夏の方舟 #01-02
#02
「ちょっといいか」
紺の作務衣をまとって白髪をオールバックにした鋭い眼光の山城は、五〇すぎという齢を感じさせない不自然な若々しさを漲らせながらそう言った。
鼻筋の通った整った顔に軽薄そうな唇。一八〇をこえる長身。若い頃はさぞかしもてたのだろう。噂では高松のいかがわしい店に愛人がいるらしい。やもめ暮らしなので、だれにもとがめられる筋合いはないのだが。山城に関しては妙な噂が多い。どこかで罪を犯して逃げてきたとか、元はヤクザだとか。
島に現れたのはいつだったのだろう。
俺が物心つく頃から、山城はすでに寺の坊主だった。もっとも、昔から坊主には見えなかった。
「平気です……けど」
「お茶でもいただこうか」
けど、ってところで察して帰れよ──口には出さず目で訴えてみたが、にらみ返される。
玄関から居間に移動すると、ここ数日のあいだにたっぷりと畳に染み込んだ蚊取り線香のにおいがした。
「今日は夕方から初戸のほうで精霊流しがある。見に来たらどうだ」
「悪いんですが、仕事がいそがしいので」
「そうか。ところで、頼んでた仕事、どのくらいできた」
「もうほとんどできてます。見ますか」
扇風機を「強」にして首振りを固定すると、座布団に座ってちゃぶ台の上のノートPCを立ち上げる。無地でなにも刻印がされていない特注のチタン製キーボードは、ひんやりとして気持ちがよい。
「ほぉ」
頼まれていたサイトを見せると、山城が感嘆とも相槌ともつかない声をあげた。
島めぐりと巡礼をあわせた新しい聖地づくりを計画したいといわれ、考案したものだ。
サイトで会員登録するとスマートフォンと連動して、島めぐりをガイドしてくれるアプリケーションが入手できる。美術館の音声ガイドのようなものが、このサイトを通して無料配布されると考えればいい。
システムの大部分の仕様は俺がきめた。高松に優秀なフリーのエンジニアがいたことで作業はスムーズにすすんだ。
瀬戸内海にはひとつの島を四国に見たて、その中で八十八ケ所をめぐる「島四国」と呼ばれるものがある。だが、提案されたのはそれとはちがい、八十八の島をめぐるものだった。
聖地というと、由緒正しい古来の土地というイメージがあるが、歴史的に見るとだいたいの聖地は後付けで作られたものにすぎない。
「いちおう八十八島、全部のデータは入れ終わったんで。今はティザーサイトを公開してます。あとは、協力してくれる漁協の人のスケジュール表だけです」
フェリーが出ているのは大きな島だけなので、小さな島へいくには漁協の船を借りるしかない。そのへんは住職が話をつけているらしい。
「問題ない」
「じゃあ今月中に」
「まかせた」
子供のころから面識があるものの、こうして山城と茶飲み話をするようになったのはちょっと前のことだ。
檀家の老婆の家から、死んだ爺さんの日記がみつかった。山城は家族から相談を受けたらしく、なぜか俺のところにやってきて、データにして自費出版で本を作るとかいう話をもちかけてきた。思いつきで、日記をテキストデータにして、それをランダム抽出して液晶タブレットに今日のひとことを表示するのはどうかと提案してみた。
当然、俺は依頼者を怒らせるつもりだったが檀家の息子がその話に乗ってきた。
結果的に仕事をすることになった。
仏壇にそなえられた液晶タブレットに故人の言葉が浮かびあがり、老婆がそれを見て涙するというのは、見ていて妙な気分になるものだ。
なんだか罰当たりにも思えるが、死者のデータを有効利用するという意味ではひじょうに革新的なこころみだったらしく、興味を持った媒体から取材がいくつかきた。そのせいで、いまは、この島の仏壇の半分くらいに液晶タブレットがおかれるようになっている。田舎は保守的だが、前例ができるとやけに寛容になる。
「おまえの趣味のほうはどうだ」
「ご覧になりますか」
ブラウザから別のサイトに飛ぶと、画面の横に時間をさかのぼるタイムラインバーがついたフラットデザインの、シンプルな島の地図が表示された。
バーを上下に動かすと、島の時間変化がみられるようになっている。
ためしに一番下の一万年前にあわせると、海は消えて陸地になる。その頃はこのあたりの島もまだ陸続きだったということだ。
「貸した寺の資料は役立ったか。なにしろ古いからな。大変だっただろう」
「まあ、それなりに……」
「そうか。趣味とはいえ、よくここまでやれるもんだ。他の仕事の合間にやってるんだろ」
「まあ、だいたい閑なんで」
