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夏の方舟 #01-01



新聞記事より抜粋

 八月●日未明、K県T島の教会から出火し、焼け跡から三人の遺体が発見された。身元は、牧師の遠野宮純さん(五一)、長男の遠野宮光輝くん(一三)、島に住む信者の黒坂曜子さん(四〇)。近所の住民の通報により消防団が駆けつけた時にはすでに建物は全焼。警察では放火の疑いがあると見て捜査を続けている。

 第一章 水の影踏み

#00

 そのノートには、人の運命がすべて書かれているという。
 それを初めて見たのは、小学三年生の夏、今日よりもいくぶん涼しい夏の日だった。
 白いノート、赤い蟹、透明な電話ボックス。ISDN端子のあるグレーの古い電話。まとわりつく湿気と、蟬の声と、遠くに見える茶色い海。光る波。
 海の色は青だけじゃない──遠野宮がそう教えてくれたのはいつだったか。
 使い込んでつるつるになったリターンキーみたいに、思い出は繰り返すほどに輝きを増す。
 空想はいつも時間が曖昧だ。

 ──だからさ、運命はきめられてんだよ。

 あの日、夕立を避けるために入った、島でたったひとつの古い電話ボックスのなかで、遠野宮は、野生のいきものが吠えるような口調で吐き捨てるように言った。

 ──きまってんだよ、ぜんぶ。クソみたいに。

 なぜだろう。
 初めて会った時から、遠野宮のことは怖くなかった。
 粗暴で、喧嘩が強くて、足が速くて、誰よりも深く海に潜ることができる。それだけでみんなの人気者。少年時代ならよくあることだ。両手の指で一度に数えられる年齢まで、男は動物だ。言葉なんて飾りにすぎない。
 むせ返るように暑い海辺の電話ボックスのなかは、潮の香りとぬれたアスファルトのにおいがたちこめていた。

 ──だけどおれは、それを変える。

 遠野宮は鞄から一冊の白いノートを取り出した。

 ──これが、あたらしい神様のノートだ。

 あたらしい神様。それは彼自身のことだと、すぐ俺にはわかった。
 電話ボックスのすきまから入り込んだ二匹の真っ赤な蟹をつかまえた遠野宮は、蟹をぐるぐると回した。

 ──運命を変える。

 その言葉と同時に、地面に置かれた二匹の蟹は、よろめきながら、前に歩いた。
 大きなハサミを掲げて前進する蟹。

 ──先輩。

 ふと気づくと、電話ボックスのなかには、もうひとり少年がいる。
 遠野宮とは正反対の、華奢な身体と少女のような顔。長いまつげにふちどられた黒い瞳。
 ちがう……。
 おまえはあの頃、まだここにはいなかった。

 ──神様のノートなんて、噓ですよ。

 うるさい。

 ──電話で聞いてみますか。神様に。

 そいつに渡されたグレーの受話器から、なにかが聞こえた。
 なにが聞こえたのか、思い出そうとするけれど、電話ボックスの硝子は吐息で曇り、世界の輪郭は霧のようにぼやけていった。

#01

 居間の茶色い柱にかかった古い時計の針がL字になっているのを見ると、本能的に甘いものが欲しくなった。
 畳に寝転がったまま、天井に視線を戻し、ぼやけた目で天井の染みを見つめていると、風に乗って数人の女性がはしゃぐ声が聞こえてくる。ここのところ観光客をよく見かけると思ったら、いつのまにか季節が夏になっていた。
 島から去った人たちが、想い出をよみがえらせるために帰ってくる季節。
 島というのは不思議な場所だ。
 誰もがつかの間ここへ来ては去り、そして忘れ、いつかまた思い出す。
 忘れられているあいだ、この島は存在していないのかもしれない。
 三月の白い花も、七月の風に乗った濃い潮の香りも、九月の蔦の力強さも、一二月の海にふる雪も。
 想い出のあらゆるものは、そとの世界に出て行った人々のもので、その胸のおくに遠い影となってしずみ、記憶の底をたゆたっている。
 忘れられた場所で生きている俺は、影だ。
 誰かの記憶の中だけで生きる、うす暗い影。
 寝そべったまま扇風機に吹かれて微睡んでいると、外でかすかなスクーターのエンジン音が聞こえた。
 一拍おいて呼び鈴が鳴る。
 俺は外に向かって返事しながら頭の近くに置いた眼鏡をかけ、畳を踏んで立ち上がった。

「どちらさま」

 ガラガラと玄関の引き戸を開けると、荷南寺の住職である山城が、手にしたひしゃくで、戸口に立てられた精霊棚に水をかけているところだった。
 精霊棚は餓鬼供養のためのもので、中には塩で清められた蓮の葉が敷かれ、西瓜、茄子、洗い米と水が張られた器がおかれている。来訪者はひしゃくで水をかけ、家の者もときどき、水をかけるのが盆の習わしだ。

「とりこみ中だったか」

 薄い作務衣の上からでもわかる筋肉質な肩をいからせ、必要以上に威圧的な目でこちらを見た。乱れた作務衣の胸元から、水墨画で描かれたような竜の鱗が見える。刺青だ。

 
(つづく)



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