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夏の方舟 #03-05

05

 三日間、巻村は部屋から出なかった。
 床にジグソーパズルが散らばった、クーラーのないアパートの一室。そこに敷いた夏蒲団の中で胎児のように身体を丸め、排泄と食事をしている時以外は熱に浮かされたようにSのことを考え続けた。
 その感情がいったいなんなのか、巻村にはよくわかっていた。
 恋だ。
 何年ぶりだろうか。
 胸をナイフで抉られるようなその懐かしい感覚を味わうのは、あの女を殺して以来だった。

 巻村は東京の裕福な家に生まれたひとりっ子だった。
 物心ついたときから、彼は母を愛していた。母はいつもここではないどこかを見ていた。巻村が生まれる前の話をよくしてくれた。森の中にある小さな家で暮らしていた、神様がおまえを運んできてくれた──そんな?かまことかわからないような話だ。
 母の不安定な精神の原因が、粗暴で支配的な父だということに巻村が気付いたのはいつだったか。医者一家の末っ子だった父。仕事もせず、自由ばかりを追い求めてそとに何人も女をつくり、ほとんど家に帰ってこなかった。帰ってくると部屋に閉じこもり、母を縛って性行為をした。
 巻村が父に刃向かうと「ガキの声を聞くと胸くそが悪くなる」そう言って母を殴った。
 金切り声を上げて叫ぶ母を見て笑う父の声。
 中学生になる頃、巻村はベッドで蒲団を被り、何度もその声を聞いて自慰行為をした。父を殺したくてたまらなかった。母を助けたかった。
 高校生の夏、母が縛られ、犯されている夢を見た。犯しているのは父ではなく、自分だった。
 巻村は家から逃げ出すために芸大に進学して一人暮らしを始めた。
 それなりに平穏な生活だった。そのうち女性とつき合うようにもなった。好きではない女とは大抵関係がうまくいった。その事実が、逆光のように彼の中の闇の存在を確固たるものにしていた。
 大学二年、二〇歳になった夏休みのある日、家に帰ると二階から母のすすり泣く声が聞こえた。
 性行為のときとは違う声。
 部屋に入ると、父がうつぶせに倒れ、床に注射器とミネラルウォーターが転がっていた。硝子テーブルの上に白い粉で引かれたライン──シャブだ。全裸の母が部屋の隅で膝を抱えて震えていた。
 父の心臓に手を当てる──動いていなかった。
 巻村はそのとき確かに、解放感と喜びを感じていた。母さん──そう言って母を抱きしめようとすると、腹部になにか鈍い痛みを感じた。
 見ると、クロームの、重々しいナイフが刺さっていた。
 母は唇を震わせて何度も巻村の腹を刺した。「おまえなんて、生まれてこなければよかった」泣きたくなったが涙は出なかった。それどこで買ったの?──そんな見当外れのことを聞いた気がする。
 気付くと病院にいた。
 警察の取調室で、自分がどうやって母を殺したかを詳細に語った。
 骨格の形状から、首を切断するときのナイフの入れ方。大学での解剖学の知識を披露した。ダ・ヴィンチのことや技術と芸術の話も語った。創作意欲が湧いてきたので、次の作品の構想についてもかなり深く語った。
 その結果、刑務所ではなく、また病院に入れられた。

 巻村が初めて恋をした相手は、母だった。
 そして、初めて失恋した相手も。
 恋は究極のエゴだ。不定形で移ろいやすい人の心を所有するという、不可能への挑戦。水は手で掬えるかもしれないが、いつかはこぼれていく。形のないものを永遠に留めておくことはできない。
 もし永遠に所有する方法があるとしたら、その対象を消してしまうことだ。
 矛盾するようだが、この世界には消すことでしか、所有できないものがある。
 それが巻村の確信だった。

(つづく)





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