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夏の方舟 #04-05

05


「そういうわけなんで、ちょっと家出してきます」

 隣の姉ちゃんの部屋のドアをあけ、ベッドの上に座って本を読んでいるSに言うと、

「思い出した」

 そう言ってポケットからよれよれの茶色い革の二つ折り財布を取りだしてうに子に放り投げる。

「それ、返しといて」

 うに子が不思議そうにそれをあけると、中には免許証とうに子の写真が入っている。

「これ、うちのお父さんの……」

「あとで慰謝料払ってもらう。用意しとくように言っといて」

「……え?」

「君の父は僕を買った。殴った。捨てた。女子高生に拾われた。イマココ」

「……す、すいません……」

 困惑しているうに子を無視してまた本を読み始める。なにやらアナーキーな出来事があったらしいが無視しよう。

「じゃ……ぼくら、今から夢と幸せを探す旅に出ますんで……」

「見つからないことを祈ってる」

「いやいや、大人としてはもっとこう、前途を祈る的なことを言うべきじゃないっすかね……」

「どうだろう。青い鳥を見つけた子供が幸せだったとは限らない」

「え……?」

「幸せは誰かの不幸で、夢は誰かの現実ってこと」

 難しすぎてよくわからない。

「もっとなにか、夢のあること言って欲しいっす」

 Sは少し考えて、紙にペンでなにか書いてぼくに差し出す。

「なんですかこれ」

 紙には数字が書かれていた。

「神様の電話番号。これに祈れば、願いごとが叶う」

「すてき!」

 うに子が喜んだ。
 ぼくはまったく嬉しくない顔で礼を言って、その紙片をポケットに入れると、うに子の手をとって家を出た。

 電車とバスを乗り継いで海岸沿いの産業道路に出る。
 海に近い町っていうのにもいろいろあって、ぜんぶが映画みたいにかっこよくて爽やかなわけじゃない。その爽やかじゃないほうの代表がこの町の海。
 ぼくらの海は灰色だ。
 海辺にある工場のせいかもしれないけれど、やたらとにごってるうえにゴミとか油が浮きまくり。とても泳げるような場所ではない。ぼくはまだ生まれてこのかた海水浴になんて行ったことがない。行きたいとも思わない。
 市民プールのほうがきれいだし、ゲーセンもある。もっとも、そこにあるゲームはおそろしく古くて、木でできたパチンコ台とか、どっから出土した化石だよってレベル。
 海をながめながらとてとてと歩く。
 海岸線に沿って走る産業道路をずーっと何日も歩けば大阪まで行けるはずだった。
 息切れはしないけど、三時間後には足がちょっと痛くなっていた。

「大丈夫か。先は長いぞ」

「うん。うに子は大丈夫だよ」

 実際ぼくはいい加減疲れていた。でも死んでもそんなこといえない。
 どこまで行っても海岸と工場地帯は終わる気配がない。
 陽がしずんでどんどんあたりが暗くなっていく。
 その闇の中を巨大な貨物車輛を背負ったトレーラーが走っていく。排気の臭いとエンジン音。昼間はただの車だったのに、夜になるとそれはまるでぼくたちを威嚇する鋼鉄のバケモノみたいだった。

「あ、あれ……見て」

 うに子が車道を指さした。
 それは道についたしみに見えた。
 けれど目を凝らすと、ちゃんとしっぽや毛があって、ちょうど成金の家の床に飾られてる獣の毛皮みたいにぺったんこになっているのだった。

「猫かな」

 猫のしみには足が三本しかなかった。
 まちがいない。ぼくのケータイに入ってる〈ヤバイ〉猫だった。

「…………」

 写真を撮るまでひっかかれたり、逃げられたりして大変だったのに。スルメみたいになっちゃってるそいつに、怒りさえ覚えた。
 簡単にひかれてんなよ。

「気のせいだよ」
 せいいっぱい虚勢をはってそういった。
 ちょっと歩道を外れたらぼくたちはあんなふうにあの車輪に巻き込まれて黒いしみになってしまう。こんな華奢なガードレールなんか役に立たない。
 数メートルの距離で生と死が決まる。死がこんな身近にあることにどうして気づかなかったんだろう。
 市民プールにあったゲームを思い出した。
 フロッガー。カエルを操作して車の走る道路を横断し、向こう側へとたどり着かせるという、ただそれだけの単純なゲーム。貴重な一〇〇円をその数ドットのカエルに託してみたけれど、残念ながら一度もぼくはカエルを助けられなかった。
 自分がもしあのカエルだったらどうなるんだろう。誰かにプレイされて、レバーで操られて、いまにもガードレールを乗り越えてあちら側へと……。

「手、つながねえ?」

「うん」

「危ないからな……」

「……うん」

「他に意味はないからな」

「う……うん」

 うに子の手は汗ばんでいたけどちょっとひんやりした。ぼくの手はちょっとだけ震えていたかも知れない。
 クスッと、うに子が笑った気がしたのだけど、ぼくは気のせいだと無視した。

