと批判することは大切だし、それを伝える責任もある。しかし、自分の感情の部分にも目を向けてそれを認めてやることも同時に必要である。これにより、少なくとも自分の心は静かになる。もしかすると、解決に向かうことだってあるかもしれない。
 たしかに、公的な場で個人的感情を出すのは難しい。そんな感情すら「言葉にする」ことができる場所。「英語史の輪」がそんな場所になるといい。

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