2021年9月の朝の記録

noteから移行後ずっと使っていたg.o.a.tがサービス終了にあたり。今でもnoteでフォローしてくださったり読んでくださっている方もおられるので、過去の『朝の記録』をまとめて置いておこうかなどと気が変わって、お試しでやってみます。

9月1日(水)

 月初が水曜日だと映画安くなる日が被ってちょっと勿体ない気がしちゃうケチ精神、祝日が土曜日と被る時の感情と似ている。

 そんなわけで九月だ。天気予報アプリを確認すると、まるで昨日と今日の間でくっきりと境界線が引かれているかのように、昨日までの最高気温は軒並み三十五度近くを推移していたのに、今日からは三十度以下が続いている。身体が慣れてくると三十度ならましだと思える。

 どうにもこうにも昨日はまともに機能しなかった身体。腹痛。頭痛も多い最近なので鎮痛剤の服用頻度が上がっており、もしかしたら少しずつ耐性ができているのかもしれない。今朝は調子が良く、もしかして昨日がピークだったのではないかと期待している。ただ昨日は実にポンコツだったので、どうにか机に齧り付いてなんにも考えずにできるような、日記の原稿を縦式に流し込んでいく作業をしたり気分転換に本を読んだりしていたのだけれども、エンゼルスとヤンキースの試合が始まったあたりからいよいよ酷くなりぼんやりと横になった。初回からヤンキースが二点を取ったのがなんだか嫌な予感がしていたけれど、交互にちまちまと点を重ねていくシーソーゲームへと発展していき、大谷選手の打席、確実に入るとわかるようなバットとボールのジャストミートした音が響き、ホームランが飛びだした。寝込む身体にホームランはよく効く。その後も点取り合戦は続き、決勝点となるあざやかな長打が決まったエンゼルスが一点差を守って勝利した。わあ、と嬉しくなって私は寝た。大谷選手は前回の試合で右手首にピッチャーの球を受けてしまい、報道など見ていると骨に異常はないけれどもどうも痛みはあるようで、ホームランを打てるほどであっても心配してしまう。右手の完治のために登板を休むぶん、疲労が回復されて完全復活、という展開になったら楽しいけれど、インタビューでピッチャーとバッターどちらもやっているからこそ今のコンディションがあるという話もしているので、超人の感覚ははかれない。

 夕方に差し掛かるあたりで目覚めて随分と体調が良くなっていたし、明らかに外が涼しい気配がしたので意気揚々と畑に行ったものの作業をしている間に腹痛が再来し、無理はするもんじゃないと呆れた呟きが聞こえた。身体を労りたくて夜のお風呂上がりに白湯を飲むとおいしくて、胃へと暖かい液体が流れ込んでみぞおちに向けて浸透していく生々しい動きが地響きのように伝わる。しかし治まらない腹痛だったので早々に布団に入った。そんな日も当然ある。今日はほんとうはドライブ・マイ・カーを観に行きたい。


9月2日(木)

 昨日の日記を読み返すと、「今朝は調子が良く、もしかして昨日がピークだったのではないかと期待している。」と希望的観測を記しているけれども、当時既に万全な状態ではなく、とりあえず休みつつ過ごして体調が順調であれば映画を観に行こうという魂胆でいたのだが、午前中は見事に日記を書いた後ずっと寝込み、午後も夕方まで寝込んでいた。発熱したというわけでも腹痛がひどかったというわけでもなく(昨日は鎮痛剤を飲まなかった)、全体に怠かったというだけなのだが、その怠さが妙に響いていき、本を開く気にもなれなかった。エンゼルスの試合実況や、Youtubeの長いゲーム実況を背景にしてすこんと眠る、繰り返し。一睡の仮眠も出来ず働き続けてものすごく疲れた夜勤明けのように夕方までほぼ寝て過ごしたという一日だった。こんなに寝たら夜眠れなくなってしまうなと心配していても夜横になったら朝までがっつり眠れるというあたりもまさに夜勤明けだった。夜勤、と書くと夜勤に関する嫌な思い出が芋づる式になだれこんできて憂鬱になってしまう。こういうときに良い思い出より悪い思い出の方が先行するのは、生理的現象とはいえつらいものだ。

 そういうわけで水曜日のドライブ・マイ・カーは叶わなかった。でもそれで正解だっただろう。寝ていなければやりすごせなかった一日を、外出先で、しかも映画を観るというのは耐えられようもない。映画館は楽しいものだが、観客側が万全でなければ何もかもがもったいない。贅沢な場所と時間を贅沢に使えないでは作品に申し訳ない。それにこのどろっとした調子の悪さは周期的なものなので、恐らくは今日あたりから復調していく。

 流石によく寝たので夜になると若干回復しており(元々が体調マイナス五十くらいで推移していたのがマイナス四十になったという程度)、レンジをフル活用して適当な夕食を作り白湯を作って本を開こうと倚子に座った。ほっとできる本にするか、感情を大きく揺さぶられる本にするか、どちらか迷って後者を選んだ。あまりにも平坦な一日だったので、体調とは関係なしに刺激が欲しかったのだろう。序盤の四十ページくらいしか進んでいなかった「追憶の烏」を読み始め、一章を読み終わってから、今夜は眠らせない、と本に囁かれたように感じた。そして結局止まることなくページを捲り続け、ながらも溜息をつくために一瞬歩みを止まらずはいられないような展開の波につれていかれるまま、日付線を越える前には読み終えた。まさか一巻で見られた女のドロドロがこうした形で再来するとは思わず、ギョッとするやら気分が落ちるやらなんやら。一巻、かなり苦手で一度も読み返していないのだけれど、ここにきて人物が密接に繋がってくると読み返さざるを得ないところもあってそうしたところもまた辛い。

 そして雪哉と金烏の関係に苦しくなるやら、情緒不安定。幼い頃より命を狙われ続け権力争いの渦中にあって身内すら信じられなくなった金烏が求めていたのは、心から信頼できる存在だったことをこうして突きつけられると思わず二人が出会ったばかりの二巻に戻り、ページをめくり、お互いに生意気だった頃を振り返る。結局また深い、深い溜息をつく。一つの希望は最後に現れた存在で、恐らくは……と考える時間もまた楽しいもので、またしばらく続刊を待つ生活に戻っていく。生きなければならない、と思う。ああ、それにしても、生きていれば、恨みを抱かない/抱かせない者など一人もいないとしても、しんど。なんでこうなったんですか。


