夏の方舟 #04-02
02
家に帰ると、すぐにトイレにこもる。
東京の南の郊外の一軒家。猫の額ほどの土地にもかかわらず、べらぼうな値段で、本当ならばいまだ我が家はローンを払っているはずだが、それはそれ、父の死によって入った保険金によってローンはほぼ返し終わった。
いつからだろう。ぼくは空間の大きさに反比例して自分の思考速度が上がるという法則に気付いた。狭ければ狭いほど考え事がはかどる。だから宿題は、押し入れの中にライトを持ち込んでやったりする。
ところでいったいあのうに子の性に対する飽くなき探求心はなんなのだろう。胸がおっきくなったり背が高くなったりするのが楽しいのか。というか、うに子は基本的に肉体的には男だから……どうなるんだ?
うなりながら考えたけど今日は調子が悪いらしく、どうにもならない悩みとともに排泄物を流す。
部屋に戻ってベッドに寝転がると姉ちゃんからもらったマンガを読む。いわゆるヤンキー漫画である。姉ちゃんは最近彼氏と別れたらしくその彼氏の遺品(死んでないが)がこのマンガだ。出てくるキャラのありえない髪型やファッションセンスが笑えるが、その彼氏はこれを読んで泣いてたらしい。
落ち着いてきたのでマンガを脇に置いて、
「ルシファーズ・ハンマー……かっちょえー……バイクは単気筒だよなあ」
乗ったことないけど、なんとなくつぶやいてみる。
大人になったら、バイクの免許を取ってSRを買うためにバイトしよう。そしてバンドもやろう。ミクスチャーでヒップでホップでロックでパンクなバンド。そしてうに子とせ、せ、せ。頭痛が。
「セット・ミー・フリー! セット・ミー・フリー! セット・ミー・フリー!」
叫んでみたが頭痛がやまない。
「いかん……パンクスな本をヨマネバ」
本棚からSF小説を取りだして読む。ぼくの親父が残したのはラノベとSF、そしてリビングにあるパソコン一台。九〇年代のサイバーパンクSF小説は正直、読んでもよくわからない。だが、漢字にカタカナのルビのふってあるその文章は、かなりかっこよく感じられ、とてつもなくアガる。パンクスが読んで良い本は矢沢あいとサイバーパンクだけだと、生前シド・ヴィシャスが言っていたことにしよう。
「電脳空間にジャックインしてえなあ~」
ベッドの上に寝っ転がっていると、隣の部屋から話し声が聞こえてきた。
またか。
姉の麻美子(自称ぱぴ子。自分がパピヨン〈チワワ〉に似てると思い込んでる馬鹿)は良く友達を連れてくる。男も連れ込む。まったくたいしたビッチだぜ。日本代表に選ばれてもおかしくないビッチだ。
じっと息を潜める。どきどきしながら、そっと壁に耳をつけて盗み聞きしてみる。
「元気かね。小学生」
「うわっ!」
突然ドアが開いて金髪の東洋人が部屋に入ってきた。
「なんだよ姉ちゃん!」
「いまなにしてたの?」
「なんでもねえよ……」
姉ちゃんは無駄に胸だけ育っている。爪にはどこかの部族の呪術師のようにストレンジでカラフルなデコレーションが施され、なぜかキティちゃんのシールまではられている。
ノックしろという台詞は言い飽きていた。
姉ちゃんは音を立てずにドアを開けてぼくの部屋に忍び込むことが趣味なのだ。そのためにギーギー音をたてる扉の金具にスプレーをかけたり、自分の部屋のドアのまわりに消音用のスポンジを貼り付けたりしている。のぞき見なんて趣味が悪い──けれどぼくも似たようなことをしているので人のことは言えない。
「で、ほんとはなにをしていたのかね」
「本読んでただけだよ」
「つまらん」
唇をとがらせる。
いったいなにを期待しているのかわからない。今度、猫の生首でも集めてみるかな。
「ときに、うに子ちゃんは元気かね」
なんらかの悪意を感じた。
「うに子はカンケーねえだろ……」
「いやあ、さっき元気がなさそうだったからね」
ニヤニヤと厭な笑いを張り付かせていた。
「おーちゃん心配だな~うに子おーちゃんのこと大好き~」
うに子の声マネ、というか誰にも似ていないきもい演技で身体をくねらせる。
「似てねえよ!」
「あ、怒った。似てないから? もっかいやろっか?」
「ウゼえから帰れ」
「残念。私の家もここですから」
ぼくは姉ちゃんの子供っぽさに辟易して天井を仰いだ。父が死んだとき、ぼくは泣かなかった。けれど、姉ちゃんの部屋からはすすり泣きが聞こえてきた。今では部屋から聞こえてくるのはあえぎ声ばかりだ。
「あのさ、今日から私の部屋に友達泊めるから」
「そうなんだ」
