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夏の方舟 #01-09

#09

 遠野宮と黒坂の均衡が崩れたのは、ある雨の日だった。
 学校が終わったあと、みんなは学校からいちばん近い俺の家にやってきた。雨の日は祖母が家の中で遊ぶのを許可してくれるので、みんなでゲームをして遊ぶのがふつうだった。でもその日はなぜか、黒坂が突然ここはいやだと言いはじめ、彼の家に遊びに行くことになった。
 黒坂の家は歩いて二〇分ほどの東の集落にあった。移住者用に県の助成金で整備された平屋は、八畳の部屋が四つあり、黒坂の部屋はそのいちばんおくだった。煙草の臭いがする部屋にはパイプベッドがひとつあるだけで、机も本棚もなかった。

「おもしろいものがあるんですよ」

 黒坂がそう言って、押し入れをあけて引っ越し用の段ボールをひきずりだすと、その中にはたくさんの雑誌がつまっていた。黒坂が底のほうから卑猥な写真がたくさん掲載されている本を出して畳にひろげた。
 全員が、とまどいながらも血走った目をして無言でそれに見いった。
 黒坂はベッドの裏にかくしてあった煙草とライターをとりだして、火をつけてくわえ、

「こういうのもある」

 と、男同士が全裸でからみあっている本を取り出した。どう、受け取っていいのかわからなかった。けれど、堅くなった性器のせいか、その本がひどく官能的にみえた。遠野宮はひとり部屋の窓ぎわに立って、そんな俺たちをさめた目で見ていた。黒坂はおもしろがって、俺のシャツの中にその雑誌をつっこんでわらった。

「先輩って、こういうので興奮するんですか?」

「ちがう……」

「なんか最初から興味津々でしたもんね」

「おさえろ」

「やめろよ!」

 俺は数人に押さえつけられ、服をはぎとられた。

「女役はどうですか」

 黒坂が自分のズボンをずらして四つんばいになった俺の尻に冗談っぽくペニスを擦りつけた。

「やめろって!」

「遠野宮先輩もどうですか」

「やりすぎだ聖」

 遠野宮が黒坂の肩をつかんで、俺から引きはがした。

「遠野宮先輩もやりたいんですか」

 そう言って黒坂は乱暴にズボンの上から遠野宮のペニスを?んだ。
 遠野宮が「うっ……」と、呻いた。

「なんだこのにおい……」

 誰かが言った。
 青臭い匂いが充満した。
 その時まだ俺たちはそれがなんの匂いなのか知らなかった。

「あれ……先輩、イッちゃいましたか」

 その声は小さく、他のやつらに聞こえたかどうかわからない。
 屈辱に顔を赤らめている遠野宮を見ていると、なぜか自分の胸がざわざわして、思わず、

「きもちわるい……」

 そう呟いていた。
 突然、そとで大きな音がした。
 暗闇。
 雷が落ち、停電になったらしい。みんなが、照れくささと後ろめたさを隠そうと部屋の中でわーわーと過剰にさわぎ立てた。
 じゃれあうように、だれかが黒坂の頭に段ボールをかぶせた。
 異変に気づいたのは黒坂の声がしなくなっていたからだ。明かりがつくころには、黒坂は押し入れの中にいて、ガタガタとふるえて過呼吸になっていた。初めて見るその光景に驚いた。
 黒坂は閉所恐怖症だった。
 すぐに母親がかえってきて事なきを得たが、部屋でなにをしていたのかについては全員が口をつぐんだ。ただ、黒坂の煙草の件だけが問題になり、祖母からはこっぴどく叱られた。だが、俺たちは内心、あのことがばれなくて、ほっとしていた。
 それからだ。遠野宮が変わってしまったのは。

