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「夕陽を攻めおとす」

 そろそろ、日が落ちるだろうか。
 僕はそんなことを考えながら、隣を歩く雨田の足音を聞いていた。名前のわりには晴れ男で、小学校の頃から、彼と一緒に帰る日には雨が降った事がない。そうして二人歩いていると、たいていすぐに夕暮れ時になって、暗闇が足下へ近づいてくるのを何となく恐ろしいような、ホッとするような気持ちで待ち受けるのだ。
「まあ、分かるよ。おまえの言いたい事はさ」
 雨田はそう言って鼻を鳴らした。幼い頃から鼻炎がちな体質で、今は改善したと言うけれど、癖でいつも鼻をスンと鳴らす。
「おまえ、いっつもそう言うだろう。それで、結局何も分かっちゃいないんだ」
 僕が突っかかると、雨田はヘへへとごまかして笑った。彼がそんな風に僕の話を茶化して笑うのが、僕は嫌ではなかった。僕にとって、夕暮れはいつもうっすらと恐怖をはらんでいる。彼の笑いはそれを忘れさせてくれた。
「今日は向こうを通ろうぜ。こっちの道は飽きた」
 雨田は言い終わるより先に、早足で角を右へ曲がっていった。慌てて追いかけると、彼の肩ごしに巨大な夕陽が、地球を滅ぼす隕石のような格好で落ちていくのが見えた。地表につくまであと少し、というところで夕陽は空にとどまって、真っ赤な光で街を焼くように照らした。
「げえっ、目が灼けちまいそうだ」
 自分の鼻にかかった円い眼鏡のフレームを、持ち上げたり下ろしたりしながら、雨田はまたけらけら笑った。僕は声に出さず唇だけで笑い返して、彼の横に走って並んだ。夕陽に向かって進軍する、二人きりの軍隊のような気分だった。敵は巨大で僕たちはちっぽけ、勝ち目は全くないように見える。けれど、実際の優位は僕たちにあった。転ばずに歩いてさえいられれば、いつか敵は時間切れで地面の底に沈んでいくのだから。
「泣くなよ、桐島」
 突然、雨田が言った。僕は面食らって、変な顔で彼を見返した。
「僕が何を泣くってんだ? 泣くようなことなんか、何もないだろ」
 彼は何も答えず、へらへらと笑った。彼の笑い方には二種類あって、こういう時の、何かにフタをするようなごまかしの笑いが僕は好きではなかった。不満を露にして黙りこくっていると、彼は僕の前に立って悠然と歩きはじめた。夕陽から僕をかばうような格好だった。
 そのまま、しばらく前後に並んで歩いていった。二つ並んだ足音を聞くうちに、僕は少しずつ不機嫌さを忘れた。通りには僕たちの他、誰もいなかった。僕の予想に反して、夕陽はなかなか沈まなかった。まるで誰かが紐で引っ張り上げようとしているみたいに。
 僕は人差し指で狙いを定めて、その「誰か」を撃ち殺す想像をした。僕たちは今、境界線の上にいる。赤い日差しは戦争の日差しだ。とっぷり暮れれば、世界は平和になる。平和のためのわずかな流血を、誰に責めることができようか。そんな話を思い浮かべながら、想像の引き金を引き、想像の弾丸を撃ち放つ。
「バン!」
 雨田が急に振り返った。僕の弾丸は軌道が逸れて、彼の眉間に吸い込まれるような格好になった。僕は気まずく思ったけれど、彼の方は僕を脅かしてやったつもりで、けらけら笑っていた。僕の好きなほうの笑い方だった。
「撃ち殺されても、そうして笑っているんだろう」
 それは僕が自分に向けて言った、自分にしか分からない、自分のための冗談だったのだけれど、彼は分かったような顔をして一緒に笑っていた。
「撃ち殺されても、こうして笑っているだろう」
 雨田は遠い未来を予言するような、重々しい声を作って言った。僕は空気を抜くような短い笑いを返して、それきりまた黙った。噛み合わない冗談のやり取りは、小さな不信となって、煤のように胸に残っていた。
 彼はいつも頼もしい少年だったけれど、なぜだか、彼が本当に僕を救ってくれたことは一度もないような気がした。かと言って、彼を信頼していないわけではない。少なくとも彼は、何か揉め事があった時も、常に僕の側{がわ}に立っていてくれた。
「このまま永遠に日が沈まなかったらどうする?」
 あんまり道のりが長く感じたので、僕はぼそっと尋ねてみた。彼はしばらく黙っていたが、そのうちハッと何かに気付いたように上半身を跳ねさせて、早足に前へ出た。
「俺が沈めてみせるぞ。担え、筒!」
 肩に掛けていた鞄をざっと持ち上げて、雨田は行進を始めた。その姿勢は滑稽だったけれど、僕は笑わなかった。彼の目が妙に真剣だったからだ。まるで、この夕暮れの戦争を本当に戦っているかのように、彼は汗をかいていた。
 少し、日が下がっていた。下がらないわけはないのだ。時間は僕たちの戦いを有利に運んでいく。雨田はしばらく行進した後、カッと靴の踵を打ち合わせて、本当の軍人のように方向転換して、夕陽を背にして僕を見た。
「泣くなよ、桐島」
 また、それを言うのか。僕はいい加減いら立ち始めていた。僕は何も泣いたりしない。たとえ理由があったとしても、僕は涙を流さない。記憶にあるかぎり、僕は一度も泣いたことがなかった。