姉ちゃんは男を連れ込むが男を泊めたことはない。ということは、女友達か。
「紹介しとくから部屋きて」
そう言われ、隣の部屋を開ける。
と──むせかえるような、薔薇の匂いがした。
驚いた。
女の人がそこにいた。服がボロボロなのでホームレスでも拾ってきたのかと思ったが、よく見ると顔には鼻血のあとがついている。うすい紫色のワンピースにおちたかすれた赤い血のあとが、なにか暴力の気配を匂わせている。驚いたのは、オトナの人だったことだ。てっきり同級生だと思っていた。
「はい、このヒト」
そう言って、姉ちゃんはぼくに名刺を一枚差し出した。からまった蛇や棘のような模様で装飾が施された、アルファベットの「S」が印刷されている。なんの仕事かわからないけれど、怪しいことは確実だ。そもそもこれ、名前なのか。星新一のショートショートに出てくる系のキャラって感じでもないし。よくわかんねえな。
「あ……どうも。華岡欧介です」
「どうも」と、彼女がこっちを見た。綺麗だけれどその目はイミテーションの宝石みたいに透き通りすぎて、暗くて、直感的に怖いと感じた。よくこんなえたいの知れない人を連れてきたものだ。昔から姉ちゃんは猛獣使いだ。
「このヒト姉ちゃんのなに友?」
「別に。新宿二丁目のクラブ行った帰りに拾った」
「犬猫みたいにいうなよ」
「なんか、たちのわるい男にからまれてたからふたりで逃げてきた。しばらくウチいたらって言ってつれてきた」
そんなんでいいのかよ。まあ、ウチは盗まれるもんもないし、別にいいけど。
「さっきからあんたなに緊張してんの? いっとくけどこの人、女じゃないから」
「はぁ? どういうことだよ。えっと……男の人なんですか?」
Sというその人にぼくがたずねると、
「どっちでも好きにとらえればいいよ」
と、欠伸をかみ殺したような退廃的ですこしハスキーな中性ヴォイスが返ってきたので、ますますわからなくなった。着ているワンピースの下にはかすかにふくらみも見える気がする。体も華奢だし、髪も姉ちゃんよりはるかにサラサラだ。
「あんたの好みでしょ」
「好きじゃねえよ……」
「またまた~」
目を細めて含み笑いを漏らすその姿に、玄関からの声がかぶさった。
「ただいまー」
母の声だ。こんな夕方に帰ってくるなんて珍しい。母は編集者で昼に家を出て夜中に帰ってくるのが常だが、雑誌の入稿が早く終わったときだけこんな時間に帰ってくる。ということは、仕事が終わってへとへと=機嫌悪い=めんどくさい。相手したくないなあ。
そんな気持ちを無視してどかどかと音をたて母が部屋にやってきた。やはりテンションはロー。髪をかき上げながらいう。
「ねえ、さっきうに子ちゃんと会ったんだけど」
あんたもかよ。
「あんたあの子に変なこと教えてるんじゃないでしょうね」
睨む目もとは疲れでたるんで熱帯雨林で昆虫食ってる爬虫類みたい。身につけたブランドものの服のおかげでなんとなくセンスいい風な空気は出てる。
「あ、母様、姉は聞かれました」
わざとらしくぴしっと手を挙げる。
「なにを」
「セックスのやりかたです」
なにきいちゃってんだよあいつ……ググれよ。あるいはエロ本でも読めよ。バカなの?
「やっぱりあんたか!」
ぼくじゃない、といったところで信じてはもらえないだろう。
「ばーか」
姉ちゃんは悪魔のように笑っていた。明日近所の教会で聖水を手に入れて化粧水といれかえよう。
まったく。気が抜けた炭酸になった気分だ。心が荒むというのはこういうことなのだろう。心のかたすみにこっそりと隠しているきれいな夢とか子供っぽい空想がごしごしとこいつらの汚れた消しゴムで消されていく。
ぼくは一生セックスなんかしないぞ。だいたいなんだよ、アレを舐めるとかアレするとか、汚いじゃん?
「あら、ごめんなさいお客さんいたのね。麻美、あんたの友達?」
「そうそう、このヒト、ちょっと行くとこないからしばらくウチにいるから」
「そう、あたしまた明日から出張だから、なんかてきとうにごはん作ってあげなよ」
母のこの無頓着さが怖い。怪しげな監禁事件なんか起きたらどうするんだよ。
その夜、隣の部屋から一晩中、静かなクラシック音楽とあえぎ声が聞こえてきた。姉ちゃんは男だろうが女だろうがどっちでもいいのだろうか。というか、あのヒトにはアレがついているのか、あのヒトのアレならまあそんな汚くはないような気がした。
(つづく)
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