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【日記】光を追い掛けて行く日々

STU48の「独り言で語るくらいなら」という歌が好き。特に「もう誰も もう何も 羨ましくなんかない」の歌詞と、其処の歌い方が好き。 この歌を聴いていると、Twitterを思い出す。


 Twitterに書いたものです。
 (Xという呼称には慣れない)

 むかしは、モーニング娘。の歌を良く聴いていました。女性ボーカルで、複数のひとが歌っている歌が私は好きな模様です。カラオケで歌うのも、女性ボーカルの歌が多いです。

 上記の歌詞のところがとても好きなのです。

 私は良く「いいなぁ」と思ってしまいがちです。その対象は、化粧水や文房具や図鑑のように物であったり、ひとであったりします。そのひとの生活環境、職場環境、生き方、考え方など、ひとが対象の場合は様々にその点が広がります。

 私の母が言っていた言葉で「人は人、自分は自分」というものがあります。私が子供の時は良く分かっていませんでした。ひとのこと、いいなぁって思うことのなにがだめなんだろうと思っていました。でも、いまなら少し分かります。ひとをいいなぁと羨んで、其処で終わってしまってはだめなように思うのです。いいなぁ、という思いから次のステップに進めるのならば無駄な感情ではないように思います。(感情に無駄なものはないのかもしれませんが)

 ただ、私は「より良い生活」を目指して最近ずっと行動していますが、そればかりでは疲れてしまうような気もして来ています。次のステップに繋がる感情・心情・行動、より良い生活、活動的、生産的。そういった言葉や、それらの示すものはとても素晴らしいものだと思います。けれど、輝かしいものや素敵なものばかりを追い掛け、目指していると、少なくとも私は反動が来ます。もういいや、休みます。そうなってしまうのです。何事もバランスが大事だと思います。中庸ちゅうようとも言うかもしれません。

 光を追い掛けて、目指して行くことには疲れが伴います。そう、私は思っているのです。

 最遊記という漫画の言葉で「誰も彼も光ばっかり追いかけて虫みたいだ」というものがあるのですが、それをいま思い出しました。

 この記事の冒頭にお話を戻すと、「もう誰も もう何も 羨ましくなんかない」と祈りに似た諦めを得る、或いは、見切りを付けることは私にとってはある意味で重要なことだと思っています。もしくは、私は私だという認識を強めるとでも言うのかもしれません。

 他者や物を羨んでも切りがないのです。新しいコンテンツが生まれ続けて行く現代においては特にそうだと思います。私は自分に手の届くコンテンツを楽しみつつ、近い内にきっとクリエイトする側に進みたいと思っています。そういった自分なりの楽しみ方の中で、自分の生活を彩ってくれる作品を探して行くことが大切なことかもしれないと私は思っています。「羨ましくなんかない」という感情が、もし強がりであったとしても、それはそれで大事な感情です。

 羨望が糧になるならば良し。そう、私は思っています。

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