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【エッセイ】季節を生きる者

 真夏の太陽の光に負けまいとするかのように鳴く蝉の声を聞くと、誰でも良いから運命の存在になってくれないかと鳴き叫んでいるのか、それとも、たったひとつの存在を求めて鳴き叫んでいるのか分からないなと良く考える。また、自らの子孫さえ残せれば良いのか、それとも、生まれた喜びを分かち合いたいのか、そんなことも思う。

 私は正直なところ、ただでさえ気温が高く暑い日に外でみんみんと鳴く蝉たちの声を聞くとうんざりするが、陽光の光輝にこそ蝉の鳴き声は相応しいと思うくらいには、その声に生命力と、同時、どこか遠い場所に置き忘れて来てしまった物悲しさを感じる。それはきっと私自身を蝉と重ねているからだろう。ひと夏の季節も越せずに生命を謳い鳴き消えて行く蝉の短くも力強い命に憧れ、同時に生じる儚さに惹かれているのだろう。

 一年を巡る季節の中で一番嫌いな季節、夏。この季節が訪れるたびに私は自身の生命力の弱さ、危うさを強く意識せざるを得ない。陽光の光を受けてきらきらと輝く緑の葉や、高く遠い青い空に白い雲。鳴き叫ぶ蝉たち。その全てが目ざわりだった。消えてしまえと思うくらいに。夏は極力、出掛けないし、夏服もほとんど持たず。夏という季節が過ぎ去るのを私は土の下で、じっと待っている。そんな過ごし方を十年以上はして来た。土の下は案外とあたたかいし、誰にも邪魔されることはなくて快適だから困ることはなかった。

 ただ、時々は夏のさなかでも光が恋しくなって、光を求めて、友人を恋人を求めて電子の力に頼り、メールや電話をすることもあった。だが、そのたびに言い様のない虚しさが私を襲った。皆、夏という季節を過ごせるだけの体力も気力もきちんと持っていた。そのことに気付かされるのだ。友人たちは皆それぞれに悩みを抱えながらも夏という季節から逃げず、向き合い、生きることを諦めていなかった。いや、私だって生きることを毎夏のたびに諦めているわけでは決してない。だが、どうしても夏特有の緑の濃い空気を体に感じることや、熱気に晒されることや、蝉たちの鳴き声を聞くことは好きにはなれなかった。私が弱いからかもしれない。 

 四季のある日本は暮らしづらいと言われているのを聞いたことがある。夏や冬のように気温が極端に上下するのは確かにそうだし、洋服も季節ごとに揃えなくてはならない。面倒に思えるのは否定出来ない。喘息もある私は気温差で息が苦しくなるので、その点を鑑みても一定の気温で一年中を過ごせる国は楽だろうなと思う。だが、面倒なことの中にこそ何か大切なものが潜んでいる気もする。だから私は四つの季節の中で最も煩わしいと思う季節、夏の中に私の探し求めている見えない何かがあるように思えるのだ。よって、私は夏から逃げ出すことは考えていない。毎年の夏が来るたびに私は「引きこもりたい」と考えると同時「今年も戦う季節が来た」と生への積極的意欲を高めるのだ。

 しかし二〇一八年の夏は私の勝利なのか敗北なのか。

 ――私が夏に勝てる日は来るのだろうか?

 いや、夏だけではないのかもしれない。春も夏も秋も冬も、勝って勝って勝ち続けなくてはならないのかもしれない。それが、この世に生きる者として存在する意義なのかもしれない。小さな頃から競争化社会の基本を教えられ、徒競争でも一位を争い、進学の為の受験では合格点を得ようと必死になる。そして良い学校に入り、良い会社に入ることを良しとされる。だが、私のようにその道の半ばで心折れてしまったり、道の先で迷い休んだりした場合、どうしたら良いのだろう。休んでいても時間は過ぎ行き、季節は移ろう。そして過ぎた時間の先で、道に戻ろう、もう一度また歩き出そうとした時、この世は生きることに優しさを添えてくれるのだろうか。

 私は志半ばで休憩を長く取ってしまった時、頭上でじりじりと真夏の太陽が照り付けているように思えてならなかった。決して心のままにゆっくりと休めたことはない。そして長い休みの後に道に戻ろうとした時、私は夏という季節の中心をたったひとりで日傘だけを差して歩くような勇気を必要とした。その季節特有の太陽の輝きは強く眩しく、手の届かない絶対領域の中にありながらも私を焦げ付かせるようにひどくてらてらと自らを誇示している。そう思えてならなかった。私など夏のさなかで鳴くことしか出来ない蝉の一匹に過ぎないのだと。自分はとても小さく無力で儚い存在だと。そう考えてしまっていた。

 けれども太陽がなければ動植物は生きては行けない。夏の太陽に照らされることで動物も植物も力強く生命を謳う。光がなければ皆、生活して行けない。ただ、太陽とは皆を励ます存在でありながら、私をひどく焦らせる存在でもある。私の頭上にはいつも光り輝く太陽がある。それに励まされ後押しされながら、そして時に焦燥を与えられながら、私は四季を過ごし生きている。

 今年の夏を生きた蝉が一匹、自宅のマンションの階段で死んでいたのを見た。この蝉は自らに与えられた命を精一杯に生きたのだろう。傷んだ翅がそれを物語っていた。土の上に出た喜びを謳歌しただろうか。愛する者と出会えたのだろうか。もう二度と生まれては来ない蝉の姿が私の目に焼き付いた瞬間だった。

 生きるということに本来は勝ち負けなどないのかもしれない。たとえば、ひと夏の季節を生きた蝉の姿に勝ち負けがあるだろうか? もし、愛する者とつがいになれなくても、子孫を残せなかったとしても。それでも蝉は懸命に生きただろう。これは人間にも植物にも、どの命にも言えることだと私は考える。

 私は夏に――季節に、時間に、勝つことだけをずっと考えて来たのかもしれない。そしてまた他者や自分自身にも。しかし、それでは移り行く季節の中に隠された大切なものに出会うことは出来ないのかもしれない。

 今年の夏は過ぎ去ってしまい、今、季節は秋になろうとしている。過ぎた夏を思うと後悔もある。体調を崩して自分の夢を叶える為の時間をあまり作れなかったことや、病気を寛解させる努力を怠ったこと。だが、振り返ってばかりもいられない。新しい秋という季節が訪れようとしているのだから、秋を生きて行く力を備えたいと思う。

 気温も天気も変化する日本特有の四季という季節の中を過ごして行くのは、簡単なようで難しいのかもしれない。その季節ごとに似合う自分というものを探し出せるかどうかに鍵があるように私は思う。見付け出すことは容易ではないだろう。体調を整え、時間を遣い、天気を見て、季節のように移り行く世の中の流れというものを読むことが重要になる。そして、舵を取るのは自分自身だということを忘れてはならない。どんなに暑い日も、どんなに寒い日も。しかしながら休息も必要だ。夏に木陰で涼むように。冷たい水を飲み干すように。また、あたたかい紅茶を味わうように。

 私はずっと、自分自身に勝ちたかったのかもしれない。夏という季節に本当は強く憧れ、その力強さに羨望し、自分は弱いやつだと思い込むことでどこかで逃げていたのかもしれない。毎年の夏ごとに戦うふりをすることで、逃げ出してはいないと、そう言い訳をしていたのかもしれない。

 自分の気持ちを見定めることは簡単なようでいて、その実は困難なことだと私は考える。だが、これからは夏に――季節に勝つことではなく、季節の中を強くしなやかに生きる者としてありたいと切に思う。そして、人に優しくありたいと思う。

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