見出し画像

【エッセイ】夢とアイ

 自分を維持しようとしたり、より良いものへと昇華しようとしたり。そういった意欲や願いは何処から生まれて来るのだろう。私は成人した大人だけれど、他者にそれを見出す――或いは委ねてしまうことが本当に多いように思う。

 本当の意味で、たったひとりの自分自身の為だけに意欲や願いを見付けて追い掛けて行ける人は一体どれくらいいるのだろう。また、それを強い人と呼ぶのかどうかを私は知りたい。そうであるのなら私は弱い人なのだろうかということも。

 会いたい人に会えない世の中で、ここ数年、私は良くやっていたと思う。限りなく自分に出来る範囲での話になるが、作家になるという夢を叶える為に物語を書いていた。何しろ一年の中で体調の良い日が数える程しかない自分自身、作家への道中、様々なものをためつすがめつしながら良く歩いて来たものだと感心する。大袈裟でも何でもない。

 書きたい物語は幾らでも降って来た。きっと私は生涯を通して物語を書き続けるだろう。作家になれる瞬間というものがこれから訪れるかどうかは私にも誰にも分からないが、私の夢を目指して歩いて行けるのはこのセカイに私しかいないのだ。ならば、歩いて行く。それだけの話だ。

 だが、と思う。対人関係はどうしたら良いのだろう。この世に謳われるアイに出会うには、どうしたら良いのだろうか。そんな問いに答えなどないのかもしれない。しかし、私はもうそろそろ答えがほしいと思っている。自分のことを一生懸命にやり、連続する毎日を大切に過ごしても。時に投げ遣りになりながらも自分を磨いていても。そのアイというものは夢まぼろしの如くだった。

 ふと、アイに幻想を抱いているのだろうかとも思う。もっとこう、アイというものは身近で、簡単な場所にそっと置かれているもので。追い求めている内はいつまでも手に入らないのかもしれない、と。それでも、私は探し求めている。もう何年も、何十年も。手に入ったかのように思えたアイは途中で消え行くし、もういらないやと思ってもまた違う日になると私はアイを探している。いつまででも、探している。

 気分転換に色々な趣味を見付けても。散歩をしても。結局はアイに思考が戻る。どうして見付からないのかな、こんなに探しているのに、と。あまりにも感情が強まると不意に泣き出したくなる。寄る辺など、もうないというのに。

 私が本当に求めているものは、作家への夢なのか。アイなのか。そのどちらもなのか。私という人間は人間生活をやって行く上で、きっとどちらもほしいのだろう。夢を叶えるまで、アイを得るまで。私はきっと思考をやめずに歩いて行く筈だ。

 だが、連綿と続くように思える日常生活の中でふと立ち止まり、一体いつ頃にそれらが見えるのか思案してしまうのは仕方ないだろう。確実な天気がきっとセカイの誰にも分からないことと同じくらい、私の夢も思いもどうなるのか誰にも分からないだろう。私が歩いて、この目でその景色を見るしか方法はない。

 大好きな紅茶、お気に入りの音楽、ミルクチョコレートなどを揃えて。私は私の道を今日も明日も歩いて行く。時に休み、泣き、眠りに逃げ込みながら。きっといつかはと思いながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?