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「からっぽの世界」

1.
 最初に気がついたのは、隣に妻がいないことだった。シーツには彼女の形のしわがあり、毛布にはかすかに彼女の残り香がありながら、彼女の体だけがそこになかった。ふっと冷たい予感が走って、私は思わず大声で彼女を呼んだ。
「文子!」
 返事はなかった。頭がはっきりしてくるにつれ、彼女にしてきたいくつもの不誠実が思い出され、心臓の鼓動が早まった。
 とうとう愛想を尽かされた、と思った。昨夜、ごまかさずにはっきりと謝罪するべきだったのだ。彼女が家を出ていくとしたら、こうやって不意打ちで、煙のように去っていくだろうと分かっていたのに。
「文子?」
 祈るような気持ちで、今度はそっと優しくたずねた。やはり、返事はない。
 私はじっと怯えていることに耐えられず、とうとうベッドから跳ね起きた。クロゼットを開き、彼女のコートが全てハンガーに掛かっていることを確かめると、ようやく人心地がついた。この真冬に、コートなしで外に出て行くことはないだろう。
 耳を澄ませると、リビングへつづく扉の向こうから、パチパチと油のはぜる音が聞こえた。彼女はまだ、そこにいる。取り返しがつくうちに、言うべきことを言わなくてはいけない。
 私は意を決して扉を開き、ゆっくりとリビングへ踏み出した。

 しかし、そこに文子はいなかった。つけっぱなしの火、フライパンの上には焼けていくベーコンがあり、テーブルには文子の携帯電話と、トーストが二枚ずつ、簡素なサラダと一緒に置かれていた。日差しに白く照らされた部屋のどこにも、彼女の姿はなかった。
 しばらく呆然としてから、私はハッとしてキッチンに駆け込み、コンロの火を止めた。ベーコンはまだ焦げてはいない。フライパンを火にかけたままで、トイレにでも行ったのか? 多少そそっかしいからといって、そこまで不注意なことをするだろうか。
「文子、いるのか?」
 私は家の中を歩き回って、扉という扉を開けていった。どこかで倒れているのではないか。強盗に襲われたのではないか。もしや、もしやと様々な想像が頭をよぎっては消えていった。結局、文子の姿は見つからなかった。
 キッチンに戻った私は、テーブルの上の朝食をにらみつけた。警察に連絡すべきなのか? どこか近所にいるのなら、すぐ戻ってくるはずだ。誘拐されたとしたら? こんな明るいうちに、オートロックのマンションの中で、そんなことが起こり得るだろうか。
 時計を見つめて、数分間じりじりと過ごした。まだ、文子が戻ってくる様子はない。外へ探しに行くしかない。そうと決めると、私は服を着替えるために早足で寝室に向かった。

 手早く着替えを終え、玄関へ出ようとした私は、リビングの半ばで違和感を抱いて立ち止まった。
 見渡すと、皿に盛られたトーストの上に、いつの間にか数枚のベーコンが並べれていた。キッチンの流しでは、ついさっきコンロの上に乗っていたはずのフライパンが水流にさらされている。いつもの休日、文子が朝食を作り終えた後と同じ風景だ。
「隠れてるのか?」
 心配よりも、苛立ちが先になりつつあった。昨夜の仕返しに、私をからかっているつもりなのか。元は私が悪いにしても、こんな風に人を心配させようというのはあまりに子供じみている。
 ふと、扉の向こうでトットッと足音が聞こえた。そこにいるのか。私は大股に踏み出して、洗面所の扉をぐっと引いた。
「文子!」
 洗面所は空っぽだった。ふっと右手を撫でていく風に、うすら寒い感覚が走る。夢の続きでも見ているのだろうか。何かがはっきりとおかしいのに、それが何なのか、上手く言い当てることができないのだ。
 落ち着かないまま、早足で玄関へ向かった。いつも家の鍵を入れている小さな編み籠には、私と文子の鍵が一つずつ入ったままになっていた。私は自分の鍵をポケットに入れ、文子が外から戻った時のために、扉の下にサンダルを噛ませてオートロックがかからないようにしてから、外へ駆け出した。