***

 二年前に父が死んで、兄がおかしくなった時にも、僕は泣かなかった。母が少しも泣かなかったからだ。あの人が泣かないのであれば、僕も泣くわけにはいかない。兄は部屋でときどき笑っていた。
 夕闇の迫る時刻、街の景色はみんなどこかおかしくなったように見える。おかしくなってしまった方が自然で、まともでいようとする自分が不自然に思える。
 そういう時間、母はいつも仕事に行っていて、小学校から帰った僕は赤い光の中、おかしくなった兄と二人きりで家にいることが多かった。その時間、机の上で踊るあの世の人々を眺めてくすくす笑う兄の方が、赤く染まった異質な世界によく馴染んでいて、僕は正常な世界から迷い込んだ旅人のようだった。僕たちは住む世界も使う言葉も違ってしまっていたけれど、僕は友好的な旅人で、彼は友好的な住人だった。
 でもそれは、僕たちが幸福だったということではない。僕はいつも、夕暮れの来るのが恐かった。夕陽が地面に接している間は、誰もが兄と同じ場所、境界線の上に立たされる。昼と夜と、どちらでもない時間。どちらにも転ぶことができる。実際には、必ず時間は夜へと進むのだけれど、なぜだか日が暮れきる瞬間まで、僕はそれがまた昼に巻き戻るのではないかと怯えていなくてはならない。
 夜になると、家は静かになる。兄がくすくす笑うのを止めて、星を数えはじめるからだ。彼はおかしくなってしまってから毎晩、ずっとそうして夜空を見上げ、星を指差して一つ一つ数えていた。いつか数え終わるのか、と尋ねると、彼は何も答えずに、じっと自分の手のひらを見つめた。
 その仕草の意味するところは、しばらく後になって気がついた。きっと彼は、ただ星を数えていたのではなくて、散らばった星を一つ一つ拾い上げて、手の平に集めて握りしめていたのだ。だから、数え終わるかどうかは全く問題にならないのだった。
 僕はときどき兄が羨ましかった。彼はもう誰にも気を使わない。目の前で僕たちが泣いたり苦しんだりしていても、兄は平気で笑っていられる。彼の笑い方は心底楽しそうで、まともだったころには全然笑わなかったのに、今は本当に何もかもが彼を楽しませているみたいだった。

