夏の方舟 #03-07
注:過激な描写を含む表現がありますので、苦手な人はご注意ください。
07
二ヶ月が過ぎ、夏も終わりかけた金曜の昼のことだった。
町工場の職人たちと煙草を吸いながら、小田桐がまたなにかを話しているのが工房の窓から見えた。たまたま目があった小田桐が手招きしたので、気が進まなかったが、巻村もなんとなくそこに参加した。
「最近俺たちが行ってる秘密の場所があるんだけどさ──」
小田桐はそう言って職人たちに話し始めた。
それは巻村と小田桐が体験したことだったが、かなり脚色されていた。
だが、話自体は面白かった。なるほど──巻村は気付く。小田桐の様子からは、見栄よりも他人を楽しませようという意思が感じられた。なにか、ずっと勘違いしていたのかもしれない──巻村は小田桐の見方をすこし変えた。
「でさ、こいつもなかなかやるんだよ」
小田桐が急に巻村を指さして、話をはじめた。人を通して自分のことが語られるのに耐えられず、巻村はさりげなくそこから立ち去った。
仕事が終わる五時になると、巻村は服を着替えて小田桐に声をかけた。
「金曜日ですよ」
今日こそは……巻村は今日こそSとプレイするつもりだった。
珍しく小田桐はまだ着替えていなかった。机に座って俯いている。急かすように、巻村は言った。
「どうしたんですか」
「俺は──やめとく。もういいわ。今日は隣の町工場のやつらと飲みに行くんだよ。おまえも来いよ。昼間話したらさ、おまえのこと気に入ってたぞ。気むずかしい奴だと思ってたけど面白いじゃないかって」
それは──本当の自分ではない。小田桐の語る自分であって、本当の自分ではない。
厭な気分だった。以前なら、優越感で他者を見下すような真似はやめろと言っていた。しかし、巻村は小田桐のことを以前より深く理解していた。
この男にとって、困っている人を助けたり、弱者に手を差し伸べるのは優越感ではない。本能なのだ。
巻村は、小田桐に人間的な深みを感じなかった。だが、彼に備わった美徳は人間的なものではなく、動物としての魅力だったのだ。それは時に、理解できない人間からはうすっぺらく見えてしまう。
それが理解できるということは、巻村自身も動物に近づいているのだ。
「ひとりで行きます」
「もうやめとけよ──おまえ、金ないだろ」
確かに、もう貯金は底を突いていた。
「おまえ、こないだ店が終わってからSの後をつけただろ。自分のやってることがわかってんのか? ストーカーだぞ」
「尾行したんですか……自分のことを。そっちこそストーカーじゃないですか」
「馬鹿野郎、屁理屈言ってんじゃねえよ」
小田桐が巻村の前に立ち、顔をぐっと近づけて言った。
「潮時だよ。俺は同僚であると同時に、友達として忠告している。おまえのやってることはルール違反だ」
彼の脇を抜けてそとに出ようとした巻村だったが、突然すごい力で壁に押しつけられた。
「俺がそっち方面に目覚めてたらどうする?」
小田桐が笑いながら、煙草臭い身体を密着させてくる。
「どうもしません。小田桐さん……冗談はやめてください」
両手で身体を押しのけると、
「失礼します」
「巻村!」
背後から聞こえる小田桐の声を振り切って走った。
いつものように路地裏を歩き、階段を下りて〈S〉の扉を開けた。
どうやら今日は、人が少ないらしい。ステージ脇には、安楽椅子で揺られるSがいる。
胸が高鳴った──今日こそ、最後のチャンスかも知れない。
「今日はお一人ですか」
バーテンダーが声を掛けてきた。
「……ええ」
曖昧な答えを返し、スツールに腰掛けて仮面をつける。眼帯のバーテンダーにモスコミュールを頼んで、胸のおくのなんともいえない厭な感じとともに一気に飲み干す。
興奮と、胸のざわざわする感じがすこし収まった。
やがてまた照明が消えた。
闇。
ステージの幕が開くと、スポットライトがタキシードのバーテンダーを照らし出す。
「皆様ごきげんよう。クラブ〈S〉にお集まり頂き誠にありがとうございます。さあ、本日も始めましょう。禁忌なき探求を」
次にもういちど明かりがつくと、そこには軍服を着た老人が抜き身の日本刀を携えて立っていた。
ただならぬ空気に、観客も巻村も身を固くした。
なにが起こるのか待っていると、舞台の背後の壁に、両手を後ろ手に縛られ、白い布で目隠しされ猿ぐつわを?まされた全裸の男が現れた。
男は頭を刈られているが、体つきから二〇代くらい。脇腹に和彫りの竜を入れている。
黒子が二人現れた。男を木の椅子に座らせ、左右の足首に縄をつけて、股を裂くように左右にそれを引っ張る。上半身をひねり、男は頭を振る。だが、その動きはどこか酩酊しているようで緩慢だ。麻酔のようなものを打たれているのではないかと巻村は推測した。やがて男は両脚をひろげて、こちらに尻の穴を見せる形となった。
裂帛の気合いと共に老人が日本刀の先をその穴に突き入れた。
