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【エッセイ】父の焼きおにぎり

 昔、父が焼きおにぎりを作ってくれた。おにぎりを作って一度、トースターで焼く。白米の焼ける、ふんわりとした香りが広がる。取り出して醤油を塗って、もう一度、焼く。醤油の香ばしい香りが広がる。父は「二度焼きするとおいしい」と少し得意げに私に話してくれた。父が作ってくれた焼きおにぎりは、とてもおいしかった。

 その味を思い出して、大人になった私は焼きおにぎりを時々、作る。勿論、二度焼きだ。白米の焼ける香りと醤油の香ばしい香りがダイニングに広がる。

 父が作った醤油の焼きおにぎりの香りに触れたのは、もう二十年以上前になる。そこから現在まで、私はほとんど焼きおにぎりを作って来なかった。作ることを、忘れていた。

 父が亡くなり、父の思い出を思い出している日々の中で「焼きおにぎり、昔に父が作ってくれたっけ」と思い出し、自分で作ってみたのだ。そして、白米の焼ける香りと醤油の香ばしい香りに触れて、私は一冊の本が風に吹かれて、ばあっとめくれるように父のことを思い出した。

 母と離婚して、家を出た父。私が父の家に行ったら嬉しそうに出迎えてくれたこと。オレンジジュースを買ってくれたこと。古い洋楽を一緒に聴いたこと。一緒に暮らしたいねと話したこと。近所の焼き鳥屋さんに一緒に出掛けたこと。焼きおにぎりを作ってくれたこと。そういったことを次々と思い出し、やがて父の笑顔が浮かんだ。

 きっかけは、香りだった。父が作ってくれた、焼きおにぎりの白米と醤油の香り。二十年以上前のその香りを、私は父の思い出と紐付けて覚えていたのだ。自分でも驚いた。私は焼きおにぎりを作ると、いつもより鮮明に父のことを思い出すようになった。

 香りとは、自分が意識していなくとも心の奥底に眠っているものだと知った。料理の香り、花の香り、本の香り。そういった身の回りの香りに息づいている人の心、季節、自分の思いを私は大切にして生きて行きたい。                                     


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