***

 雨田の顔はどこか兄に似ていた。でも、彼は僕の兄弟ではない。彼は僕と同い年で、同じような背丈をし、同じような歩き方をする。話し方は少し違う。彼は僕よりぶっきらぼうで、ときどき語尾を力強くハネるような癖がある。
「夕陽が落ちきったら、雨が降るだろうなッ」
 たとえば、こんな風に。彼は鞄を前に抱えるのをやめて、肩ひもを首に掛け、鞄は背中に回していた。歩くと肩ひもが喉にぶつかるらしく、時々苦しそうにオエッと声を出していたが、そういう一連のことが楽しくてやっているらしかった。
「おまえがいるうちは、雨なんか降らないよ」
 今までそうだったのだから、これからもきっとそうだろう。僕がそう言うと、雨田は神妙な顔をした。
「俺がいるから雨が降らないのか? それとも、雨が降らないから俺がいるんだろうか」
 雨田の言葉は戯ればかりで、ときどき僕にも、もしかすると彼自身にもよく分からないようなことを呟いた。彼は首をひねっていた。夕陽はさらに地面に近づき、もう半分ほどもめりこんでいた。道の向こうはまだ見えない。
 通りの左側に、見慣れない自販機があった。この道は普段通らない道なので、そこら中の物が見慣れない。見慣れない世界は夕陽の赤さと相まって、どこか異国の空気をまとっている気がした。自販機の売り物も、見たことのない飲み物ばかりに見えた。
 ここは本当に、僕の住んでいる街だろうか?
 正体のない不安が、心の内でふくらんだ。そんな僕を、雨田は不思議そうに見た。彼の心には、不安や恐怖がまるで見当たらないのだ。彼は僕が恐れているもの、その見知らぬ自販機にふらふらと歩み寄って、財布から取り出した百円玉をカリンと投入口に差し込んだ。
「二十円、足りねえ」
 雨田は貸してくれ、とは言わなかった。僕は黙って、ポケットに入っていた十円玉二枚を取り出し、自販機に入れた。けれど、彼は自販機の前に突っ立ったまま、なかなかボタンを押さなかった。
「おまえも金を出したから、おまえが選んでもいいだろう」
 しばらくして、彼がそんなことを言った。何でもいいよと答えると、彼は困ったような顔をした。
「何か選んでくれよ。俺はうまく選べないから」
「僕は、ここにあるやつをどれも知らないよ。おまえの飲みたいのにすればいいだろ」
 彼は一層困った顔をした。気の強いようでいて、こういう優柔不断なところがある。先を歩くかと思えば、どうでもいいようなことで立ち止まって動けなくなったりするのだ。
「それじゃ、俺が二つの名前を言うから、どっちか選んでくれればいい。おまえの言った方を買うから」
 雨田は名案を思い付いた、という風に目を輝かせた。僕は少しあきれていたけれど、彼の目が妙に熱を帯びていて、その選択を僕に迫ることが何か、彼にとって重大な意味を持つらしく思えたので、仕方なく首を縦に振った。
 そうして彼は二つの名前を挙げた。一つは「にびちゃの小鬼」と言った。もう一つは「ハクロと雪のちろちろ」と言った。どちらも飲み物の名前にしてはずいぶん奇妙な響きだった。
「本当にそんな名前?」
 僕が問うと、雨田はなぜかカンに障ったように舌打ちした。
「そのままの名前じゃないかもしれない……でも、選べるだろう。名前が違うからって、選べないわけじゃないだろう」
 僕はますます彼の考えが分からなかったけれど、この寂しい通りを歩く道連れは彼一人だけで、これ以上機嫌を損ねたくなかった。きっと彼なりの、彼にしか分からない遊びなのだろう。僕もそういう遊びに彼を付き合わせることがあるので、文句ばかり言えない。
 仕方なく、僕は彼の挙げた選択肢から一つを選ぶことにした。「小鬼」の方はどうにも口に入れたくない感じがしたので、「雪」の方を選んだ。どんな飲み物なのか? 瓶入りの、銀箔のちろちろ混じった、すてきな感じを想像する……
 彼は、ニッと笑った。
「そう言うだろうと思った。俺もそれが好きなんだ。喉がスキッとして、胸がわくわくするんだ」
 それじゃ、最初からそっちを買えばよかったんだ。と、口には出さなかったけれど、僕は鼻の頭に皺を寄せて空気を吐いた。彼はボタンを押しながら、ぐっぐと喉に詰まるような笑いをした。