「夢っていつ見つかるのかな」

 うに子が疲れた声でつぶやく。
 いつだろう。ほんとに見つかるんだろうか。そもそもどうやって見つけられるんだろう。

「そうだな……見つけてやるよ」

「ねえねえ、おーちゃんのお嫁さんになるー……ってだめ」

 ありきたりな、子供みたいな台詞が様になってた。
 大人がみたら笑顔で祝福したくなるような。浅はかで、ガキ臭くて、希望と夢だらけの甘ったるくて、うすっぺらい夢だ。
 嬉しかった。けど、素直に笑えなかった。うに子の人生には、たぶんぼくが思いもつかないような苦労が待っていることくらい簡単にわかるし、同時にぼくがわからない幸福もあるのだろう。サガンだって言っていたじゃないか。「たとえ悲しくて悔しくて眠れない夜があったとしても、一方で嬉しくて楽しくて眠れない日もある人生を、私は選びたい」って。そうあるべきだ。

「逃げじゃん。それって」

「なんかもう……どーでもいいなあ」

「そんなこというなよ」

「どーでもいいな……めんどくさい」

「めんどくさいとかいうな」

 なんか、そういう投げやりな、うに子の態度にすごい腹がたって、思わず手を振り払っていた。

「じゃあぼくが決めてやる。いいか、戦略的に考えてこの時代をサバイブするには得意分野を伸ばすしかないとおもうそして算数に関して突出したおまえの才能というのは素晴らしくおまえは算数が得意だから数学者になれ数学は社会で役に立たないけど研究にはきっとなにかすごい役に立つんだとおもうんだよすなわち学者だ学者論理と数学男は女の哲学者はいないとか女は論理に弱いとか判断力が劣るとかそんなアホなこというがそんなわけないんだよ。男なんて子供も産めないし、現実見ないし、ナルシストだし、頑固だし、女のほうが優秀なんだよ。算数好きだろ?」

「う、うん」

「ならきっとなれる! 数学者かっこいいじゃん」
 なにか、きょとんとした顔で、

「うん、よい……かも」

 次に催眠術が解けたようなスッキリした顔で、うに子は笑った。

「うん。そうだね、なるよ」

「そうだがんばれ。おまえならやれる。男なんか女よりダメだって証明してやるんだ」

 床の上で、売れもしない文章の書かれた原稿用紙にゲロ吐いて死んだりするような男。

「男なんかダメなやつばっかなんだ。社会のクズだ」

 母が別の男の人を好きになっても、なにもいえないで、母に似たグラビア女優の写真集を買ってきたり。

「そうかな……そんなことないんじゃないかな」

「そーなんだよ! 男はダメだ。もう終わってる! 男は女王蜂のために働く去勢された働き蜂の群れになってしまうんだ!」

 貯めた小銭で買った安物の指輪とか、センスの悪いメイド・イン・チャイナのバッグとか、深夜の通販の怪しい化粧品とか、そんなもんを貢ぐことでしか愛情を示せない役立たずの働き蜂。
 でも、親父のこと嫌いになれなかったなあ。

「おーちゃんもダメなの?」

「え? ぼく?」

 ぼくは……親父しか見習うべき男がいなくて、でもそれはスゲーダメダメで。マンガの中にいるようなオラオラなヤンキーもいまじゃもう町でも見かけないし、どうやって男になりゃいいのかなんてわからない。

「ぼくは……」

「おーちゃんはダメじゃないとおもうよ。うに子の夢を探してくれたからダメじゃないよ」

 晴れやかなうに子の顔を見ていると落ち込んだら悪い気がして力強く「おう!」とはいったものの。
 これでハッピーなのか? そうなのか?
 自分のやったことに疑問が出てきた。
 なんか……ちがう。
 押しつけた夢とか、そんなんで満足されても仕方ないんじゃないだろうか。
 その前にぼくの夢ってなんだっけ?
 ぼくの夢は中学生になったら街に行ってギャングになってヒップホップとかやって(ヒップホップってどうやるんだろ)そんで、マンガみたいにヤクザとかに一目おかれて(一目ってなんだろ)街の王様になって(王様ってなんだ。民主主義だぞこの国)ある冬の夜とかにヒットマンに撃ち殺されることで(え、マジ……終わりっすか?)。
 最悪だ。
 こんなの夢じゃない。
 なんで気づかなかったんだろ。ぼくはたぶん、うに子の夢を探すことで、自分が男だってことを認めてほしかったんだ。それだけだ。

「帰ろう……」

 縛り首にされたような角度でうなだれ、目を閉じた。

「うん……なでなで」

 うに子は半泣きになってるぼくの頭をなでた。
 情けない姿だ。誰かに見られてやしないかあわててまわりを確認する。
 ぼくたちを見ているのは光る目の巨大な車だけで、それも興味なさそうに脇を素通りしていく。ぼくなんかしょせんはそのていどのちっぽけな存在だ。

(つづく)






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