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聲の形と首都編のこと

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 来週金曜、七月三十一日に「聲の形」が金曜ロードショーで放送される。
 耳が不自由な女の子西宮と、その女の子をかつていじめていて、自身がはぶられるようになった男の子石田、そして彼等をとりまく子たちの、高校時代を中心としたストーリーである。
 もとの原作漫画は全七巻で構成されており、私は原作がものすごく好きだ。一巻のいじめのシーンは読み進めるのが非常につらいものがあるが、たいせつな恋、口から発する言葉に限らない人との関わり合い、それぞれのこころの揺れ動き、相容れなさ、衝突と受容だとか、死にたいだとか生きたいだとか、ほんとうの友達ってなんだろう、家族だとか、命の重さだとか……それぞれの、暗闇だとか。
 なんだかこう言葉でそれらしいことを並べても一言で言い表すことができない。七巻という短さにしてまとまりが凄まじい。
 凄い漫画なんだ。
 久々に読んだら、涙がこぼれた。
 映画もものすごく高評価されているけれど、実は私はあまり映画の方は好きではない。当時二回劇場で観たけれど、なんというか、漫画で表現されていた複雑性が、高校生の青春ストーリーにカテゴライズされてうまいことまとまった、確かに良い話だけれど、良い話だな、で終わる、そういう印象が強い。たぶん、漫画にあったそれぞれのキャラクターの心理描写が尺の都合上とてもやりきれなかったから、というのはある。映画としてだけ観たら、良い映画なのだ。
 声優の演技が凄まじい(特に早見沙織には感服する)、絵が美しい、音楽も素晴らしい。音楽と声をもう一度聴きたいがために二回目行ったような、そんな映画だった。

 そんな個人的には消化不良な感情を抱いている映画聲の形について何故「余白」で扱っているかというと、この聲の形が上映された頃が、ちょうど首都編を書いていた頃と重複していて、映画のストーリーの内容とは別でこの映画の表現には影響を受けたからだ。
 凄まじいネタバレになるので詳しく言えないのだけれど、女の子が終盤、ひとりになって、とある行動に出る場面がある。花火大会のシーンである。その時の花火の光、音楽、カメラワークがあって、首都編の終盤の描写と最後の「ひかり」が存在している。あそこは漫画では描けない、本当に映像の力を強く感じる、見応えがある。しろ闇を読んでいるひとなら納得する、かもしれない。
 中盤、不穏でいびつな、ノイズのような音楽が使われるシーンがある。とある葬式のシーンなのだけれど、そこでの音楽を、何度も何度も聴きながら、書いていた。さきほど書いた花火のシーンの音楽も、それからクライマックスの音楽も(クライマックスのシーン自体は原作厨の私個人としては「うーーーーーーーーーーーーん……」なのだけれどそこの音楽は素晴らしい)、多く助けられた。
 ラナの弟、セルドのCVが悠木碧だと私の中で確信したのも、この映画での少年のような妹の声を演じていたのが悠木碧で、その声質に震えたから。
 思い出は深い。

 原作好きからするとけっこう思うところはあるのだけれど、あまりにも評価が良いので少し肩身が狭い。
 それはそれとして、とても影響は受けたので、映画としての完成度は高かったんだ。作品を、作品として純粋に観るのではなく、自作を投影させるなんていうのは、驕りというか、不謹慎というか、良くないかもしれない。だけれど、そうして影響されて作品を作った以上、そういう目を今更消すことができない。
 久しぶりに観たら印象も変わるかもしれないので、観るつもりではいます(MIU404観たいけど)。本当は、私の目が深いところを見れていなかったのかもしれない。

 良かったら来週、一緒に観ましょう。

たいへん喜びます!本を読んで文にします。