9月3日(金)

 起きると肌寒くて驚く。扇風機もエアコンも稼働停止。

 復調しつつあり、昨日は雨が止んだ隙に図書館へ行って予約していた本を取りに行ったのだけれど、そのために外に出たら部屋の中との温度差におののいた。昨日のうちは扇風機くらいは回しておきたい室温だった。でももう今日はそれもいらない。しばらくはっきりとしない天気が続くらしい。ぼちぼち畑の方、耕して与えた肥料が土にしみわたっているであろう頃合いに入るから、苗の植え付けだとか種蒔きだとかが待っている。近くの田圃は穂をもたげ、やがて黄金に変わっていく。

 図書館を出たら近くでコーヒーを飲みつつ図書館から借りた本を開いたのだけれども、それよりも前日二日分まともに身体が機能しなかったのだから作業をせよという指令が何度も脳内で出されて、致し方無しに鞄からiPadが出されて八月の日記テキストをどんどこソフトに流し込んでいく。基本的にはコピー&ペーストの繰り返しだけれども、その都度文章に目を通しているのでいちいち立ち止まり思い出に耽ったり誤字を修正したりなどしていてそれなりに時間がかかる。お盆のあたりから始まって、ひとまず区切りのいいところまで辿り着きたかった。八月三十一日までようやく到達して心の中で大喝采が起きた頃には、外は暗くなっていた。雨は降っていなかった。午後七時を回ったところで、お客さんはほとんどいなくて、近くにいた男性がカレーを食べたり、イヤホンをつけた女性が熱心な顔つきでスマホを操作したりしていた。客席から厨房が見える位置にあって、ふと視線を上げてみると、エアコンがあり、その上に時計が設置されていた。その時計が全然違う時刻を示していて、五分とかそういったレベルではなく、一時間以上ずれていた。一時間二十分ほどずれていた。けれども少しも気にされていないようで、淡々と黙々と厨房スタッフは仕込みなのかなんなのか手元で作業をしていた。たぶん、より正確な時計が目に見える位置にあって、だから高く掲げられた時計が間違っていても、労働において不都合はないのだろう。しかし、なんともむずむずとした感覚があった。何故あの時計はずれたまま放置されているのか。何度かこの店には来ているけれどもそこに時計があることは昨日初めて知ったことで、いつからずれているのか。誰も直そうとはしていないのか。脚立を持ってこなければいじれないような位置にあって、厨房であるから、あまり余計な汚げなものを入れたくないとかそうした意図なのか。単に面倒臭いのか。だって困っていないもの、といったふうで、やっぱり誰も気にしていない様子。むずがゆいままで、でも、そうしたちょっとしたおかしさが目に入って勝手にクローズアップしていく感じが面白くて、なんだか物語の種になりそうだ、と呑気なことを考えながら最後のコーヒー一口分が口に流し込まれた。冷めきって苦かった。

 とにもかくにも日記が全部まとめられて、総計およそ九万七千字という字数になった。なかなかどえらい字数で、縦書き二段組みの書式で試しにPDFにするとやはり百ページはゆうに超えた。本らしい形になると無条件にうきうきする(うきうき、の『うき』とは、浮き足立つ、の『浮き』、からきているのだろうか、猿の鳴き声を漫画などで表現すると日本ではウッキーだとかウキキーとかが使われがちだけれどもそれって誰が使い始めたんだろうか)のだけれども、これを紙の本とすることにどこまでの意味があるだろう。書くとは、書き手の内的な対話でもある。しかしこれを公の場に出しているということは、外的な文章としても存在している。外に出しているということは、読み手の存在を少なからず考慮する。もうそんなことを一年やっている。そうなってくると単なる内的模索に留まらず、まとまった文章表現の一つとして書いているわけで、そう割り切ってしまうと本にするのも特におかしいことではないように思うし、既刊である「どこかの汽水域」ともども名刺らしいものになるのではないか。などとこねこね考えてとりあえずせっかくまとめたのだから当たって砕けろの精神で引き続き製本に向けて作業をする、実はかなり切羽詰まって時間がないことにも気付いてしまった。

 ここ数日倒れている時間が多かった中、ちまちまと影で読み進めていた「流星シネマ/吉田篤弘」を昨日一気に読み進めて、読み終えた。以前から読みたかったのだけれども有難くも文庫化した。吉田篤弘の文章は優しくて、透いた水のようだ。この本のキーワードに、水がある。崖の下と崖の上を舞台にした町は、今は埋め立てられた場所にかつては川があり、その川に海から鯨が迷い込んできたことがあり、そしてかつて主人公の友人の一人が増水した川で行方不明になった。今、見えなくなった川の上に彼らは立ち、静かに生きている。

 たとえば、本を読んでいる途中で本から顔を上げたとき、物語の世界が、すぐそこの自分が生活している世界と同化するのを感じることがあった。ときには、区別がつかなくなるときもあり、そうしたとき、どこか遠くにあるかもしれない物語の世界と、自分がいまいるこの町は、じつのところよく似ているのだと気がついた。(流星シネマ/吉田篤弘 P.256)

 この本自体が小さな映画館で上映されるような小さな映画のようだった。



9月4日(土)

 昨日、午後、ハロワ。午前中、強い雨が降っていたせいかこんなにも人がいない光景は一度も見たことがないというほど人おらず。職業相談なんていつ行っても十人くらいはいるのにゼロ。待ち時間に本を読んだりしてたいてい過ごしているのだけれど、そうしている暇もほとんどなく最低賃金が十月一日から五十円近く上がりますというポスターを眺めていたらするりと呼ばれて少しだけ話したりする。プリントアウトされた紹介先を懐にしまって、設置されているパソコンで他にも検索をかけたりしていた。月給七十万くらいのものが飛び出てきてなんだこれは、と餌に釣られるように確認してみると、紹介先の意向で会社名は不明で、年間休日数が七十日ほどで、そっと閉じた。

