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「ブロークン・アロー」

 私は走らずにいられなかった。その日は雨が降っていた。私は頬に額に当たる雨粒を味わった。いい気分だった。私は折られた矢だった。戦争は終わった。戦争は終わったんだよ、きみ。
 私たちの荒廃した心は、地面に埋められてそのうち土に還るだろう。折れた矢は土に還るだろう。私はとてもいい気分だった。今日は戦争が終わった日だ。明日がくることは考えないようにしよう、明後日や明々後日はもっとずっと先のことだ。私はもう二度と弓に掛けられることのない矢だ。飛ぶことは考えない。私の心はもうない。

 職場で自殺者が出たあと、私たちは彼のことをズルい奴だと言って笑った。神田駅前の笑笑での話だ。思えばひどい名前の飲み屋を選んだものだ。人が死んだ日、私たちは笑笑でビールをジョッキ三杯ずつ飲んだ。私たちは悲しまなかった。悲しむ方法が分からなかった、分からなかったのでただ酒を飲むしかなかった。酔っていくうちに私は失われたもの、同僚一人の命について考えた。
 その数日前、日曜の夜十一時、彼は私と一緒に職場近くのコンビニで夜食を買ってきて食べていた。私の隣のデスクに座って、唐揚げ弁当をぱくつきながら、彼は言ったものだった。
「つらいですね、本当にこれじゃつらいですよ。どうしたらいいのかな。僕には分からないです。人員を増やしてもらって……それでまた教えなきゃならないでしょ。誰かそんなヒマあります? 僕、もうムリですよ。どうしたらいいのかな」
 私は半分眠りながら辞表の書き方を検索していたので、あいまいに返事をした。はあとかふむとか言って、噛んでいたガムをティッシュの中に吐き出した。
「それって、どういうことです?」彼は問い返してきた。
 どういうことかな、ごめん、おれにも分からないよ。そう言うと、彼は弁当の容器をパシッと叩いた。弁当はひっくり返って、唐揚げがデスクに転がった。それは私に対する抗議行動のようでもあった。私はどきりとして彼を振り返ったが、彼は特にそんなつもりはないようで、ああやっちまった、と言いながら唐揚げを拾って口に入れていた。
 彼は昨日精神科へ行ったと言っていたが、彼の欲しかった診断は出なかったらしい。私は残念だったな、と言った。彼はどうでもいいですよ、と言って笑った。その頃から、死ぬつもりだったに違いない。彼はいい選択をした。彼はいい選択をしたと思うよ、きみ。
 彼の矢は空の向こうに飛んでいった。

 心が折れるまでに、どれだけの負荷をかける必要があるのか。私はそれをしばらく試してみるつもりだった。窓のない仕事場に発酵した死の臭いが充満してくる中で、私は逃げ出す方法を探すのをやめた。私には、歩き出すには重すぎる足があった。呼吸をするには、重すぎる唇。ものを考えるには重すぎる頭。
 心というものがどういう形をして、どういう仕組みで動いていたのか、私は思い出すことができなかった。そもそも、知っていたことがあったのか?
 小学生の頃にも同じ疑問を抱いたことがあった。ときどき自分の心臓が、変な音をたてている気がしたからだ。しかし、私はすぐにその疑問を投げ捨ててしまった。せっかく今動いているものを、あえてばらばらにしてまで中身を調べる必要などないと思ったからだ。
 今になって、ちくしょう、私は自分が間違ったことに気付いた。間違いは正されなければならない。しかし、どうやって?
「中島君、間違いはすぐに直さなくちゃいけないよ。そのままにしていれば、いつかどこかで破綻してしまうんだ。気付いたら、すぐに直さなくちゃ。でなきゃプロジェクト全体が止まっちゃうでしょう。プロジェクトが止まったらどうなる? これで食ってる人、みんな死んじゃうんだよ」

 日本にはいくつかの信仰がある。厚く信仰されているものは北欧神話だ。みんなワルキューレが好きだ。彼女たちはよく漫画の中で陵辱されて、ことさら日本人の男を喜ばせる。そして仕事をしながら死んだ者の魂は、彼女たちに連れられてワルハラへと赴き、酒池肉林を楽しむのだという。そのようになっている。そうでなくて、どうしてみんな毎朝電車に乗ることができるのか。そうでなくてはいけない。そうでなければ、納得ができない。正当な対価がない。正当というのは踏みにじられるための言葉だ。藁の上に倒されたワルキューレのように。
 一体どれだけの血が車輪に巻かれて都心を回っているのだろう。どれだけの肉が枕木にまとわりついているのだろう。いくつもの死が東京を回している。いくつもの死が電車を走らせている。私は彼らを尊敬する。彼らは一足先にワルハラで待っている。戦って死んだ者たちを鉄の車輪で踏み越えて、私たちは勇ましく会社へ行く。
 おまえたちは呪われた人間だ。

 私たち、くそっ、「私たち」だ。

 会社に辞表を出した後、小雨に濡らされながら、私は近くのタリーズコーヒーに駆け込んだ。
「ご注文はお決まりですか?」
 フーッと一息深く吐いて、私はゆっくりとカウンターに向かった。私が飲みたいのは適当なコーヒー、それからビスケット、適当にその辺に並んでるやつ、あの四角いのを一つ私に下さい。そう言うつもりで、私はハァハァと息を吸い込んだ。だが、言葉は一つも出てこなかった。喉にタンがからんで、私はひどく耳障りな咳を二三度して、ようやく絞り出すように注文をした。なんと言ったのかも定かではない。しばらくして、私のテーブルにはなんだか分からない緑色のカプチーノと黒いマフィンが置かれた。私はそう注文していたらしい。
 カプチーノを啜りながら、私は頬についた雨粒をひとつひとつ、iphoneの鏡面で確かめながら拭っていった。
 ごめん。
 一つの雨粒が消えるごとに、私は死んだ男に向けて言っていた。
 ごめん。ごめん、ごめん。悪かった、私が悪かったんだ。私はまた戦いに行くよ。そして今度こそ死んでワルハラへ辿り着く。今度こそお前に謝ろう。戦争が続いている。私だけ逃げ出してはいけなかったんだ。私があそこで死ぬべきだった。みんなあそこで死ぬべきだったんだ。誰も生き残ってはいけなかった。そうして初めてお前が報われることになる。

 マフィンが転がった。

 私は自分がとめどなく泣いているのだと思った。頬に触れると、涙など一滴も流れてはいなかった。ハンカチで油を拭き終えた頬はざらざらと乾いていた。私は自分が頭の中で言ったことが、ひどい傲慢な独り善がりだったと気付いて、恥ずかしくなった。
 別に何も失われたわけじゃない。最初から何もなかったんだから。

 マフィンはまだ、そこにある。

 外へ出ると、雨は止んでいた。最初から雨など降っていなかったんだ。
 ねえ、もうこんな作り話を書くのは止めることにするよ、きみ。自殺者なんていなかった。神田駅前に笑笑はない。唐揚げをひっくり返した男、あれは私の話だ。私はまだ生きている。矢はまだ手の内にある。まだ、放たれてすらいない。

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