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「深く考えるまでもなく、いわば日常の続きとして」

土曜日は人生で最も死に近づいていた。今、そこから脱したわけでもなく、それが消え去ったわけでもなく、堂々と私の中に「死」は構えている。認識していなかっただけで、目立つところに、よく通るところに、当然のようにあったのだ。

死はコロッセオからサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に姿を変えた。ロレンツォ・イル・メディチが傷つけられ、弟のジュリアーノが暗殺された、あの血生臭くも美しい建築物へ。私は、冷え冷えとした大理石の外壁にひたと耳をつけ、音を聴いていたのだ。私はその中に入ることを望んでいた。煩わしい現実的な痛みを経ることによって。

でも、もし、会社で稼いだ全財産を使い安楽死させてくれるのなら、その病院にすぐさま駆け込んでいただろう。カウンセリングなぞ受けていては私の心が揺らぐから、早くやってくれ。早急に頼む。

ドゥオモのファザードにはギベルティの製作した「天国の門」が嵌め込まれていた。この扉を開いて先へ進むのだ。金色に輝くオリジナルの作品だ。ひんやりとした温度が掌を通じて伝わってくる。そこで私は気づくべきだ。ギベルティの「天国の門」が嵌め込まれているのはドゥオモではなく、サン・ジョヴァンニ洗礼堂だということに。さらに言えば、オリジナルの天国門はドゥオモ付属博物館に保管されている。これは本物ではない。かといって、偽物でもない。ここでは唯一無二のドゥオモだ。

それは次第にディティールを失い、私の水彩画に近い外観となる。そしてまた細密に、グロテスクなまでに美しく再構成される。生きている。私の中に在る街に太古より息づいているのだ。気づいてしまったのだから、戻ることはできない。既に私の街の機能の一部として組み込まれている。

一度生命力を失った人間に何ができると言うのだろう? いつ扉が開くともしれない。その時点で、私は自分に期待をしていたことに気づく。気づいてばかりだ。己の致命的な愚かしさを知る。私は己と己の体をセパレートする。自分に期待するという状況から脱することができる。私の意識は世界から遠ざかる。そうか、私はあのとき、門を開いたのだ。今の自分は、一体、誰であろうか。


ー2022年2月1日の日記から


「つくるが実際に自殺を試みなかったのはあるいは、死への想いがあまりにも純粋で強烈すぎて、それに見合う死の手段が、具体的な像を心中に結べなかったからかもしれない。具体性はそこではむしろ副次的な問題だった。もしそのとき手の届くところに死につながる扉があったなら、彼は迷わず押し開けていたはずだ。深く考えるまでもなく、いわば日常の続きとして。」
ー村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文藝春秋、2015年、5-6頁。

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