 エレベーターが来るのを待つ間、私は何度も背後を振り返った。だが、文子が姿を現す様子はなかった。そのうち、混乱のせいか軽い目眩に襲われて、私は壁に寄りかかり、じっと瞼を押さえていた。わずかな待ち時間が、長く苦しいものに思われた。
 チン、と音がしてエレベーターの扉が左右に開いた。
 一階のボタンを押し、重力が緩んでいくのを感じながら、私は遅れて吹き出した額の汗を袖でぬぐった。無性に、誰かと話がしたかった。文子が消えたことが、私の見当違いや空想ではないのだと、誰かに証明してほしかった。
 上着のポケットをまさぐると、昨夜と同じ場所に携帯電話が収まっていた。少し逡巡してから、1、1、0、と打って受話器マークのボタンを押すと、すぐに向こうでブツッと回線の開く音がした。
「もしもし、警察ですか」
 どう説明すればこの状況を伝えられるのか、頭の中であれこれ考えながら、相手の返答を待った。だが電波の調子が悪いのか、がしゃがしゃと耳障りな雑音が聞こえるばかりで、一向に言葉が聞きとれない。
「もしもし? 聞こえますか、電波が……」
 確かめると、電波状態を示すアンテナマークはちゃんと三本表示されていた。向こうの回線がおかしいのだろうか。
 一旦通話を切って、今度は文子の実家に電話を掛けた。するとまた、同じ雑音が聞こえてきた。ブーゥ、ブ、ブウーウ、と不規則なリズムで高低し、くぐもった人の声のようにも聞こえるのだが、やはり言葉は全く聞き取れない。
 スピーカーの部分が壊れてしまったのかもしれない。悪態をつきたい気分だったが、向こうにはこちらの声が聞こえているかもしれないので、失礼しますと一言添えてから通話を切った。

 マンションの外はがらんとしていた。日曜とは言えこの寒さでは、皆外に出たがらないのだろう。なるべく厚着はしてきたが、頬に触れる風は刺すように冷たい。
 まずは裏手に回って、駐車場へ足を向けた。連休の半ばで、車の多くは出払っている。だが、文子の水色のカローラは普段と変わらずそこに停まっていた。念のため中を覗いてみたが、人影はない。私は溜め息をついて、そのまま駐車場の正面にあるコンビニに足を向けた。文子が車なしで買い物に行ったとすれば、そこが一番近い。
 道路に出た途端、吹き付けてきた風でぐらりと体が揺らいだ。家を出てから、どうも足元がおぼつかない。ふらつきながら車道を横切り、コンビニの前に立った私は、思わず眉をひそめた。
 店の中は、空っぽだった。客も、店員も、いない。商品だけが、置いてけぼりを食ったように整然と居並んでいる。自動ドアが開くと、頭上で蛍光灯が何度もまたたいた。店内放送では、ついさっきの電話と同じような、意味をなさない雑音がぐしゃぐしゃと流れている。虚ろで、不気味な光景だった。
 店内を一巡して、カウンターの奥を何度も覗き込んだが、やはり無人のようだった。誰かいますか、と呼びかけようと思ったが、結局何も言わなかった。もしも返事がなかったら……そう考えた途端、胸の奥で生まれた小さな不安が、喉につっかえたのだ。
 最初に、文子がいなくなった。それから、携帯電話の故障。人気のない駐車場。そして今、無人のコンビニ。記憶をたどっていくにつれて、漠然としていた不安は徐々に濃く、強くなり、やがてはっきりと言葉の形をとった。
 今朝目を覚ましてから、私は、一人の人間にも会っていない。