 求人を眺めるのと、マンションなどの間取りを眺めるのは同じくらい好きで、思い返せば子どもの頃から新聞のそうした類のチラシを眺めるのが好きで、まだ働くはずも自分で部屋(家)を借りたり買ったりするはずもない年齢なのに、どういった職が募集されているのか、どういった給料なのか、この部屋を借りるとしたらどういった家にするのか、特に意味もなく読んでいた。その延長線上にいるのだろう。引越するわけでもないのに、たまに面白い物件を集めているサイトを見に行って面白がったりするし、求人を眺めてああだこうだ無味な脳内会議を繰り広げたりする。

 私がぼんやりとしているあいだに、適応障害で休養に入った深キョンが芸能活動を再開すると報道された。ほんの一ヶ月くらいしか休んでいない気がする。心と体も回復したと書いてあって、とても信じがたい。お金には困っていないだろうしもっと休んだらいいのに、と思うのだけれども、多忙を極めていた人が急に長い休息をよぎなくされて、あまりの日常の落差に、働きたい、と思ったりしたのかもしれない。地位を築き上げた芸能界に穴をあける恐怖感もなんとなく想像つくような気がしないでもない。わからない。復帰するということは、主治医がゴーサインを出したということなのだろうけれども、無理せんでほしい。

 夕方から「ドライブ・マイ・カー」の上映がなされるようで、それまでの時間、コーヒーとフルーツサンドを頼んで本を読んで過ごした。「ハツカネズミと人間/スタインベック」を読んだ。可愛らしい文庫の表紙にえがかれている可愛らしい絵柄ののっぽの男と小さな男が物語の主体。健気で不器用な二人の友情、二人をとりまくカリフォルニアの農業労働者たちとの熱っぽいやりとりが、微笑ましかったりもするのだけれど、労働階級や黒人の差別もまざまざと描かれ、乾いた干し草のにおいや生き生きとした動物の描写に気をとられてはいられない。読了すると嘆息。やり場のない思いが堂々巡り。

 雨で湿った肌寒い道を辿って、遠いかつてのカリフォルニアに思いを馳せながら、時間ぎりぎりで間に合った「ドライブ・マイ・カー」は、180分という大作で当初気圧されていたのだけれども、そんな長時間を感じさせない、とても良い映画だった。原作を先に読んでいたのだけれども、原作は短い一作であるので、それをベースにしながら新たに書き直した脚本だった。違うストーリー、違う舞台、違う人物設定が盛り込まれているが、それは不快ではなく、むしろ一本の映画としてものすごく完成されていて、かといってもとの雰囲気を壊すわけでもない。原作の前時代的な性別観をやわらげ、人間ひとりひとりが独立しているように感じた。

 不思議だった。小説らしい、演劇らしい、長い独白が要所要所で入り込む。長い、何もない、ドライブのシーンがある。ドライブの、不思議な心地良さ、あれがこの映画の没入感の大きな要因だったのだろう。カットとしてはまんなかに役者のアップを映したまま、彼らが喋るだけ、といったものがいくつもある。背景に車の走りつづける音、変わっていく景色(たとえ夜で見えなくとも)が彼らの独白を、台詞を違和感なくいざなう。それがどこまでも心地良くて、ずっと台詞を聞いていたかった。映画、面白いな。派手でなくても、こんなにも静かであっても、観客を震わせることが可能なのか。180分という一見して長い時間を、無駄なく、だらけず、完成させることができるのか。すごい。

 まだ車の中にいる気さえする。どこかの道路を走り続けている。



9月5日(日)

 カズオ・イシグロの「遠い山なみの光」を読み始めた。「クララとお日さま」が今年日本でも発刊されて私の印象ではとても良い売れ行きを見せた印象だったのだけれども、ノーベル文学賞をとった以降も彼の作品を読んだことがなく、特になにかきっかけがあったというわけでもないのだけれど初めてのカズオ・イシグロとなった。各作品文庫化している中で一番タイトルが美しいと思った。デビュー作らしい。前半の大半は長崎での話だからか、なんだか英語で書かれた文章というよりも最初から日本語で書かれているような錯覚に陥る。現在に描かれるのは、主人公悦子の娘の自殺から。回想は戦後直後の長崎だ。日本全体が喪失の最中。女性の身動きのできない感覚がまとわりつき、湿った暗闇がずっと流れ続けている。

 言葉が出てこない。本に対する興味云々ではなく、この日記を打ち出す言葉が出ない。なにもなかったということではないのに、綴ろうとしても空虚だ。なにも面白いことを書こうとしているわけではないし、意気込んでいるわけでもないのに。

 たとえば「ドライブ・マイ・カー」で車を走らせている風だとか、カリフォルニアの褪せた空気だとか、雨水がたまって蚊がとびまわる長崎の夏の湿り気だとか、窓から果樹園が見えるようなイギリスの家だとか、微かなピアノの音だとか、さまざまな物語を印象づける情景が飛来しては、私は向かいあうべき原稿を前にして引き戻される。推敲をしなければならない。


9月6日(月)

 時折、自傷的心情になるというか、ベクトルははじめは他者だったのだけれども同時に自分も攻撃しているというか、他者によるなんでもない言葉や行動に痛みを感じて、それに対して嫌だなと感じたりもやもやしたりして反発のような心が生まれて、しかしその嫌とかもやもやの正体ってほんとうにおかしなことなのか、その発言たちに喜んだり賛同するお客さんがいるから商売やエンタメは成り立っていて、でもこれほんとうに良いのかな、といった気持ちがずっと燻り続けている一日だった(抽象的でごめんなさい)。