 ある日、遠野宮は黒坂がやったこれまでのささいな悪事を、おわりの会で暴くことを提案した。もっとも小学生の悪事など可愛いもので、畑の作物を盗んだり、店の裏からジュースをちょろまかしたりという程度のものだ。
 どうしていきなりそんなことを言いはじめたのか、よくわからなかった。先生もとまどっていた。当然そのときはうやむやになったが、学校が終わってから遠野宮は俺たちに、黒坂を教会につれてくるようにいった。
 教会には小さくて暗い地下室があって、彼はそれを懺悔室とよんでいた。プロテスタントには告解がない。だから遠野宮は自らそれを作った。黒坂を懺悔室にとじこめるのが俺たちの役目だった。必死に叫ぶ黒坂の声。それから遠野宮がきて、あとはじぶんがやると言ってみんなを帰らせる。
 それは毎週つづいた。
 クラスのやつらは最初の一回でもう来なくなり、俺がひとりで黒坂を懺悔室につれていく役目になった。いちどだけ、こっそりと帰ったふりをして懺悔室のドアのすきまから、ふたりがなにをしているのかのぞいたことがある。
 遠野宮はライターで灼いた小さな針を、黒坂の身体に刺していた。床で震える黒坂は、刺されるたびに低い悲鳴をあげた。黒坂の目はうるみ、それはどこか官能的だった。薔薇と麝香の混じったような黒坂の体臭がドアのすきまから漂い、押し殺した悲鳴の中で、やがて黒坂と遠野宮は裸でからまりあった。
 それは、まるで遠野宮が邪悪ななにかとたたかっているように見えたし、あるいは、黒坂が奴隷のように、遠野宮に奉仕させられているようにも見えた。
 その日の懺悔が終わったあと、泣きながら海辺を歩いて帰る黒坂の後をつけて、声を掛けた。

「大丈夫か?」

「……」

「薬、つければ」

 軟膏を差し出すと、黒坂はじっとこちらを見ていきなり俺の手をつかんで近くの電話ボックスに入り、上着を脱いだ。

「どうですか……」

 針でつけられた傷は見えるか見えないかの小ささだが、確かに皮膚は赤く灼かれていた。

「どう思います? 死にたいんですけど」

 俺は何も言えなかった。

「先輩のせいですよ……先輩さえいなきゃ……」

 それはただの八つ当たりにしか思えなかった。

「どうして俺のせいなんだ」

「教えてやらない……自分で考えてくださいよ」

 考えてもわからない。電話ボックスのなかに沈黙が充満して押しつぶされそうになる。
 黒坂は不意に受話器を取って、番号を押し、こちらに受話器を差し出した。

「それはそうと先輩……最近ね。僕も神様と話せるようになったんです」

 目が正気を失っていた。

「どこにかけた」

「10565番。あいつのノートに書かれてた神様の電話番号ですよ」

「なんのことだ……」

 受話器に耳をつけるが、なにも聞こえない。

「聞こえるでしょ先輩」

 もう一度、受話器を耳につけるが、なにも聞こえなかった。

「聞こえたでしょ」

 かぶりをふる。
 なにも、聞こえなかった。
 黒坂は小さな声で、言った。

「聞こえるじゃないですかほら、子供の声が」

 そう言うと、黒坂は薄い色の瞳でこちらを見て、

「ぼくは正気ですよ」

 そう言いながら、去って行った。

 六年生にあがってから、遠野宮が小学校を休みがちになったことで、それは終わった。
 姿をみせなくなった表向きの理由は教会の仕事の手伝いということだったが、ほんとうは、あのことがばれたのではないかとみんなびくびくしていた。黒坂はふつうに学校にきていたが、ときおり、見下すようなこわい目で俺を見た。

 中学にあがって初めての夏休み、精霊流しの日。
 俺と遠野宮は、ひさしぶりにふたりであうことになった。浴衣を着て島を散歩しているあいだ、話すことがなくて、ただ歩きつづけた。それでも満足だった。
 海辺の道にさしかかったところで天気雨がふってきたので、電話ボックスで雨宿りした。
 狭い空間のなかで、なまぬるい体温が、小さな硝子箱のなかを満たしていく。
 海の匂いを嗅ぐと、口の中にかすかな潮の味がひろがっていく錯覚を覚えた。硝子に手のひらをつけると、水滴がひとすじ流れた。?に遠野宮の息がかかる。灰色の古い電話から、プラスチックの匂いがする。?の声が遠くなっていく。遠くに見える茶色い海のうえで光る、白い波をみながら、遠野宮が言った。

