見出し画像

ボヘミアンラプソディ

 クイーンについて知っている自分の認識と言ったら、短髪ヒゲタンクトップインのくねくねした変わったおじさん。程度だった。我ながら恥ずかしい…。
 映画「ボヘミアンラプソディ」が始まると、あれ?あれ?って。何だこの世界?自分が思ってたのと違う。冒頭に現れたラミマレック演じるツボを抑えたフレディの姿に、あ、これはフレディに関する違う人の話から始まるんだ。って本気で思った。それくらい何も知らなくて、自分が思ってた些細なフレディ像とは何もかもが違った。

 こんな風に純粋に音楽に生きたのか。とか、あんな風に容姿にコンプレックスがあったり、そんな風に人種差別のようなものを受けながら生きてきたのか。とか。
唖然とした。
何だこの世界観…。
鳥肌どころか、ティラノサウルスでも湧いてきそうな全身ぶつぶつのレイトショー真夜中23時のメンズデーのひとりぼっち。

 この日たまたま友人のシンガー姉さんからきっかけをもらって次の瞬間映画館へ。
多分あの日たまたま予定が空いて会えた姉さんは、この映画への誘い人だったんだなって。姉さんありがとう。

 こうやって音楽史に残る偉人の人生をスクリーンで見て、自分の中の何かが湧く。「ママぁ〜♪」と歌いながら盗まれたり事故ったした尾崎的なバイクで映画館をあとに。

 布団をめくり、するっと全身を伸ばし眠りにつく…。
カチ、カチ、カチ…。
眠れない!眠れるわけがない!
目を閉じてもめくるめき湧き返すフレディの姿。
愛に翻弄されて、音楽に支配され(僕は音楽の娼婦だ。とあるインタビューでも発言している)そして不治の病にも侵されて。

 その中でも自分が一番印象に残った言葉は、病気をメンバーに知らせた時、その同情を振り払うように放った一言。
「僕が何者かは僕が決める」(確かこんなセリフ)
この言葉が真夜中の枕元で何度も何度も繰り返される。
この言葉は世界中のどんな人間にも当てはまる最小で最大の自分らしく生きる言葉なのだと思った。
自分の人生も自分の生き方も、そして自分が何者かもそれらも全て自分が決められる。

 その言葉を裏付けるように、映画からはいかに自分が自分らしく生きるか。そのためにはどうしたらいいか、世の中の批判や中傷やどんな障害もお金も名誉も関係なく、ただただ自分らしく生きるための音楽に没頭していく。

 人は一人では生きられない。
一人でもいい、一人がいい。という人もいるけれど、その言葉の裏側には、自分が自分らしくいられる相手なんかいないから。だから一人を選ぶのさ。
そんなもう一つの意識を感じる。
自分にぴったりで自分らしくいられる相手がいるんだったら、誰だって誰かと一緒にいたいはずなんだ。
そんなことを思う。

 そして子供って親がどんな教育をしようが、どんな思想を植え付けようと、自分らしく自分の生き方をするものなんだな。親がすることなんて、できることなんて本当はそんなに多くはないのだろう。けれどフレディの親への愛も感じられた。

 映画ボヘミアンラプソディは美しく険しく作ってはいるけれど、本当はもっともっと濃くてドロドロとした芸術家の一生があるんだろうな。当然にさ。

 映画ってみんなが面白いって言っているものはまず見てみよう。ってやっぱり思ったね。

イラストレーターと塗装店勤務と二足のわらじ+気ままな執筆をしております。サポート頂けたものは全て大事に制作へと注ぎます!