 たとえば好きなひとや、好きなもの、好きな番組、好きなゲーム、好きなコミュニティ等々があって、個人でなく多数で作成する作品などの場合、人の移り変わりだとかお客さんの好みだとか規制だとかで、少しずつ変化していく。こちらがわの環境なり心情の変化に応じて好みも変化していく。それってどれも自然なことで、だから、好きなものがずっと好きでいるとは
限らないし、たとえ好きじゃなくなったとしても、当然の移り変わりといったふうにその流れから少し離れればいいんだな、と当たり前のところに昨日一日考え続けて着地した。好きなものが好きじゃなくなってしまうのはけっこう悲しいけれど、自分に生じた違和感を抱えたまま好きなままでいようと努めるのはヘルシーではない。その理由が自分の変化であったり向こうがわの変化であったりあるいは見えていなかったものが見えるようになっただけだとかあらゆる候補の中のどれでも良くて、昨日はもやもやに対するはっきりとした理由とかそれでも好きでいつづける理由を探していた、その葛藤はもはや呪縛とも言い換えられるかもしれない。とにかく、じっと考え続けていた、違和感について。そのあいだ、反射的に言葉を口にしないほうがいい(むしろたくさんたくさん噛み砕く必要がある)、自分の中で吟味する時間もまた、決して無駄ではないのだと思う。

 好きなものが好きだったことは変わらない事実として存在しているし、決してすべてが苦手になったわけではないのだけれども(同じことが自分に対して誰かも感じることだってあるだろう)、自分に生じた違和感の種を蔑ろにしたらどんどん不要な傷を負うばかりで、それに対して苦しみを覚えたら離れたらいい。そして離れたからといってもう戻ってはいけないわけでもない。

 特定個人に向けたものではなくて、もっと漠然と、全体的な話。

「遠い山なみの光」を読み進めたり、推敲をしたり、甘い物を食べたりしつつ、夜になってパラリンピックの閉会式を観て、あれこれと喉に引っかかった魚の骨を気にしていたら昨日はひととおり終わってしまった。けれども閉会式が終わって、ぐるぐると一日沈黙して考え続けた末にすっかり疲れて、本を読む気にもなれず、ふと思い立って久しぶりに小川洋子のラジオを聴いたらとても優しい世界にひたり、安寧の場所になんとか辿り着けたような気がした。穏やかな声で楽しそうに本の話をしているのを聴いていると、幸せを感じる。


9月7日(火)

 妙に鬱々とした傾向が持続したままハロワへ。認定が通らないことってあるんだろうか。機械的に進んでいく。ありがとうございましたとぺこり。

 そのままの足で本屋に行き、落ち着くのだけれどふらふらと店内を歩くばかりだった。明るい店内で暗い底辺のところをずっと沈んだまま泳いでいる気分だった。小川洋子のラジオで重松清の『カレーライス』がとりあげられてあまりにも懐かしくなったから文庫を手に取りたかったのだけれども、重松清はたくさんあったが『カレーライス』が入っているものは在庫が無かった。他になにか、と過去紹介していた本に目を通すと、川上弘美の『センセイの鞄』が目に入り、名作と謳われて久しいけれども読んだことはないので読みたくなり、新潮文庫の方を買った。どこか忘れたけれども、違う出版社でも出していて同じ本屋でどちらも棚にさしこまれたままだった。どちらでもよかったけれども新潮文庫の方が表紙が好きだった。

 なんだか落ち着かずに、これはどうしたものだろうと考えて、美味しいものを食べよう肉でもどうだろうと検索して最初にこれはどうだと見た店が三千円くらいするランチだったので萎んだ。別で安価な海鮮丼を食べた。丼に味噌汁や冷や奴もついたボリューミーな内容、アジと鯛を細かく切って丼となっていた。カウンター席に案内されたのだけれど、アクリル板を挟んで更に一つ席を置いた向こうのお姉さんが、私が来た時には既に一通り食べ終わっていて、米が結構残っているままぼんやりとしておられて、やがて米は残したままで席を立たれた。勿体ないな、と横目で思っていたのだけれど、いざ自分に本物が来たら、米が特別多いというわけではないと思うが全体的に多いようで、確かに丼のすみをつつくあたりの段階にはもうかなり満腹だった。腹十分目に至ったのは久しぶりだった。コスパはとても良かったし日光はとても眩しかったのだけれども、気分は晴れないままだった。

 推敲、推敲、推敲、というようにぽんぽんと進むことなく、道を逸れて『遠い山なみの光』を読み終えた。子猫を飼いたい万里子と、神戸に行くために子猫を手放そうとする佐知子、の場面、子猫の行方に悲しくなる。それだけではなく、全体に流れているたとえば激変する戦後の雰囲気だとか、女性の自然と追いやられている様子だとか、心の擦れ違いだとか、貧富だとか、様々なテーマが詰め込まれていてとても一言では表せない濃厚な本なのだけれども、とりわけ私の強く印象に残ったのが万里子と子猫、そして子猫の行方だった。そして、ケーブルカーに乗っている日、万里子が木登りをして、その日偶然一緒になった、過保護に育てられている男の子は木登りをしたことがなく、二人で登っている場面。私は万里子にとても揺さぶられた。小さな存在の、小さな挙動や小さな抵抗のひとつひとつを、祈るように読んでいた。

 はじめ、何故、悦子にとって現在のイギリスが主体ではなく、子どもの景子の自殺から、長崎での過去の日々を回想する流れになるのかがいまいち掴めなかったのだけれども、読み通してみると、佐知子を通じて悦子自身を、万里子を通じて景子を見ようとしていたのだろう。回想で、悦子は佐知子を批判的に見ていた部分が随所に感じられるのだけれども、皮肉なことに、まわりまわって、回想当時はお腹の中にいた景子に対して、彼女は理解ができず気を回せず、距離を置いたのだった。

 初めてのカズオ・イシグロ、好きだった。池澤夏樹の解説を読んで、登場人物の会話がプロットの中心にある、作中で作家の気配を完全に消している、というようなことが書かれていてなるほど、と思う。


9月8日(水)