 ようやく自販機から転げ出てきたその白い色の缶ジュースは、崩れた英語で書かれていて名前こそ判別できなかったけれど、一見したところ何の変哲もない清涼飲料水のようだった。ずっと自販機の中に隠されていれば、がっかりせずにいられたものを。
 雨田は手早く金属のフタを開けると、シッと空気の抜ける音も収まらぬうちに、口をつけて三回ほど喉をごくりといわせた。よっぽど喉が渇いていたようだ。
「飲めよ、喉が渇いてるんだろ。こいつは本当に美味いぜ」
 雨田はようやく飲み口から顔を離したかと思うと、そう言って缶を僕に向けて突き出してきた。僕は首を横に振った。
「いらないよ。乾いてるのはお前の方だろ」
「でも、額に汗をかいている……」
 僕は右手指でさっと自分の額を撫でた。指先にはしっとり汗が付いていた。そんなことは前から自覚していたことで、どうということでもなかったのだが、彼の言い方が何か大きな秘密でも言い当てたかのように自慢げだったので、僕は何となく悔しくなった。
「それが何だってんだ。とにかく、僕は飲まない」
 雨田はただフウンと返して、僕の反発にもそれほど感慨を持たないようだった。僕はこの時ようやく、彼の様子が妙であることに気がついた。彼は普段から謎めいた、秘密めいた少年だったけれど、今日は特にそういう性質が強く出ているような気がした。浮ついているというか、言葉や行動の一つ一つが、目の前のことと結びついていないような気がした。
 夕焼けのせいだろうか? また歩き出しながら、僕は遠い街並に沈みこんで、さらに赤黒くなった半欠けの太陽に目をやった。空気が冷え込みつつある。彼は魔力を失いつつある。彼が沈みきったら、雨田も頭が冷えて、まともに戻るだろう。夕陽に照らされた、他のすべての生き物たちと同じように。
「早く沈め、早く沈め」
 僕は足でリズムをとりながら、授業で教科書の詩を朗読するときのように、心を込めず淡々と唱えた。僕の虚ろな歌を聞いて、雨田は急にけたたましく笑いはじめた。
「早く殺せ! 早く殺せ!」
 雨田は僕と同じ節回しで、ずっと物騒な言葉に置き換えて唱えた。僕はぎょっとして彼の顔を見た。彼はずっと笑っていながら、額にじっとり汗をかいて、目はぎらぎらと狂気じみた輝きを帯びていた。僕が夕陽の世界を恐れているように、彼はまた別の何かを恐れているようだった。
「走れ! 攻め落とせ!」
 大声でそう言うと、雨田は突然通りを駆け出した。僕は慌てて彼の後を追った。
 走り出すと、今まで周囲に停滞していた空気が、風になってわっと顔や体に吹き付けてきた。彼の急な行動に困惑していたし、今日は学校で右の足を痛めていたので走りにくかったけれど、荒く息をするうちに、彼の奇妙な熱気が伝染したのか、僕もひたすら足を動かすことに夢中になっていた。肩に掛けた鞄が跳ねて、何度も腰骨にぶっつかった。
 奇妙なのは、彼が汗をだらだら垂らし、全力でもって走っているようなのに、右足をかばいながら後を追う僕との距離が一向に離れていかないことだった。一列に並んで駆けているのに、まるで二人別々の通りを駆けているかに思えた。
「そら、落ちるぞッ」
 雨田の呟きとともに、ふっと景色が途切れた。僕たちはようやく長い見知らぬ通りを抜けて、開けた場所にたどり着いた。目の前には河があった。僕の家からは少し離れたけれど、河を辿っていけばすぐに帰れるだろう。
 雨田は通りの果てでガードレールに寄りかかって、さっき買った缶ジュースを左手で掲げていた。彼はそれをぐいと飲み干すと、河に向かって缶を放った。それを止めるほどの道徳心は僕にはなかった。缶は空中で何度も回転して、向こう岸の石垣に当たって跳ねて、水位の低いあたりで淀んだ泥の中にバシャッと落ちた。
 夕陽はまだ落ちきってはいなかった。水面に映った街並は赤く染まり、世界が炎にまかれているようだった。熱くなった自分の頬から湯気が立って、目にしみた。
「落ちろ!」
 雨田の叫び声が聞こえ、細めた瞼の間から、彼が指を真っ直ぐ銃の形に組み、もはや欠片だけになった夕陽の上方に向けるのが見えた。彼がバンと言うと、夕陽をかろうじて釣り下げていた綱の引き手は撃ち殺されて、とうとう、日が落ちた。

