見出し画像

おやすみしたこと

 仕事を休んだ。詳細はここでは伏せるけれど、じっと朝、出勤について迷って、奇怪な文章をLINEで身内に送ってしまい、なにをやってるんだろう、と考えていたらなんかよくわからないが涙がぼろぼろ出てしまった。昨晩から少しおかしくて、先日のPeople in the boxのライブ音源を延々と嬉々として聴いたりなどしていたのに、急に音楽の一切を耳が受け付けなくなり、うずくまるように眠って、なんだかだめかもしれないな、と弱気になったりなどしていた。無理する必要はない、逃げてもいい、という世論が最近は台頭しており、そのこと自体を否定する気は無いのだけれど、逃げてもいいというその流れに乗ってしまっただけのような気がしている。無理という線はどこで引かれるのだろう。人それぞれが抱えている器は大小異なり、そこから水が溢れるかどうかは、器にひびが入っているかどうかは、目に明らかになることではなく、誰かと共有できるものでもない。はじめてそれが明らかになるのが、なにかしらの病というかたちで診断されたり、明確に身体が破綻をきたしたときなのだろう。でも、そうならないために無理をするなという風潮が流れている。ストレスにうまいこと付き合っていくことが必要とされていて、ストレスは頭ごなしに否定されるものではなく、その存在によってよりよい道へいく可能性(進化ともいう)が拓けるのだから、壊れない程度に立ち向かうことが必要となってくる。壊れる・壊れないという線引きは依然曖昧なままだ。今のご時世不謹慎なことだが、いっそ熱が出てしまえば、とか、いっそ立ち上がれなくなってしまえば、とか、逃げるための明確で揺るぎのない理由を求めて感情が過っていく。

 休みますという連絡を入れてから、午前中いっぱいは遠くの蝉の声だけ聴きながらとにかく寝た。正午になって、宅配で昼食を頼んだ。この暑い中自転車をこいで汗をたらしながら働いてお金を稼いでいる人がいて、感染拡大の影響でやむなく職を切られたり収入が激減した人がいて、それに比べると、どこか漠然としたしんどさを理由に休んでいる自分の役にたたなさというか、甘えていることに辟易した。誰かひとり休もうと社会は回っていくし職場が回っていくことも知っているけれど、小さいコミュニティになにかしらの負荷がかかるのは事実で、たぶん、その気になれば出勤してきちんと働くことは可能だっただけに、無理するなという流れに乗ったのではなく、それはただの言い訳に過ぎず、一社会人としての責任を自分から放棄したのだなという事実をぐるぐると考えていた。そうして、あたたかい昼食を食べながら東野圭吾の白夜行をゆっくりと読み始めた。800ページ近い有名な長編は、文庫本でも片手で持っていると手が痛くなる重量をしていて、以前読もうとして早々で挫折してしまったままずっと机の隅に積まれていた。小川洋子に嵌っている最近なのだけれど、自宅のストックが切れてしまったので、かねてからの積み本を崩そうと思い、その分厚い背表紙に指をかけたのだった。それから、時々Youtubeのイラストメイキング動画などを間に挟んで休憩をいれながら、左手にばかり集中していた重量が均等になるほどまで読み進めていたら、外が昏くなり始めていた。物語の持つ引力から少し離れて、電灯をつけると、思っていたより昏い室内であったことに気付く。今日を休みにしたら、また明日からきちんと生きられるように生活を整えよう(一週間分作り置きをつくるだとか、洗濯物を片付けるだとか、掃除をするだとか)と考えていたのに、寝るか食べるか本読んでるか動画見てるかという、見事になにもせずに太陽は沈んでいった。目を集中して酷使したせいか、頭がずきずきと痛んでいる。

 皆、折り合いをつけながら生きている。本を読んだりドラマや映画を観たり人と愚痴を言い合いながら。楽しく生きていたいけれど、嫌なことなんて誰にも生じることで、漠然とした不安など普遍的なものに過ぎず、何もそれぞれの人間は特別ではなく、その事実に時に安心させられたり、落ち込まされたりする。けれど、特別だとかそういったことに翻弄されても許されるのはモラトリアムの象徴で、とうに過ぎたこと。誰もが基本的に普通で、それぞれに得意と不得意がある、ただそれだけ。


 人間関係にしろ仕事にしろどこか逃げてばかりの人生で、唯一逃げずにやり続けているものを考えた時に、誰にでも声をあげて言えるわけでもない小説くらいしか残らなくて、ああ、小説を書こう、と思う。だから、ずっと自分に課していたnoteの毎日更新をここらで必須から外します。ちょうど、昨日で90日連続更新のバッジももらえたし、365日のバッジまで目指すことは今の自分に必要ではないと考えている。書きたい時にはまたこうして書くし、そうして読んでくださる人がいることはやはり嬉しく、とても感謝しているから、書くことは書くのだけれど、毎日じゃなくなるかもしれない、ということ。noteを始めて6月あたりまでは、三題噺で短編小説を多く作っていたのだけれど、またそういったことをやるのであれば、以前のように、日々、脳直で打鍵したものをそのまま出して量産していくのではなく、質に注力したいと思うから。心の底に潜っていって、散りばめられた物語の断片を浮かび上がらせて、また形にしようと思う。

 いつのまにか、People in the boxのライブ音源を聴いている。優しいアコースティックアレンジを、聴覚神経が受け入れている。

 まさに日記というような、個人的な事柄で恐縮です。明日はきっと、仕事に向かいます。

たいへん喜びます!本を読んで文にします。