俺の生活は、裏庭の蔵に立てたサーバで、島のあらゆるデータを管理することで成り立っている。観光客のデータとホームページの管理、住民の家に宿泊できるサービス、一番大きいのは漁協のデータ管理だ。
漁業の世界はアナログ、デジタル、ともに膨大なデータの蓄積があり、生活と結びついている。水温、天候、魚の棲息区域、人工衛星の位置から海底の形までさまざまだ。内海だからまだ少ないが、外海だったら手に負えないだろう。
東北の震災のあと、津波にのまれて瓦礫だらけになり、想い出の中だけにしか存在しなくなった土地を見て、心の中でなにか言葉にできない感覚が芽ばえた。それは棘のようなものだった。
いつかこの島も、みえない情報の波にのまれて、いろいろなものが消えてしまうだろう。
そう、
島はすでに忘れ去られている。
三月の白い花も、七月の風に乗った濃い潮の香りも、九月の蔦の力強さも、一二月の海にふる雪も。
想い出のあらゆるものは、そとの世界に出て行った人々のもので、その胸のおくに遠い影となってしずみ、記憶の底をたゆたっている。
忘れられた場所で生きている人々は、みな影だ。
誰かの記憶のなかだけで生きる、うす暗い影。
仕事の合間に、想い出をデジタルデータの形で保存するアーカイブプロジェクトをはじめたのは、なにか確固たる信念があったわけではない。
ただ、なんとなくだ。
写真、文書、口伝できいた音声データ。過去の歴史から、地形、人口推移や天気、昔話まで。ただそれらを集める。死ぬ間際に人は走馬灯のように想い出を見るというが、ここでは俺が走馬灯の管理者だ。
「こうして、みんなデータになり、古いものは忘れられる……島の明かりも取り替え作業が進んでいる」
「そのようですね」
島ではいま、街灯の電球をLEDにする作業が行われている。
「海辺の電話ボックスも、もうじき撤去される。だが、誰もそれを気にしない」
山城は懐かしむように遠い目をした。
「あれは味があって、悪くない電話ボックスだった」
そう思うなら戦うべきだったのだ。できないなら、あんたの美学が敗北しただけだ──心の中で嗤う。
俺なら、美しいと思うものを思うままに残してみせる。
*
山城が帰ったあと台所にいって冷蔵庫から麦茶をとりだし、ペットボトルのまま一気に半分くらいをのみほし、小腹がすいたので水茄子を切る。
ふと、外から聞こえた雨音に顔をあげ窓から外を見た。
眼鏡越しに見た真夏の強い陽射しのなかで、雨が降っていた。
天気雨だ。
太陽をとかしたような大つぶの黄色い雨が、ばちばちと重い音をひびかせて、裏庭の蔵の屋根とかわいた地面にふりそそぎ、薄灰色の土をあっというまに黒くぬりつぶし、あたりにぬれた土の香りを立ちのぼらせた。
もやがかった庭の上を、淡い茶色のカケスが硝子切りのように横切り、生け垣の刺草におちたしずくがはじけ、虹色の水煙となって浮かぶと、水無月はこの世ではないところをのぞいたような不思議な気持ちになり、気がつくと足をゆっくりと裏口のほうへとむけていた。
裸足のまま土を踏んで庭に出た瞬間、小さな花壇に植えたひまわりの花びらが雨にうちおとされ、子供が遊ぶ声のような、明るい色をまき散らした。
それと同時に、遠野宮光輝と過ごした日々の記憶が押し寄せて、身体に流れる血液のすべてが想い出に入れ替わる。
電話ボックスで、白いノートをかかえた遠野宮は言った。
──だからさ、運命はきめられてんだよ。
溺れそうになる想い出の水面から、顔を出して呼吸するように空を見上げると、足に力を込めて前を向く。くちびるをとじて、のけぞるように深呼吸すると、樹々の青臭さに身体の中がみどりの空気に染まり、なつかしさに胸が痛んだ。
天気雨がやむと、憑きものが落ちたように頭が冴えわたっていく。
しっとりとぬれた土蔵の漆喰壁が光をすいこみ、三角屋根から雨のしずくがきらきらとたれ、つるくさにおちた。
気がつくと、古い炊飯器が、台所で気怠そうに半音低いアマリリスを歌っていた。
我に返って足の汚れをおとして台所にもどり、戸棚からとりだした皿に、皮を剝いて半月状にスライスした水茄子をならべ、鰹節をのせ、ゆずと生じょうゆをたらしてサラダにしてひとくち味見をした。搾れば水があふれるほどにみずみずしいそれは、口の中でまるで果実のようにさくさくと音を立てる。
ふと、思う。
こんなささいなことすら、遠野宮のノートにあらかじめ書かれた「きまっていること」なのだろうかと。
(つづく)
よりよい生活のために役立てます。