 畑に行った他は入稿に向けて全体的に頑張ったのだけれども、『どこかの汽水域』で大変お世話になった縦式というアプリでどうにもうまくいかない事項があり、急遽ワードを使って最終的にPDFに変換する方向に固めたのだけれども、ポメラで修正していた『朝の記録』のテキストデータをパソコンに取り込もうとしたところ何故か七月分がクラッシュしており、呆然とする。夜の二一時ほどだっただろうか。日記なので基本的には原文そのままで、たとえば数字表記を統一したり引用部分を整えたり、そうしたこまごまとした修正を施していたのだけれども、三一日分もあれば時間もほどほどにかかったのでちょっとへこむ。めげずにまた推敲しなければならないが、さすがに昨晩はショックで立ち直れなかったので、八月部分だけ使ってページの体裁を整えたり奥付を作ったり表紙を作ったりしていた。表紙を作ろうとクリスタを開こうとしたら何故かクリスタが開かなくなっており、そのうえペンタブのペンがどこかに行ってしまっていてなんだか踏んだり蹴ったり、結局iPadを使っていた。なにをするにもiPadが優秀でもうiPadなしでどうやって生活できていたのかわからない。タブレットと比較しても別物なので仕方がないのだけれど、どうしても比較対象になってしまうパソコンが相変わらず動作不穏で、開く度にもうこの機体は限界が近いと思う。

 文を生み出していくのが好きなので、本を作る場合その先に存在している、余白や行間を整えたり表紙を作ったりといったプロセス、そもそもの性格がかなりの面倒くさがりでもあるので取りかかるまでが長かった。しかし始めてみると楽しい、同時にいろいろと不安。昨日の時点でかなりばたばたしそうな気配がしてきたので今日も引き続き入稿に向けて頑張らねばならないのだけれど(なにより七月推敲のやりなおしだ)、プリンタのインクが切れてしまって試し刷りができない事態に陥ってしまったのでインクを買いに行く必要があるし、水曜だなあ映画が安いなあ、などと考え始めると次から次へと欲が出てきてきりがない。午前中頑張ったら午後はちょっとのんびりしてもいいだろうか。昨日は本も読めなかったし。


9月9日(木)

 ほとんど内容を覚えていないのだけれど今朝の夢。ただ強烈にひとつ覚えていることがあって、どうやら私はオランダに行く予定だったらしく、飛行機の時間は二三時だった。しかし夜、家で眠っていて、目を覚ますともうあと十分ほどでフライト、という時間になっており、ものすごいショックを受けた。「でもさあ、ほんとうに行くつもりだった?」と悲しみをぶちまけた相手に尋ねられて、何度も頷いていた。夢の中でもコロナ禍は続いていた。その時の私は本当に飛んでもいいというよりも、挑発的に尋ねられて抵抗するようにもちろん、と頷いていた。浅はか。

 午前中頑張ったら午後はちょっとのんびりしてもいいだろうか、などとあぐらをかいていたけれども、結局真面目に一日中家に引き籠もって編集作業をしていた。珍しく余所見をしなかったのは、締め切り間近だからというのは勿論あるが、ずっと雨が降っていたからでもある。雨が降る、と天気予報でも出ていたにも関わらず洗濯機を回してしまい、部屋干しされることになった服たち、一日干していてもなかなか乾かなかった。気温がだいぶ低くなっている。窓を開けると入ってくる風が涼しい。

 夕方になってくると雨はぎりぎりやんでいたので、外に出てプリンタのインクを買いに行った。ついでにパソコン売り場を覗いたのだけれど、当たり前とはいえパソコンってどれも高い。サイズはまったく異なるのにパソコンと同じくらいの値段するiPhoneもとんでもないとぼんやり見ていた。新型が発表されるとかどうとか噂が流れていた昨日。あまり興味が出なかったので素通り。インクだけ買った。ついでに疲れ切って夕食を作る気がまったく起きなかったしがっつりとしたものも食べたくなかったので丸亀製麺へ。温かいうどんをすすることに決めた。わかめうどんを頼み、一日頑張ったご褒美として天ぷらのえびとさつまいもで迷って値段を見てさつまいもの天ぷらをつけた。うどんを作るお姉さんの、わかめをたいへん気前よく入れてくださり「そんなにたくさん、ええんですか」と目を丸くしながらも何も言わず有難く受け取った。一つ前にいた人は、とり天うどんに、さつまいもの天ぷらとおにぎりをつけていた。とり天だけでも四つくらい乗っていそうだったのに更に天ぷらを追加するのか、と眺めていた。あの前にいた人がさつまいもを選んでいたから私もなんか天ぷらをつけたいな、と思ったのだった、そしてつられるようにさつまいもになっていた。美味しくて満足。

 ついでに本屋に寄って文學界がないか探したけれども、文芸雑誌コーナーを見ても青い表紙は見当たらなかった。

 うどんにしっかり満足したのでもう夜は作業しなくてもええんちゃうか、といった気分にもなったのだけれど、せっかくインクも補充できたので結局夜も編集作業の続きをしていた。そうしていると、急にネットが繋がらなくなり、三〇分ほどルーターの前で格闘。何をしているのだろうとしおれそうになりながら、一向に繋がらない。困った、となって、Twitterで検索をかけたら同じ状況の人がずらずらと並びトレンドに「楽天ひかり」だの「通信障害」だの並んでいて察する。これはどうも自分のところだけの問題ではなく、全国的な大規模障害らしい。そうなればもう待つ他ない。見えない場所でエンジニアの方々が夜中奮闘している姿を想像してお疲れ様ですと心の声をかけた。しかし、これがもしも締め切り当日だったらほんとうにしんどかっただろう、想像してぞっとしたので、もうさっさと入稿したい。

 夜、長田弘『深呼吸の必要』を少し読む。詩集だけれども、ちょっとした掌編小説のような詩が並ぶ。前半、『あのときかもしれない』と名付けられた連作の詩は、子どもからおとなになる瞬間について静かに追いかける。すごく良い。だんだんと漢字や難しい言葉が増えていくという工夫も、子どもの成長をそのまま追いかけているようで素敵だ。どこか、『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』を思いだす、あれは斉藤倫だった。子どもを見守る優しいまなざしが共振する。勿体なくて、一気に読むのは止めて、横になった。いつもならラジオや動画を耳に流し込みながら眠るけれども、静かなままで眠った。よく寝て、そして夢の中でも眠って寝過ごしてオランダには行けなかった。通信障害は直っていた。お疲れ様です。