 コンビニを出て、早足で歩道を進んだ。そこら中の路地という路地を覗き込みながら、怯えた小鳥のように首をひょこひょこ左右にめぐらせて、目に入るすべての窓の向こう、扉の奥に目を凝らした。それからクリーニング屋、もう一店のコンビニ、洋食のチェーン、通りにある店の間を駆け回り、人影を探した。
「誰か、いないのか?」
 誰もいなかった。
(私が眠っている間に、世界が滅んでしまったのだ)
 真っ先に浮かんだのは、そんな子供じみた考えだった。だが、何度か深呼吸を繰り返すうちに、それが非現実的で馬鹿げた考えだと気がついた。街にはまだ、電気がちゃんと通っているのだ。戦争映画のように、路上に死体が転がっているわけでもない。ただ、人がいないだけ。災害か何かで、この辺りに避難勧告が出されたのかもしれない。文子は……私を置いていったのか、あるいは何か行き違いがあったのだろう。
 とにかく、人のいる場所に向かわなくてはいけない。もう一度周囲を見渡すと、視界に動くものが横切った。運送会社のトラックだ。途端に緊張がほどけて、ハーッと肺から空気が抜けた。ついさっき、この世の終わりのような気分でいたのが、恥ずかしくさえ思えた。
「おーい!」
 トラックはそのまま向こうの大通りを右から左へ走り去ってしまったが、続けて二、三台のエンジン音が聞こえた。
「待ってくれ、ちょっと……」
 息を切らしつつ手を挙げると、一台のタクシーが速度を落とし、少し先の路肩に停まった。愛想笑いを浮かべながら駆け寄った私は、運転席を覗き込み、そのまま凍り付いた。
 ハンドルの前には、砂を詰めたビニール袋のような、しわくちゃの黒い物体がずしりと置かれていた。人間はいない。あっけにとられる私をよそに、タクシーはまた動き出し、大通りの先へ走り去っていった。路上を見渡すと、何台もの車が、同じように運転者もなく、ただ砂袋だけを運転席に乗せて走っていた。

 叫び声が聞こえた。それは私の口から出ていた。呆然としたまま、私は走り出した。ここにじっとしていてはいけない気がした。ここから逃げなくてはいけない。何か、異常なことが起きている。
 走り回るうちに、私は今まで見逃していた周囲の風景のおかしさに気がつきはじめた。歩道のいたるところに、丸みを帯びた郵便ポスト、腰くらいの高さの小さな電信柱、そして運転席にあったのと同じ砂袋、そういう見慣れない物体がぽつぽつ並んでいるのだ。どれも妙にのっぺりとして、色も子供が塗りたくったように、黄、赤、黒とめちゃくちゃだ。
 私は何度も目をこすった。だが、異常が起きているのは目だけではなかった。誰もいないはずの路上に、いくつもの足音が聞こえ始めていた。足のない足音が、カツカツ、コツコツ、そこら中を歩き回っている。
「ちくしょう、誰だ、誰かいるのか!」
 理解を超えた状況に腹が立って、虚空に怒鳴りつけていた。返答の代わりに、ブンブンブンブンと耳鳴りだけが頭に響く。
 これは夢だ。絶対に夢だ。そうでなくてはならない。これは私の現実ではない。
 私は耳をふさぐために、両腕で頭を抱え込んだ。そして、悪夢を見たとき誰もがするように、きつく瞼を閉じて、今すぐ目が覚めるよう祈った。
 だが、目は覚めなかった。
「あつッ」
 突然、頭に鋭い痛みが走った。今までに感じたことのない、頭蓋骨の中に氷でも差し込まれたような痛みだ。堪えかねて、手近な電信柱に寄りかかろうと手を伸ばすと、柱はにゅるりと柔らかくなって、私の手を素通りさせた。困惑するうちに足元がぐらりと揺らぎ、真っ直ぐ立つこともままならなくなって、私はとうとう地面に崩れ落ちた。
「誰か、」
 無意識に、口からそんな言葉が漏れた。誰もいないと分かっていても、私は人を求めていた。
「誰か、助けて……」
 私の声は、誰もいない街の中に消えていった。

2.
 目を覚ますと、病室にいた。
 私は白いベッドに横たわって、じっと天井を見ていた。頭の痛みは消えていたが、これがまだ悪夢の続きであることには、最初から気付いていたような気がする。
 病室には私一人だけらしかった。頭はギプスのようなもので固定され、体は石のように重く、ほとんど動かせない。私はじっと天井を見続けるしかなかった。

 しばらくすると、いつの間にか周囲に奇妙な置物たちが現れていた。白い粘土細工のようなものだ。それらはせわしなくごろごろ転がって、頻繁に位置を変えた。時々、どこかで聞き覚えのある雑音を発した。彼らは、生き物というより機械のように見えた。
 彼らは人間の代わりをしているつもりなのか、私の包帯を変えたり、腕に注射針を刺したりした。幸い、彼らの治療は上手くいっているようだった。彼らは、路上で倒れた私を助けてくれたのかもしれない。そう思っても、特に親しみは湧かなかった。
 その調子で、淡々と時間は過ぎていった。自分に何が起きたのか、冷静に考える力はまだなかった。もしかすると、もう永遠にそんな力は湧いてこないのかもしれない。そう思う方が、今は気が楽だった。
 意識がある間、私はなるべく目をつぶって過ごした。眠って、眠って、目が覚めるたびに、私は今度こそ夢から覚めてくれと願った。そして、その度に失望させられて、何度目かの朝に、私は願うことをやめた。少しずつ、心が死んでいくのを感じた。