「ここんところ、寝る前に目を閉じて旅をすることにしてんだよ」

「目を閉じて旅に出るって、あれ? お寺でやる座禅ってやつ?」

 そう言うと、遠野宮は、ああ、そうだと言って、でもちょっとちがう、と続けた。

「旅にはいろいろな方法がある。空っぽになるやつとか、無意識の映像を見るとか。おれのは遠くに旅するものだ。最近、夜寝る前にかならず行く場所がある。それは、細いトンネルのむこうにある海辺だ。おれひとりが知っていて、ひとりしか入れないトンネルで、そこにいくと男の子がひとりいる」

「なにするんだ」

「なにもしねえよ。ただそこにいって一緒にすごすだけだよ」

 遠野宮の語る旅の話を聞いていると、自分までそこへ連れて行かれる。

「細いトンネルを抜けると浜辺だ。
 コンクリートの防波堤、そのわきには茶色いトタンのコカ・コーラの看板、そして自動販売機と駄菓子屋、縁台は年季が入っていて釘が乱暴にうちつけてある。蝉の声がしずかにきこえていて、風はからっとしている。海には真っ白く重い入道雲。砂浜は白くて広い、だれもいない。静かな海辺。
 おれはじっとそこでひとり座っている。
 陸のほうから男の子が階段をのぼって近づいてくる。ビーチサンダルをぴょこぴょこといわせて、キュッという音がする。
 白い服、ひざが白くひかっている。肌が白く、黒く輝くようなみじかい髪が風にゆれている。
 彼は黙ってとなりに立っている。
 おれはそいつの匂いをかいでいる。石鹸の、匂いだ。花火の終わったあとの匂い。なつかしい蚊取り線香の匂いもする。じっとそこにいると、太陽がかたむいてくる。
 夕暮れになって、影がのびる。花火がしたいなあとおれは思う。彼がふっと歩き出す。そのあとをついていく。彼の家は古い庭のある平屋で、木戸をあけて入ると、床はぴかぴかにみがかれている。和室の中央にはテーブルがあって、その前に敷かれた座布団に座る。縁側で彼は花にみずをやる。気づく。
 彼は目が見えない。口がきけないのだと。
 おれは、その風景の中で自然にとけこんでいる。彼はなにも言わない。
 おれは彼のたったひとつ彼であるといえるひとつのなにかを探そうとするけれど見つからない。
 やがて気づく。
 彼はこの風景そのもので、この世界そのもの。だからみつかるはずがない。すでにおれはこの世界を愛していて、ずっとこの世界にいたいと思っているのだから。
 神様みたいな男の子。
 男の子には名前がない。耳もきこえない。目もみえない。だからおれも聞かないし、触れないし話しかけない。ただそっとそこでいっしょに生活する。
 毎晩ここにくるたびに、安心させてあげられるようなものをこちらがわから持ち込む。
 和紙がはられた小さな明かりとか、青い硝子の風鈴とか、豚のかたちをした蚊取り線香を入れる陶器とか、あと、両端にわたのついたみみかき。
 ひまわりがいっぱいさいていて、塀のむこうから顔をのぞかせている。
 猫の鳴き声がきこえる。姿のみえない透明猫」

「その子の名前は?」

「名前なんてねえよ。人じゃない」

 そして一呼吸おいて、こちらをじっとみつめて、遠野宮はこう言った。

「だけどおまえに、よく似てる」

 目が、せつなげに細められた。
 くすぐったいような、もやもやした気持ちになって、立ち上がった。そして照れ隠しに、笑いながらこう言った。

「なんかいやだな……気持ち悪い」

 そう言った瞬間、遠野宮が見たこともないような、諦めの表情をこちらにむけた。

「おれは殺される──きまってんだよ。クソみたいに……すべてが」

 遠野宮はそう言った。

 その夜、教会が燃え、遠野宮と父親と、その愛人が死んだ。
 愛人は、黒坂の母だった。

(つづく)





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