夏の方舟 #03-08
08
風の音で目が醒めた。
「……っつ」
寝返りを打とうとすると、腹に灼熱の棒を差し込まれたような痛みを感じた。シャツをめくってみると腹部には白い包帯が巻かれていた。いつ服を着替えたのか、思い出せない。
窓のカーテンのむこうからうす暗い夕陽が差し込んでくる。どうやら夕方らしい。半日眠っていたようだ。
「お、やっと起きたか?」
思わぬ声に、身体をびくんと固めたせいで腹部に強烈な痛みが走り、息がつまった。
「調子はどうだ」
小田桐だった。
「どうして、いるんですか」
床の上に散乱したジグソーパズルの一ピースを、手の中でもてあそびながら小田桐はあきれたように言った。
「おいおい……おまえが電話してきたんじゃねえか」
そう言って彼は自分のスマホの画面を見せる。巻村からかけたらしい、着信履歴があった。
いったいどうなっているのか思い出す──ステージを強制終了させられたあと、店のそとに出てどこをどう逃げたのか……帰り道で倒れ、誰かに電話したような記憶が確かにある。どうやら小田桐だったらしい。
「びっくりだぜ。腹かっさばいてるんだからさ……さすがになんか訳ありっぽかったから、知り合いの病院に運んで応急処置してもらった。幸い傷は浅かったよ」
「……すいません。ご迷惑おかけして」
「薬のんどけ。ポケットに入ってる」
服のズボンをさぐると、その医者に持たされたらしい薬が入っていた。蒲団の上でそれを飲んで、また微睡んだ。
「待ってろ、ちょっと食い物作ってやるよ」
巻村がなにかを言う前に、小田桐はキッチンに立った。
一人になりたかったが、それを口にするのも面倒だった。
風が窓を揺らすカタカタという安っぽい音が聞こえる。
交わっても満たされなかった──最初からそうなるとわかっていた。
──この世界には消すことでしか、所有できないものがある──それが巻村の確信だった。
立ち上がって押し入れから、形見のナイフを取りだして見つめた。
隣の部屋のテレビの音が聞こえる。
天気予報が、夏の終わりに大きな台風が近づいていることを告げていた。
それが本当にテレビの音なのか、単なる幻聴なのか、なぜかもう気にならない。
窓に近づいてカーテンを開ける。遠くに見える夕陽に照らされた黒い積乱雲は、母の首にすいこまれていったナイフと同じ、重々しい鈍色をしていた。
窓を開けると、大気に新鮮な雨の匂いが混じっていた。
それはきっと、生まれる前に住んでいた、あの森の中の小さな家に充ちていた、湿った空気の匂いだ。
もういちど自分の身体を切り裂いてしまおうかと、ナイフを逆手に持ってみる。
「なにしてんだ? めしできたぞ」
小田桐の声が聞こえ、台所から流れてきた香ばしいスパイスの匂いが、巻村の鼻をくすぐった。
「見ろよ、俺の特製リゾット」
振り返ると、テーブルのない殺風景な部屋の床に、明るい色をした料理が並んでいた。トマトベースの赤い色に、溶けたチーズとスパイスが散らされている。
巻村はナイフをそっと押し入れに戻した。
床に座りプラスチックのスプーンを手にして、リゾットを一口食べて目を見開いた。
「まずいです……」
「うるせえな。そういう料理なんだよ」
小田桐もそれを一口食べ、「確かにまずいわ」と快活に笑った。
まるで電球がだんだんと明るくなるように、ゆっくりと部屋が色づいていく気がした。
※
台風が去ったあとの翌週は、蝉が最後の日を謳歌するようにやかましく鳴いていた。
電車から降りると、大型犬のため息みたいな温かい風が吹いてきた。日暮里駅の北口の階段をのぼり、駅を出てすぐ目の前の坂道を歩いていると、どこからか、ときどきなつかしい線香の匂いや子供たちの嬌声が聞こえてくる。
巻村は汗をぬぐいながら、和菓子屋でお供え用の菓子を一つ買って路地を入った。
ひどく曲がりくねった水路のような道を歩き、左手につづく高い塀が途切れると広大な霊園が姿を現す。かつての文豪が多く眠る地は、終焉にふさわしく静謐で凜とした空気に満ちていた。
霊園内の小さな公園の南に銀杏の木があり、その脇に母の墓はある。
誰も手入れしていないらしく、その一角だけ雑草が生え、墓石が汚れていた。作務所で借りたバケツに水を入れ、雑巾で墓石を掃除する。菓子を墓に供えて線香に火を付け、形式にならって手をあわせ、目を閉じると、白檀の匂いと、夏の樹々の萌えるような青臭さが身体の中に溶けた。
ふと、
寺の境内から流れてくるお香の匂いに混じって、わずかに薔薇の香りを嗅いだ気がした。
顔をあげてあたりをゆっくりと見回す。
墓地から駅に向かう並木通りに、視線が吸い寄せられる。
美しい人がいた。
雪のように白い首筋にうっすらと指の形の痣をつけた、黒いサテンのシャツに黒いパンツ姿の、小柄でほっそりした男だった。
最初は別人かと思った。
目深に黒いニット帽をかぶり、車椅子を力強く操るその姿が、記憶のなかの彼と容易にはつながらなかった。けれど、それは確かに彼だ。
以前とは見違えるほど顔色が良く、まぶしいほどの生命力にあふれていた。
心の底から安堵している自分がいた。
彼が生きていることが、ただ嬉しかった。
それだけで良かった。
彼はぎこちなく車椅子を走らせ、通りを抜けて、低い生け垣のある路地に入った。
身体を青々とした緑の生け垣に隠され、首だけの姿で去っていく姿を見送りながら気付いた。
もう、夏は終わるのだ。
秋の冷たい水をふくむように、巻村の唇がやわらかくゆるんだ。
あたりに漂う薔薇の香りが消え、蝉の声が止み、涼しげな風が吹いた。
第三章 終
(つづく)
よりよい生活のために役立てます。