9月10日(金)

 セルフ精神を極めてここまできたか……といったような朝の記録の冊子化(夏の間分だけ)、昨日、無事入稿できたのでたぶん大阪文フリに間に合う。感覚的にはこんな個人的なことごとなので一〇ページくらいの団扇代わりにもできるような冊子でありたいのにちゃんとした厚みがある予定。これほんとうにやってよかったんだろうか。いやそもそもやってよいとかだめだとかを決めるひとはどこにもいない。需要を考えはじめると具合が悪くなる。物が手元に届いたら気持ちが楽になるんだろうけれどもまだ当分先になる予定で、そこまで引きずられている場合ではなく、日記にこうして区切りがついたから次へ行こうといった切り替えは始まりつつはある。小説を本にしてみたいという願望は『どこかの汽水域』がひとまず叶えてくれて、日記を本にしてみたいという願望も、そもそもこの日記始めたのも去年の文フリ東京までの創作の日々を本にまとめてみたいというところから始まったのだから、およそ一年くらい跨いで叶えられた、つまり一年かけて需要や価値との葛藤があったことになる。ようやくある種の呪縛から放たれる。

 しかし本というのは恐ろしいもので、一度こうして入稿してしまったらもう基本的には訂正のしようがなく、不備があるかどうかも実物がきてみなければ判然としない。印字された文をこれ以上修正することはできない。怖い。昨日からずっと気分が悪い。一人で作っているせいだろうか。どこまでも個人的なことごとを公に出すことに対する抵抗感。ネットに文を公開しておきながら何を言うんだか、しかし本にするのと気軽にネットに出すのとでは、感覚的にまったく異なる。

 とはいえ、憑き物が剥がれたという点では楽にもなっているはずで、次の段階に行ける、と思う。小説を書こう。日記は日記で楽しいけれども。

 朝から何も食べてはいなかった。前夜の通信障害に恐怖感を覚え、少しでも早く終わらせたかったのだけれども、Fleet小説部分を最終的にはカットして、随分とページ数が減って、日記と本の一覧だけではなんとなく味気ないから一応あとがきを書いたり、余白サイズや表紙の最終調整をなんだかんだとしていたら、空腹に不安や締め切り間近の昂揚がためられていって、食欲もわかず、食事代わりの緑茶ばかりが流れていった。締め切りが一五時だった。入稿したのは一三時を回ったあたりだったように記憶している。入金がまだだったので本と財布を持ってATMに走った。逃げるように。外は湿り気をおびて涼やかだった。『どこかの汽水域』もとてもぎりぎりだった。あの時は締め切り前日の深夜まで格闘して、仕事の昼休憩で入金をした。覚えている。今回はもっと緊迫していた。ただ、二度目なので慣れている部分もあった。振込先として前回登録していたからなにも滞ることなく入金は済んだ。

 そのままの足で月と六ペンスへと向かった、初めての食事をとった。カマンベールチーズとマッシュルームのサンドイッチ。美味しかった。隣に座っていた方の手元に一瞬視線が移って、英文の本を読んでおられた。すごい、と心の中で感嘆した。食べ終わったらコーヒーと共に静かな時間にしばらく浸った。読んだのは小川洋子『偶然の祝福』。小説家である「私」と飼い犬であるラブラドール・レトリーバーのアポロと、やがて生まれる息子の生活を追う連作短編集。ご本人を彷彿させるような組合せ。内容としても、ところどころに現実の出来事を彷彿させることがちりばめられている。けれどその内容は創作物。作家が目にした、間近なものをきっかけにその奥へ侵入していく。一番好きなのは『キリコさんの失敗』で、キリコさんの少しミステリアスな頼もしさに寄りかかるように読み進められる。先月読んだ『小川洋子のつくり方』でもこの本は取り上げられていて、その内容も浮かび上がった。だから、誰かに手をとられながら読み進めていたような感覚が残った。

 読み終わってしばしぼんやりしている間も、日記入稿の名残は消えなかったけれども、もう夕陽が落ちかけている頃だったのでお会計をすると、今週末で閉店するという急な話を聞き、静かな店内で思わず「えええ」と声をあげてしまう。混乱。そこからよくよく話を聴いてみると、充電期間のようで、より一人の時間に没頭できる環境をつくるための時間をとるとのことで、また開店されるようだった。話を聴きながら、東京のフヅクエのことを思いだした。私は今のこの環境でも、じゅうぶんに一人の時間を満喫させていただいているけれども、もしかしたらそれは恵まれていただけなのかもしれないし、阿久津さんが『読書の日記』で語られていたように、声を出さないという規約があっても発生するたとえば初めて来られた方との齟齬、といったものが生じているのかもしれない、詳しいことはわからないけれども、たぶん呑気な自分には見えていないものが、お店を続けておられるといろいろあるのかな、と思った。

 ちょっと足を伸ばして丸善に寄って『文學界』の十月号を買うついでにどうしてこうももろもろまた手に取ってしまうのか、また本が積まれた。

 本を一冊読み切った余韻なのかなんなのか、夜は本を読むという気に何故かならず、やりたいと思っていたマジカルバケーション再プレイの続きをしようとDSを取り出し、充電器を探したらどうしても見当たらなかった。困って、諦めて、WiiUのバーチャルコンソールで最初からにする。マジカルバケーションを再プレイしてその記録をするというのがnoteで一度やろうと立ち上げた企画だったけれども、遊んでいると、もうそんなのほっぽりだして気ままに物語に没頭していようかな、という気になってくる。マドレーヌ先生の何気ない説明台詞の、メニューの説明で、「先生が言ってるメニューは、自分自身がどう生きていくかが書かれたメニューのことよ」というのが妙に響いて、やっぱりすごいなこのゲーム、と改めて感心した。ただのメニュー画面を「自分自身がどう生きていくかが書かれたメニュー」というテキストにする、発想。

 昔はカシスをはじめキャラの好みが偏っていたけれども、今は全体的にみんな可愛くてならず、やっぱりマジバケは楽しい。


9月11日(土)

 みなさん(なんて珍しく投げかけてみる)楽天スーパーセールってまともに取り組んだことあります?