時間が止まったような沈黙。
血しぶきが飛んだ。
猿ぐつわからくぐもった悲鳴が漏れる。
日本刀は、男の身体の菊門を切り裂いて引き抜かれた──と、そのとたんに排泄物とも臓物ともつかぬものが床の金だらいに溜まっていく。
常軌を逸している……巻村は?然とした。
店内に、噎せ返るような生臭い血の臭いが立ちこめ、客席が静まりかえる。どうかしている──頭がぼおっとしてきた。吐きそうだった。
黒子が、まるでゴミを片づけるように男とたらいを舞台袖にひっこめた。
客たちは、すぐにいつもの調子を取りもどしたかのように楽しそうに笑い、拍手を送った。
Sを伴って、バーテンダーがステージに現れる。
「では、そろそろ本日も協力者を。本日は、刀で切腹をしていただきます」
なにかの聞き間違いだろうかと、客たちは顔を見合わせる。バーテンダーは当然のように言い直すこともなく問いかける。
「誰も、おられませんか」
誰も、手を挙げなかった。それは彼らにとっても、性的な欲望とは乖離した悪趣味なものに思えたのだろう。
巻村は、ステージ上からつまらなそうに客席を見下ろすSを、焦がれるようにじっと見つめていた。
Sの視線は巻村をわざと無視するかのように宙をさまよった。Sの顔が母の面影と重なる。
見てくれ──こっちを見ろ、ここだ──巻村はゆっくりと手を挙げた。
Sが巻村を見た。
店内に低いさざなみのように、ざわめきが走った。
ステージの上は、スポットライトの熱と冷房のせいで、暑いのか寒いのかわからなかった。
「腹を切る──というのは日本的な伝統と思われがちですが、古代北欧の文献にもそのような行為が記録されております。彼らは主に宗教的な儀式として、罪を贖うためにそれを行います。腹を切ることで、体内の穢れが一掃されると考えたのです──要は瀉血と似た考えです」
バーテンダーが一礼。
「さて、ではまず服をお脱ぎください」
巻村は促されてシャツのボタンを外し、上半身を晒す。仮面をつけているせいで大胆になれた。視線が、身体に集中するのがわかった。巻村の腹部、臍の上には、すでにいくつかの痕があった。母親に刺された一〇㎝ほどの醜い傷痕が、まるで星座のように点在している。
「よもや先に陰腹を切っていたわけではございませんね」
客席から笑いが起きる。
Sもまた巻村を一瞥してクスリと笑った。巻村も笑った。いつもなら笑えないはずだったが、今は異常な多幸感に支配されていた。この試練を乗り越えたあとに、Sとどのようなプレイが待っているのか、想像すると性器が熱を帯びてますます堅くなる。
ステージに畳が一畳敷かれ、巻村はその上に正座した。
「失礼。ではどうぞ」
さきほどの軍服を着た老人が現れる──黒鞘に入った日本刀を腰に携えていた。いったん蹲踞の姿勢をとり、そこから背中を曲げて柄に手を掛ける──と、白刃が煌めいた。
痛みは感じなかった。
腹に真一文字に赤いあとが浮かび上がり──血が流れ出す。頭がぼおっとした。開いた傷口からピンク色のものが一瞬見え、あわてて手で押さえた。畳に吸い込まれる血液。背筋に悪寒が走り、身体が勝手に震え始める。
Sが目の前に現れ、細く長い指で鮮血にぬれた巻村の性器を擦った。母がナイフで自分を刺したときのような手つきだった。強い、薔薇のような香水の匂いがした。幻が──腹に刺さったナイフが見えた。そのまま一度果てた。
不意にSがのしかかってきて、畳の上に押し倒される。
萎えていた性器が生あたたかいものに包まれ、また堅さを取りもどす。
巻村は傷口を押さえていないほうの手でSを抱き寄せ、唇を吸った。生あたたかい舌が巻村の歯の裏を舐め、口腔を蹂躙した。口許から──ああ、とため息が漏れる。幸せだった。Sの身体はまるで純白の雪のように白く、冬の毛布のように温かかった。
観客がいることも忘れて、巻村は血にまみれてSの身体を組み伏せて狂ったように犯す。犯しながら、まったく満たされていない自分に気付いた。心の中にある空白が、どんどんひろがっていくような気がした。
気付くとSの首に手を掛けて、絞め上げていた。
「ぐっ──」
とっさに身を翻したSに傷口を蹴られた。激痛が走る。それでも巻村はSの首から手を離さなかった。こうするしかないのだ。最初から考えていた。なおも激痛が走る。気が遠くなる。
そのとき──背後で、乱暴にドアを蹴り開ける物々しい音が響き、制服を着た男たちがなだれ込んでくるのが見えた。
「警察だ! 全員動くな!」
客が悲鳴をあげて逃げようとする。バーテンダーたちはステージのおくにかかった天幕の後ろに消えた。
Sを捕まえようと手を伸ばす。
ステージが暗転した。
手は空を切り、床の上に落ちていた固い刃物が右手にふれた。
それをつかみ、闇の中で振り回す。
Sの叫び声と何かを刺した手応えがあった。
だが巻村の手はそれ以上なにもつかめず、闇の中で空を切った。
(つづく)
よりよい生活のために役立てます。