***

 とうとう、日が落ちた。
 あまりに突然周囲が真っ暗になったので、僕は世界がこれきり終わってしまったような気がした。そんなはずがないと分かってはいたけれど、思わず手足の感覚を確かめた。眼下に見える水面は、もうただの暗闇になっている。少なくとも、あそこに映っていた世界は終わってしまったわけだ。
 それから、ゆっくりと顔を上げ、僕は暗闇に友人の姿を探した。
 彼の姿はどこにも見当たらなかった。声を出して呼ぼうとして、僕は自分が彼の名前を知らないことに気付いた。どんな風に呼んでいたかは漠然と覚えているけれど、それは彼の本当の名前ではなかったような気がした。
 ぽつぽつ雨が降り始めていた。小粒だったけれど、確かなリズムを持って僕の肩やつむじに落ちてきていた。さっきまで熱く燃えていた頬の火はそれですっかり消されて、額の汗も流されていくのを感じた。
 空っぽの気分で、僕はゆっくりと家路を辿りはじめた。急に走ったりなんかしたので、体中がひしひしと痛んだ。肺も焼けこげたように痛かった。頬に付いた雨粒を拭おうとして、左手がべとついていることに気付いた。缶ジュースを持ったまま走ったりしたからだ。
 僕は一人きりだった。川べりでガードレールに手をついて、じっと夕陽の消えていった跡を眺めていた。どうとも言葉にならない喪失感が胸を占めていた。僕は唯一の友人を失ってしまった。こうしてただ歩くのもつらい一日の終わりに、とりとめのない話をしながら、それとなく慰めを口にし、行き詰まった後は一緒に駆け出せるような友人を。
 最初から、そんな友人は僕には一人もいなかった。にも拘らず、僕の心の空っぽなことといったら、子供の頃からの親友を無くしてしまったかのようだった。元々なかったものが、今も同じようにないというだけのことが、どうしてこんなにつらいのだろう。
 僕は自分の周りを囲むもの、赤の世界を瞬く間に侵略しつくしてしまった、夕闇の暗さが憎らしくなった。けれど、彼らを恨むべきではない。彼らはやるべきことをしただけだ。それに、最後に引き金を引いたのは彼自身だったではないか。
 足を動かす度に、心にまといついていた幻想は味気なくなり、そのうちかすかな余韻だけ残して消えていった。僕は鼻をスンと鳴らして、右に寄れていた眼鏡を掛けなおした。涼しくて、気持ちのいい風が吹いていた。もう、夜はすぐそこに来ている。
 僕はすっかり暗くなった道をとぼとぼ歩いていった。先に続いていく道は、夕陽を正面に受けながら歩いたあの見知らぬ道よりも、さらにずっと長く見えた。一生のうちにこれより長い道を歩くことは二度とないだろうと思った。けれど、この道もいつかは家に辿り着く。

 僕はべとついた左手をポケットに仕舞って、右手の指で自分の頬に触れた。頬はじっとり濡れていたけれど、それがどこから落ちてきた水なのか、はっきりとは分からなかった。

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