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夏の方舟 #03-02

02

 D坂上の町工場の隣にある工房に着くと、小田桐は床に置かれた白い革張りのソファに乱暴に座る。リモコンでクーラーを全開にして扇風機を独り占めし、天然パーマの長い金髪をしばっていたゴムを外して頭をぶんぶん振った。型を取ったあとの石膏で作られた灰皿を引きよせ、アメスピに火を付けて吸い込むと、「はあー生き返るわ」と、爽やかな笑顔を巻村に向ける。
 一瞬で空間が煙る。
 煙草を吸わない巻村にとっては迷惑だった。

「なんだって人形の頭なんて紙袋に入れてたんだよ」

「家で造形の練習をしていたので」

「仕事熱心でいいけどさ。コミュニケーション能力っつーか、そっち方面も頼むわ。ああいうときは名刺出しゃいいんだよ」

「すいません、忘れてました」

 西日暮里駅の駅長室に連行された巻村は、紙袋に入れた人形の頭部を検分されて、うまく説明できずに結局小田桐の連絡先を告げて代わりに説明してもらった。

「生首を持った男がいます……って。どんな妄想なんだよ。ギリギリだよおまえ」

 小田桐はスマホを見ながら「保存しとこ」そう言ってにやにやした。
 巻村が働く、この小さな工房は、もともと親工場の独立部門として立ち上げられた。
 工房と名乗ってはいるものの、町工場の一角をトタンで囲ってプレハブをおいただけの簡単なものだ。中央に作業台にもなる長机、東向きの窓に面して二人分のデスクが置かれ、その後ろには休憩用のソファとテーブル、あとは、血の通わない人体のパーツが散乱している。
 この工房では人形を作っている。普通の人形ではない。特殊な合成樹脂でできた、性行為を目的に作られるものだ。

「巻村。俺は仕事上では先輩だが、おまえとは同い年だ」

「はい」

「ということは三〇だ。ありえねえだろ。なんでそんな世間知らずなの?」

「すいません」

「その敬語もやめろよ。おまえが遠い……もっと心を開こうぜ。いや、まあ別にいっか……。おもしろいから。こっちこいよ。暑いだろ」

 言われた通りに隣に座るが、小さなソファに大人が二人で座るとさすがにきゅうくつだった。

「それはそれとして、なんでこんな遅い時間に出社してんの? 今、もう昼すぎなんだけど」

「そうですね……気付きませんでした」

「マジで言ってんの? 遅刻とかじゃないの?」

「いえ、朝だと思ってました。確かに、昼ですね」

「時計……読める?」

「はい、たぶん」

「なあ巻村……おまえ大丈夫?」

「なにがですか」

「暑さのせいかもしれねえけど、最近ぼーっとしてるからさ。自分がどんな目してるか鏡で見たことある? そこで目あけたまま寝てる人形とそっくりだよ」

「瞬きをするように心がけます」

「いや……そういうことじゃねえし」

 巻村弦と小田桐遼は造形士だ。科は違えど、ともに芸大を出ている。
 巻村は二年前に職業安定所の紹介でこの工房に就職した。任されている仕事は人形の造形全般、特に、人形の顔。首から上だった。むろんメイクも。メイクは初めてだったが、やってみると案外性に合っていた。大学は彫刻科だったが、元は油絵も描いていた。化粧というのは、ハイライトの入れ方や輪郭の描き方次第で目の錯覚を利用した印象の操作ができるという点で絵画とよく似ている。
 工房には男しかいない。
 以前はむろん女性もいたが小田桐が、人形のクオリティ向上のためというそれらしい名目でことごとく手を出して修羅場になるため、ある時期から社長が絶対に女性を雇わないと決めたらしい。

「俺も人のことは言えねえけど、おまえ相当変わってるよ。なあそろそろ教えてくれよ。前は仕事なにやってたの?」

 この二年、小田桐と距離が近くなるに従って、本当のことが喉元まで出かかった。だが、やはり言えなかった。

「……サラリーマンです」

「社長にそう言えって言われてんだろ。話したくないならいいけど」

 小田桐は立ち上がって、部屋の隅にある冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取りだして一口飲んで、またキャップをして「ほらよ」と巻村に投げた。
 ソファに戻ると小田桐はスマホを取りだし、右手でなにかを検索しはじめる。
 石膏で汚れた黒いシャツの上からでもわかる筋肉質な身体のライン。それに似合わぬ繊細な左手の指先が、煙草の灰を灰皿に落とした。

「今日は早めに切り上げてちょっと飲みに行くか」

 巻村の眉がぴくり、と動いた。

「また、あれですか」

「厭な顔すんなよ。頼むよ。な? ついてきてほしいんだ。恋しないと死ぬんだよ俺は」

「先週も同じことを言われました」

「うるせえな……太宰も言ってるだろ。人生は恋と革命だ」

「小田桐さん、太宰ってどんな作家か知ってますか」

「おいおい、俺も一応芸大卒だよ? 卒論パウル・ツェランだぜ」

「彼女に書いてもらった」

「なんで知ってんだよ……社長に聞いた?」

 巻村は快活に笑う小田桐の横顔をじっと見つめた。
 決して整っているわけではないが、日向の匂いがする陽性の色気がある。
 巻村にとって、彼の明るさは眩しすぎる。一緒にいると自分の翳が濃くなるような気がしてやりきれない気分になるときがある。あの女の妄想に囚われ続けている自分に比べると、あまりに健全すぎる──さりげなく小田桐から目を背けた。
 女を殺して病院に入っていた──そう教えたら、どんな顔をするのだろう。

(つづく)







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