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社会人逃避行

上司の理不尽な物言いに抗議するも一蹴される。浜松行きの最終電車に乗り、大学時代に行かなかった中田島砂丘を目指す。
2021年12月4日

 認知症患者は、一番輝いていた頃の自分に戻っていると聞いたことがある。

 では、私が認知症患者でないという保証はどこにある? 私は、本当に今を生きているのか? これは現実か、記憶か?
 認知症になったら、私が戻るのは人生のどこだろうか。もし、私がいま認知症で、記憶の中を生きているとしたら、二十四歳が一番輝いていたことになる。俄には信じられないけど。

 社会人になって逃げるようにして浜松を歩いたとき、認知症患者のことを思い出した。
 中田島砂丘から見た浜松の街は、眼前に実在する過去であった。やがて日が昇り、闇が溶け、世界(浜松)と私の身体が馴染むと、浜松は過去であることを辞めた。同時に存在していた過去の私は消え去り、現在の私だけが浜松に存在した。ここを離れてからもう少しで二年になる。あまりにも遠くまで行っていたように感じる。それでも、浜松は懐かしい感情を呼び起こすことはなく、大学時代と同じようにただの現実であった。
 遠州鉄道(赤電)、杏林堂、浜松駅、神社ーーーー。
 よく通った場所に行っても、懐かしくはなかった。懐かしさを感じるにはまだ年月が足りない。

 私はかつての大学の横を歩いた。楽しそうに話す女子学生たちは、私が大学生ではないことを強く感じさせたーー当たり前のことだ。夜中じゅう歩き通しだったから疲れた。綺麗に舗装され、樹木や花が植えられた心地よい遊歩道のベンチに座り込む。ベビーカーの美しい母子が前を通った。若いカップルが通った。自転車で公園へ向かうかしましい小学生の集団が私を避けるように通り過ぎた。その小学生の一人は、大学時代にアルバイトをしていたお好み焼き店の娘さんだった。小学三年生になっているはずだ。好きだったケーキ屋から焼き菓子の甘く香ばしい匂いが漂ってくる。

 私は静かに涙を零した。一番輝いていた場所として私は無意識にここを選び、訪れた。認知症になったら記憶の中でここを訪れるのだろうか。私の一番は、もう終わってしまったのだろうか。
 世話になった教授のことを思い出した。研究室のドアを叩けば、今でも親身になって話を聞いてくれるに違いない。私を励まし、あるいは諭し、鼓舞してくれるかもしれない。

 そろそろ帰る時間だ。ベンチから立ち上がり、浜松駅へ歩みを進める。駅へ着いた頃、帰りの電車の発車時刻まではしばらく時間があった。長い旅路になる。暇つぶしのために、駅ビルの八階にある本屋で本を何冊か買った。
 電車の座席で本の包みを開けると、同じ本が二冊入っていた。しっかりしてくれ。『1973年のピンボール』。私はこの本をまだ読んでいない。

ー2022年12月14日の日記から

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