 楽天って、ネット上でいろんな店が商品を出している通販形式のデパートみたいなイメージなのだけれど、その様々な店で買い物をすればするほど(上限一〇店)ポイントが余分にもらえますよとか、商品によってはかなりの割引がされますよとか、そういった大セール。

 昨日、部屋の掃除を全体的にくまなくやって布団を干してほっと息をついたところ、ちょうど洗剤が切れそうになっていたタイミングだったので、何気なく楽天のサイトを開いたらそのスーパーセールがやっていて、へえ、といろいろ見ていた。日用品をちょこちょこと買うだけでポイントの倍率が面白いように上がっていくのがゲーム感覚っぽくて(怖すぎる)購買意欲をものすごく刺激するよく出来たシステムだ……と震撼していたら、たぶん検索履歴からおすすめされたのだろうけれども、浄水器、本来一〇〇〇〇円近くするような高額商品が条件を満たしていれば二〇〇〇円になるとかで、スーパーセールやば、と気づき、良い機会なので長いこと検討を繰り返しているものや、念のため買っておいた方がいいだろうけれども先延ばしにしていたものをぽちぽちと買っていった。蛇口に取り付ける形の上記浄水器、パルスオキシメーター、フライパン、ポケモンの新作の予約、コーヒードリップ用のポット、他日用品のストック。一日でこんなに通販を使ったのは初めてだった。爆買いに嵌まる人の気持ちがわかったような気がした。

 最後までけっこう地味に迷い続けたのが、中古ノートパソコンとソファ。ノートパソコン、あれすごくて、半額になっていたりして、普段あまり使わなくなった今となってはスペックは大して必要ないし二〇一七年モデルなどでも今使っているパソコンよりはよほど動くだろうという予感は強くて、ただ、どうにもこうにもまだ使えるという思いもあるしやたら安くなるぶん普通に買うよりは圧倒的にお得だとしても巨額投資する勇気はついに出なかった。ソファも同様で、『本の読める場所を求めて』や『読書からはじめる』で本を読むための環境、ハードウェアの重要性を説いていて、実際カフェなどで読む時にソファに座るとたいへん気持ちがいいよね、というのもあってずっと気になっていて迷ったのだけれども実際に試せない巨大でそこそこ高額の家具を買う最後の一歩、一タップは出されなかった。なにしろこのセール今日の深夜帯で終了、実質昨日までだったので、そうした切迫がまた迷いを増幅させたのだった。でも一晩明けて、踏み留まって良かったと思う。衝動買いは怖い。パソコンはやっぱり使えるし、ソファも本気で買うのであれば試してからが良い。

 いやはや、消費社会の権化というか、セール、恐ろしいものだ。お買い物は計画的に。

 そんな私は普段本屋で衝動買いばかりしていて、だから本同士の文脈をあまり意識せずに適当にばらばらなものが手元に集まっていく。

 川上弘美『センセイの鞄』を読み始めて、これがなかなか素敵で、かつて教師と生徒として同じ教室にいた男女が、何十年も経って居酒屋で再会するところから始まり少しずつ親睦を深めていくのだけれど、一人称である主人公がクールな性格なのでわかりやすく展開されていくというわけではなく、静かに静かに、糸を紡ぐように書かれていくので、これが一応恋愛小説であるということも忘れるくらいだった。よく登場する月の描写は漱石を彷彿させるし、差し込まれる描写には確かにほのかな特別性が存在しているし、もともとは高校という舞台が登場人物たちの共通事項であったせいか甘酸っぱさが鼻先をかすめるような感覚もある。けれども表層的な男女関係というよりも、もっと深いところで繋がろうとしているような。

“夕方まで部屋にいた。本をめくりながら、ぼんやりと過ごした。そのうちにまた眠くなって、三十分ほど眠ったりもした。目が覚めてカーテンを開けてみると、すっかり暮れている。暦の上では立春過ぎだが、まだ日は短い。冬至のころの、追い立てられるような日の短さのほうが、いっそのこと気楽である。どうせすぐさま暮れてしまうのだと思えば、暮れがたのあの公開をさそうふぜいの暗闇にも、心がそなえを持つことができる。まだ暮れまい、もうちょっとは暮れまい、と思うようになる今どきの日脚の伸びたころの夕暮れには、足をすくわれる。あ、暮れた、と思った次の刹那に、ひしひしと心細さが押し寄せてきてしまう。

 それで、外に出た。通りに得手、生きているのは自分だけではないことを、生きて心細い思いをしているのは自分だけではないことを、確かめたくなった。しかし通る人の姿かたちを見ているだけでは、そんなことは確かめようがないのだ。確かめたい確かめたいと思うほど、何も確かめられない。

 そんなときに、センセイにばったりと行きあった。(川上弘美『センセイの鞄』新潮文庫 P.108-109)”

 好き。

 夜はまたマジバケ。前述した楽天スーパーセールでカラフルなマスクを見ていたら秋の新色に「ピスタチオ」「カシス」「ショコラ」と並んで、その他もマジバケを彷彿させるものが並んでいて、浮き足だっていた。

 光のプレーンに突入し、ピスタチオと合流し、更にアランシア、キルシュと出会って中ボスのヴァルカネイラと戦闘し、洞窟を出たところで止めた。序盤はキャラが少ないせいか、キャラクター(主にピスタチオ)が積極的に主人公に話しかけてくる。なのでピスタチオでつい遊んでしまう。一緒に戦おうと言われてつい「いいえ」と応えて「イジワル言っちゃイヤだっぴ~~~~~~~~~~~~~‼︎」と叫ぶ彼をにこにこと見つめる。

 しかし急にこんなわけのわからない世界に飛ばされて、魔法の力はあるとはいえ、それぞれ考えて行動し町を探したり仲間を探したりできる彼らは既に立派で勇敢だった。



9月12日(日)