 変化が起きたのは、一週間ほど過ぎた頃のことだった。ベッドの前に、ホワイトボードがひとりでにカラカラと転がってきた。もう驚く気力もなくぼんやり眺めていると、そこにいつの間にか黒い文字が並んでいた。
<今、あなたに話しかけています。私たちの言葉が聞こえていますか?>
 流暢な字だった。呆気にとられていると、文字がさっと消されて、新しい文字に置き換わった。フェルトのペンがボードを走る、きゅっきゅという音が聞こえた。
<「はい」なら首を縦に、「いいえ」なら横に振ってください>
 私は首を横に振ると、すぐに周囲でざわっと音が鳴った。どうやら私は、いくつもの置物たちに囲まれているらしい。
<私が見えますか?>
 新しく現れた言葉に、私はしばし考えてから首を縦に振った。ホワイトボードの横に、白くずんぐりした置物があるのに気付いたからだ。よく見れば、手足のような出っ張りもある。ペンを持つ手は、絡まった太いロープの結び目に見えた。
<音は聞こえますか?>
 書き終えるや否や、白い置物はバン! とホワイトボードを叩いた。私は思わずびくりと後ろに仰け反った。
<聞こえていますね。声は出せますか?>
 私は「はい」と口に出して言った。途端に、何かが私の肩を揺さぶった。驚いて思わず手で振り払うと、置物たちはしんと静まり返った。
 言葉が通じると分かった途端、私は黙っていられなくなって、立て続けに疑問を投げかけた。
「あなたは、誰だ? 人間か? ここはどこだ?」
 長い間があってから、ホワイトボードに次々と文字が書き込まれた。
<落ち着いて、ゆっくり読んで下さい。私は人間です。ここはY市立病院です。私は、先週からあなたの治療を担当させていただいている、尾崎と申します>
 私はしばらく硬直して、その言葉を反芻した。
 人間がいる。この文字を通じて、私は人間と対話しているのだ。ならば、私が今見ている、この白い塊はなんなのか? 降って湧いた希望にすがろうとする気持ちと、不可解さへの恐怖がないまぜになって、私は混乱していた。
<あなたの目が覚めてから、私たちは何度もあなたと話をしようとしました。しかし、あなたの反応はとても希薄で、まるで我々の姿が見えていないかのように、>
 文章が最後まで行かないうちに、私は平手を突き出して「会話」を遮った。
「お、尾崎さん。ちょっと、待ってください。さっきの質問の答えを、訂正させて下さい。私には、あなたが見えません。変な白いものしか見えていません。あれは、あなたですか?」
 つっかえつっかえ言いながら、私はホワイトボードの脇に立つ白いものを指差した。答えはすぐに返ってきた。
<はい>
 その一言を境に、長い沈黙が訪れた。私はじっとホワイトボードを見つめ、その答えが意味するところを考えた。どうやら向こうも、同じことを考えているらしかった。
 しばらくして、ホワイトボードに再び文字が現れた。
<今からあなたの前に、ある物をかざします。何が見えたか教えてください>
 言葉通り、何かがさっと視界を横切った。何本かの、棒のようなものだ。表面にはいくつもの皺がある。肌色をしている。肌色で、皺の刻まれた、棒。それはつまり、人間の指だ。指の付け根にあるのは、手だ。それ以外に何があるはずもない。なのに、私はそれを自信を持って「手」だと言うことができなかった。
 五本の棒は上下に振れ、折れ曲がり、何度も閉じたり開いたりした。私は必死にその全貌を目で捉えようとしたが、駄目だった。細部を見ていると確かに人の手のようなのに、少し目を離すと、もうそれは最初見た通りの棒になってしまう。
 事ここに至って、私はようやくここ何日かの異常な現象の正体をぼんやりと理解しはじめた。「おかしくなった」のが周囲の世界ではなく、自分自身であることに初めて気がついたのだった。
<何が見えますか?>
 ホワイトボードに、催促するような文章が並んだ。私は不安になった。今自分が味わったものを、うまく説明できるか分からなかったからだ。
「あ……」
 ふと、私は顔を上げ、周囲を見渡した。今までと同じように、ベッドの前にいくつもの置物が並んでいた。
 あれは全部、人間だったのだ。街で見た砂袋も、郵便ポストも、電信柱も——そう考えた瞬間、急に吐き気がこみ上げた。言葉で認識していることと、実際に感じていることが噛み合わずに、体が拒否反応を起こしているような感じだった。口を押さえているうちに、ホワイトボードに新しい文が書かれていた。
<今日はもうお休みください。続きは明日にしましょう>

