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もういない君と話したかった7つのこと #14

社会の美徳に振り回されるな

 話を戻しましょう。
 サンデル教授はなぜ、いちいち選びようのない「究極の選択」を持ち出して議論するのでしょうか。
 古代ギリシャの時代、哲学は真・善・美を追究するものでした。神様をみんなが信じていた頃は、真理を追究していたんですね。善悪も美醜も究極的なものは全て神のもとにあるとされていた時代です。
 ところが近代に神様がいなくなって、みんなが戦争するようになると、なにが善なのか、なにが悪なのか、という問題がでてきます。
 アメリカではそれが顕著です。
 2008年に映画『ダークナイト』が大ヒットしたのは、その根底にアメリカの善悪の疑問があり、その社会性がヒットに結びついたのだ……とか言いたくなりますが、単に映画自体がエンタメとして面白かったからというのが大きな理由でしょう。
 そんなわけで真も善も絶対的なものではない。
 ゆえに、それは個人ではなくコミュニティ全体で考えてケースバイケースで対応していくしかない。
 つまり、サンデルが「究極の選択」の話をするのは議論をするためです。

 では、そうした議論の結論はどうなるのか。
 だいたいにおいて結論はありません。結論を出すのが目的ではないからです。ただ議論を尽くして、最終的に意見を調整する。そういうことです。
 そこで指針となるのがコミュニティ内の美徳というものです。
 美徳は道徳とも倫理ともちがいます。極端なことを言えば、ヤクザのコミュニティでは、「筋を通す」とか「メンツ」とかいったものが大切です。
 筋を通すために人を殺したり、メンツのためにあえて不利益を被ったりする。
 これは社会の道徳とも個人の倫理ともちがいます。そのコミュニティの中だけのルールです。
 道徳と倫理を擦り合わせるところに、そのときどきに現れる答え、それが美徳です。
 このような社会の中で自由を追究するのは、非常に難しくなってきています。

「自由」が困難な今、「自由」についての話をするというのは、時代とズレているかもしれません。
 ですが、僕が考えている自由というのは、政治思想の自由とは違う、個人の心のための自由です。それはどんな世の中でも見つけられるはずなのです。


人生はゲームと思えば楽しめる?

 Kの死が、少なからず社会と関係があると思ったのはある統計を見てからです。
 近年の日本の自殺を語る本では、必ずふれられることがあります。
 それは1998年の自殺急増についてです。
「自殺対策支援センター ライフリンク」の統計データを見ると、98年から突然自殺者が増えています。
 それまで2万人ちょっとだったのが突然3万人──いきなり年間8000人も増えたのです。
 もっと厳密にわかっているんですが、98年の3月から突然増えたんです。
 いろいろな説がありますが、有力なのは前年の銀行・証券会社倒産などによる社会状況の悪化、失業率の増加です。
 98年の前年、97年は銀行や証券会社の倒産、これらのあおりで失業率が増加した年です。
 僕は最初にこのデータを見たとき不思議な気持ちになりました。
 社会状況というよくわからないものが、8000人もの人の命を左右している。
 確率的な死。
 それはまるで見えない爆弾のようです。
 Kは、目には見えない、確率的な爆弾によって自由を奪われ、死んだのではないか。
 社会状況の悪化の中心では失業や破産を苦に死んだ人たちがいる。その周縁のいちばん外側にたまたまいたのがKだったのかもしれない。
 そんなふうに思うんです。

 こうした確率的な死というテーマで最も大きなものは、アウシュビッツ収容所です。
 ナチスドイツが第二次世界大戦中に作った収容所で、ここでは150万人が殺されました。
 日常的に生と死が確率的に決まり、自由どころか人間性まで奪われていく。
 それがアウシュビッツです。
 この収容所を生き延びた人物にV・E・フランクルという人がいます。
 彼は、著書『夜と霧』で有名ですが、別の著書『それでも人生にイエスと言う』のなかで、「どのような人生であっても意味がある」と説きました。
 フランクルの言葉で、「楽しみのために生きてはならない」、というものがあるんです。
 生きることは責任であって、幸せになるためでも楽しくなるためでもない。だから生きる意味を問うてはいけない。
 逆に、「あなたが人生によって問いかけられているのだ」と、フランクルはそう言います。

 これは無力感に悩まされ、虚無状態に陥った人々にとっては福音でしょう。
 確かに素晴らしい。
 けれど、平凡な人生を普通に生きているだけなのに生きづらい人にとっては、やはりブッダと同じく、何か厳しい努力や修行を必要とする「ハードモードの自由」なのです。
 フランクルに怒られそうですが、僕はある意味で人生をゲームとして捉えるのは悪くないことだと思っています。
 ロベルト・ベニーニ監督・脚本・主演の映画「ライフ・イズ・ビューティフル」はアウシュビッツに送られる親子の話ですが、母と引き離され不安がる子供に向けて父が「これはゲームなんだ」と?をつきます。「泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点だ。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだよ」と。
 この父の機転により、子供は希望を失わずに生き延びるのです。
 不思議なことに、僕もゲームだと思うと、どんな悲惨な状況でも楽しめるようになる瞬間があるのです。
 Kにもそれを話したことがあるのですが、「そんなの普通は無理だよ」と一蹴されてしまいました……。
 彼が、僕ほどゲーム好きではなかったせいかもしれません。
 あなたならどうでしょうか。


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