 翌日から、私はホワイトボードごしに色々な検査を受けた。物を見せられ、写真を見せられ、それが私の目にどう映っているかを説明させられた。必要なことだと分かってはいたが、自分がどれだけおかしくなっているかを思い知らされるのは苦痛だった。
<先週の日曜日、あなたは自宅のそばの路上で倒れて、この病院に運ばれました>
 検査の合間に、尾崎は私に起きたことを少しずつ教えてくれた。
<大まかに説明しますと、あなたの脳には大きな腫瘍ができていました。このままでは命に関わると判断して、私たちはすぐに手術を行い、腫瘍を摘出しました>
 脳腫瘍——倒れる前に聞いていたら、そんな馬鹿なと思っただろう。しかしこうして頭に包帯を巻かれて病室に横たわっている今では、それほど意外な言葉ではなかった。
「もう、摘出したんですか?」
<はい>
 顔が見えないせいか、尾崎の言葉はどれも冷たく事務的に感じられた。腫瘍は取り出され、頭痛は消えた。だが、私にはまだ人間が見えないままだ。
「それじゃ、目とか耳がおかしいのは、腫瘍のせいではないんですか」
 私が尋ねると、尾崎は「お待ちください」と書いて一度退出した後、十分ほどして戻ってきた。
<腫瘍を摘出しても、後遺症が残る場合はあります。少なくとも、命に関わる危険は取り除きました。今あなたが感じている症状については、推測はできますが、まだ断言することはできません>
 それはまるで言い訳のように見えた。
「推測でいいから、言ってください」
 私には顔の表情は分からなかったが、尾崎は迷っているようだった。しかし、私の苛立ちを感じたのか、そのうち観念したように小さな文字でつらつらと彼の推測について書きはじめた。
<脳の障害によって引き起こされる症状の一つに、「失認」というものがあります。言葉の通り、本来なら認識できるはずのものが、うまく認識できなくなるということです。文字が読めなくなったり、物の名前が言えなくなったりします。あるいは人の顔の判別ができなくなって、家族が他人に見えたり、両親の顔も見分けられなくなるようなケースもあります>
 私はその文章を何度も読み返した。理解できたという合図に右手を挙げると、尾崎は文章を書き直した。
<あなたの症状もその一種ではないかと考えています。人の姿を視界にとらえてはいても、それを自分と同じ生き物だと認識することができない。同じように、人の声を聞いても、それを言葉だと認識することができないのです>
 尾崎は私が読み終えるのを待って、それをすべて消した。それから念を押すように、<推測です>と書き足した。

 検査が終わると、私はまたじっと天井を見るばかりになった。本を読もうともしてみたが、目が滑ってうまく頭に入ってこなかった。失認のせいではなく、ただ疲れていたのだ。症状も分かった。原因もおそらく分かった。それで、何が変わった? 結局、何の助けにもならないのではないか。
 人間を人間たらしめている何かがあるとして——何なのか分からないが、私の見ている世界から、それがすっぽりと抜け落ちてしまった。残されたのは無数の人間の抜け殻と、私だけ。からっぽの世界に、私一人がぽつんと寝そべっている。これが、地獄でなくて何なのだろう。
 次に尾崎が病室を訪れたとき、私は思い切って彼に尋ねた。
「治る見込みはあるんですか」
 回答は思ったより早く返ってきた。きっと、事前に考えてあったのだろう。
<まだ何とも言えません。しかし、症状が改善する可能性は小さくはないと思います。各所の医療機関に問い合わせて、リハビリの方法について調べているところです>
「そうですか」
 私はうなづいて、納得したような態度をとった。納得なんか、できるわけがない。私は、今すぐ、治して欲しいんだ。今すぐ、元の自分に戻して欲しい。無理なことだと分かっていても、私は誰かにその正直な気持ちを聞いて欲しかった。
 話を聞いてくれる、誰か——そう考えた時、はっと文子のことを思い出した。なぜ、今まですっかり忘れていたのだろう。私は慌てて尾崎を引き止めて尋ねた。
「文子は? 妻はどこにいますか」
 予想外の質問だったのか、今度は長い間があった。
<お隣にいらっしゃってます>
 はっとして左を見た。ぼんやりと視界をふさぐ影があった。私はずっとそれを、衣装掛けかなにかだと思っていたのだ。自分がひどく冷たい人間に思えて、強い自己嫌悪を感じた。
<隠すような形になって申し訳ありません。ショックにつながる恐れがあったので、まだ直接お話はなさらないように私からお願いしていたんです>
「文子? ずっとそこにいたのか?」
 虚空に向かって問いかけると、耳元でがさがさと音がした。文子が何かを喋っている。私には雑音にしか聞こえなかったが、彼女なりに何か優しい言葉をかけてくれているんだろう。そう思うと、無性に悲しくなった。
 文子はボードに何か書きはじめたが、涙で視界がぼやけてよく見えなかった。
「……すまん」
 私はそれ以上何も言えずに、ただじっとうつむいていた。

3.
 それから一ヶ月が過ぎた。私は尾崎から提示された「リハビリ」に取り組みはじめたが、症状が改善する様子はなかった。
 文子は最初こそ毎日病室に来てくれたものの、徐々に足が遠のいていった。それとなく尾崎に様子を尋ねてみると、物を見るような目付きで私に見られるのが、どうしても耐えられないとこぼしていたらしい。正直、「助かった」と思った。私も、彼女とどう向き合えばいいか分からなかったからだ。
 現実がどうであろうと、私の見る世界に文子はいない。あるのはホワイトボードに書かれた言葉だけだ。私はもう、彼女の顔をまるで思い出せなくなっていた。人間の顔がどんな形をしていたかさえ、曖昧になっていた。思い出そうとして自分の顔に触れると、今度は自分の顔がいびつに歪んでいるような感じがした。
 心にも同じようなことが起きていた。私はだんだん、ホワイトボードごしに人と接する自分の態度が、冷たく機械的になっていることに気がついた。文子に対しても、あるいは世話してくれる看護師たちに対しても、私は感謝より先に鬱陶しさを感じるようになっていた。
<それは障害によるものというより、心理的な問題でしょう。周囲の人間が置物のように見えるので、あなたは無意識のうちに自分も同じものだと、人間ではない「物」なんだと思い込もうとしているんです>
 でも、あんたは心理学の専門家じゃないだろう。そう口には出さなかったが、私は尾崎を心からは信用できなくなっていた。もし彼が嘘をついても、私には分からない。心配するようなことを言いながら、顔はにやにや笑っているかもしれない。
 疑念は尾崎に向き、文子に向き、周りの人間全てに、それから自分に向いた。自分の脳でさえ私に嘘をついているのに、どうして他人を信じられる? そう考えると、疑うことも無意味に思えた。確かめようがなければ、本当も嘘も同じものだ。
 私は折角つながった現実との接点を、自ら閉ざそうとしていた。尾崎と会話が通じる前のように、周囲で起きることすべてに無関心になっていった。尾崎の言う通り、私は物になろうとしていたのかもしれない。自分の外側と同じように、内側もからっぽなのだという気がした。

 ある夕暮れに午睡から目を覚ますと、枕の横に手紙が置かれていた。それは文子からの、遠回しな別れの手紙だった。@

離婚届が置かれていた。文子の名前が書いてあった。私はそれほど驚かなかった。腫瘍のことがなくても、こうなっていただろう。それに、彼女をこれ以上自分に、妻の顔も思い出せないような人間に縛り付けておくのはあまりに気の毒だった。私はすぐに署名して、尾崎に渡した。
 そうして、私は本当に一人っきりになった。両親とも仲が悪いし、会社の同僚とも大した関係を築いてこなかった。ベッドの上に横たわった自分だけが、私の全てだった。

 翌日の早朝、私は小鳥の鳴き声を聞いた。
 美しい声だった。何の鳥かは分からない。もっと近くで聞きたくなって、私はベッドから起き上がった。自分で思っていたより、体力は回復しているようだ。以前のように、足がふらついたりもしなかった。
 ベッドの傍の時計は、午前五時を指していた。廊下の足音はまばらで、カーテンの向こうはほんのり薄暗い。病室はがらんとしていて、今は本当に私一人しかいないようだった。長い間そうして、じっと聞き入っていた。
 小鳥が飛び去ってしまうと、私はまた一人っきりになった。
 あれは私だったのかもしれない。ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。人間としての私の心が、鳥の形になって飛んでいってしまった。そして、抜け殻だけがここに残っている。感情もなく、目的もなく、ただここにあるだけのもの。
 突然、発作的な恐怖に襲われた。そうして抜け殻になっていくことを、受け入れようとしている自分が恐ろしかった。
 気がつくと、私は病室から逃げ出していた。寝間着のまま病室を出て、廊下を駆け抜け、病院の外に向かって、恐怖から、自分から逃れるために走った。突拍子もないことをしていると分かっていたが、立ち止まることはできなかった。誰にも呼び止められなかったし、呼び止められても私には聞こえなかっただろう。
 私は失ったものを探して、街を歩き回った。それは小鳥であり、腫瘍にやられる前の私の心であり、文子の顔であり、もはやどこにもないものだった。ないことを分かっていながら、私はそれでも歩いた。
 早朝にも関わらず、人間がそこら中にいるようだった。倒れた日と違ってもう郵便ポストなどには見えなかったが、それでも悪夢の世界であることは変わりない。人型の木が辺り一面に生えているような感じだ。私は深い森に迷い込んだ子供の気分だった。
 そのうち、日が高くなりはじめた。通勤者たちが群れをなして、街に流れ出てくる時間だ。朝の日差しの下で、木々がどんどん増えていく。森が深く、さらに深くなっていく。孤独がいや増して、寒さの中にもかかわらず、汗が頬をつたった。頭も朦朧とし始めた。熱が出ているのかもしれない。しかし、病院に戻る気はしなかった。このままでは、もう生きていけないと分かっていたからだ。
 とうとう歩けなくなって、路上にうずくまった時には、もうこのままじっとして、二度と立ち上がるまいと思った。立ち上がる理由は何もなかった——次の瞬間までは。

 それはほんの偶然だった。私の目の前で、小さな粘土人形が、おそらくは子供が、ちょっとした段差につまづいたのだ。
 私は反射的に立ち上がって、その子供らしきものに手を差し伸べた。彼だか彼女だか、人間だか宇宙人だか分からないその小さなものは、私の手をぐっとつかんで体を支えた。転ばずには済んだものの、腕に体重がかかって痛かったらしく、子供はびいびいと泣いた。本当はもっと意味のある言葉でわめいていたのかもしれないが、とにかく私にはそう聞こえた。
 その間中、子供は私の手を握っていた。私は振り払うわけにもいかず、じっと立ち尽くしていた。そのうちそれは泣き止んで、私に向かってペコリと体を折ってから、駆け出していった。そして、木々の中に混ざって消えた。
 私はしばらく座り込んで、じっと自分の手を見つめた。それはまだ、人間の手の形をしていた。そうしているうちに、だんだん笑いがこみ上げてきた。私は大声で、人目をはばからず、息が切れるほど笑った。
 それから、試しに私は森の木々に向かって右手を突き出し、にっこり微笑みかけてみた。ほとんどは逃げ出し、数人は手を握り返し、最後の一人が警察を呼んだ。私はその結果に満足だった。もうしばらく、生きていけるかもしれないという気がした。

4.
 病室に戻されると、ベッドの傍に一人の人間が立っていた。私はそれが誰かも確かめずに、そっと右手を差し出した。相手はそれを握り返した。私はその手の主を知っていた。ベッドの上には、破かれた離婚届があった。
「きみに何を返せばいいのか、私には分からないんだよ」
 私は素直な気持ちを伝えた。彼女は私の手に、指で文字を書いた。私は、今までに私の流してきた涙が、どれも自分を哀れむためだけのものだったことを思い知った。私は彼女の頬に触れ、ようやく彼女の顔を思い出した。

(おわり)

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