 梨を買った。今年初めての梨。スーパーの野菜コーナーで、真夏のあいだ桃が陣取っていた場所に、梨が現れていた。梨なんてずいぶん長く食べていない。梨は切りやすい。皮を落とすのにりんごほど苦戦しない。果物において手間がどれだけかかるかは重要だった。梨って、他の果物と比べてもずいぶんとほとんど水だよな、と思いつつ、ほとんど水でできた果実を手に取った。一個二〇〇円くらいの梨。

 夜、エアコンをつけなくたってのんびりできる深夜、水出しの緑茶を作り、梨を切った。『センセイの鞄』を読み進めるおともとして。フォークをさし、かじった。ほとんど水、の果実が口の中でサイダーがとてつもなく穏やかにはじけていくみたいにしゃりしゃりと音を立てて噛み砕かれていき、そのたびに実の中に保たれていた果汁が膨らむ。ものすごく美味しくてびっくりした。梨って、こんなに優しくて甘い味をしていたんだったか、こんなに優しい果物が存在しているんだ、と何故だか、優しい、優しい、と涙がぽろぽろこぼれていくみたいに思い続けていた。実際には涙は出なかった。塩の味はなく、ただみずみずしい甘さが沁みていった。梨の無言の優しさと、『センセイの鞄』でセンセイとツキコさんの間に流れている優しさと、寒くもなく暑くもないちょうどいい気候の優しさ、夜に鳴り続ける虫たちの声の優しさ、そしてたとえ深夜であってもSNSを覗いたら誰かが夜を生きていたり繋がったりするようなそうした現代特有の状態も窮屈ではなく優しさだと思って、こうした繋がりが時に個人というか孤独をすくうこともあるんだろう、こうした繋がりに実際楽しさを感じていた、見えなくても会わなくても電波を通じた向こうにいる誰かの言葉にふれられてそれが一〇〇%正しかったり一〇〇%そのひとそのものでなくても、昼夜問わず誰かがいるだけの空間を、優しいと思った。人はそこに存在しているだけで、大丈夫だった。梨の果汁はあっさりと溶けていって、夜、歯をみがいて、寝てしまえば、もう口の中のどこにも梨はないけれども、まだどこか気配が残っているような気がする。昨夜の梨を思いだしているから。思いだすということは、おもうということは、たとえ実体としてそこに存在していなくとも、存在していると意識する、ことだ。秋の夜は静かだった。もう、秋だった。夏の名残を感じる間もなく秋になった。晩夏は過ぎて、とうに初秋ですよと空気は語る。まだ、夏と秋の間に置き去りにされている。それはまだ時間よ過ぎてくれるなという駄々のようなものかもしれない。センセイに想いをつのらせるツキコに感化されているのかもしれない。すっかり酔ったツキコが、だだっこですから、わたし。もともと。と、言った。そしてセンセイの皿の上にのっている鮎の骨をさわり、センセイは肩を叩いている。

 梨は確かに秋の味がした。優しい水に流されて、たぶん、足が秋に到達した。



9月13日(月)

 キャベツや白菜といった秋冬に向けた苗を植えた。朝に雨が降っており一日中曇っていたので、気温も低めで土は湿っていた。土作業をするにはやわらかいし涼しいし、取り組みやすかった。苗は少し頼りなさげなので風に負けないようにと根元の部分を少しこんもりと土を盛る。強い雨が降ったらやられてしまいそうだ。沖縄に上陸した台風を思いだす。九月は、まだ台風がやってくる可能性が十分ある。その前に育っていってくれると安心する。先日種を蒔いた大根等は双葉が顔を出しはじめている。去年畑を始めた時も大根などから始まったから、一周しそう。あんなにも緑が茂ってトマトの赤がちらちらと主張していた畑だったけれど、急にさびしげだ。

 久しぶりにものすごい夜更かしをしたせいか、昨日は全体的に体調が良くなかった。日曜日だから人出を思うとあまり出歩こうという気にもならなくて家で『センセイの鞄』を読んで、気が付いたら眠っていた。起きて、続きを読もう、と栞紐をたぐって読むと、既に読んだ記憶がとても濃厚だった。眠りに落ちる前に最後まで読み切っていたのだった。最後のまたたきのように過ぎていく時間に乗っかるように眠ったのかもしれなかった。秋と相性が良いのは気のせいではなかった。きのこ狩りに、鮎に、こおろぎに、秋をモチーフとした要素がちりばめられていて、月が浮かんでいる。生きものたちが静かになっていく季節だった。そして彼らは静かに相手を尊重した。明らかに恋愛模様、ではあるのだけれど、ありがちのくすぐったさは薄い。友達のままでも不思議ではないくらいだった。けれど後半に展開していくにつれて、これは明らかに恋愛小説だった。物語で男女が当たり前に恋愛に発展していくことに対し辟易することさえあるけれど、すっと受けとめられるような温度だった。久しぶりに繊細な恋愛小説を読むと、どうにも頭が少女漫画脳に引き戻されていく。

 しかしどうにも重たい湿気が追い打ちをかけて、本を終えて、農作業をしていてもずっと身体は重たかった。帰宅してからしばし休んで、こういう日は絶対おかゆ、という気分、間違いない、と決め込んで、とってきたばかりの白茄子や、余っていたもろもろの野菜だとかえのきだとかをちょこちょこと入れて、味噌や塩で味つけをして、最後に海苔をちらした。茄子をお粥に使ったのは初めてだった。すっかり煮込みすぎて原型を留めていなかったけれども、白茄子らしい濃厚な甘みがしみこんでいて美味しかった。海苔とか、あと鰹節とかって、かけなくたっていいのだけれども、かけると急に味におもしろみが出る。お粥はあっという間にたいらげられた。

 夜は、植本一子『家族最初の日』と『文學界』の一〇月号をいったりきたり。

『家族最初の日』は一日ずつ家計簿がつけられていてなんだかいけないものを覗き見している気分。しかしまあ生きているだけでお金はかかるものだとしみじみ思う。ページをぱらぱらとめくると最初と後で文の量がずいぶん異なる。日記は一気に読み進めるものでもないのでちょこちょこ読むことにする。とても能動的な日々に対して自分の生活を省みた。特に何も起きない静けさがだめなわけではない、のだけれど。

『文學界』はプルースト特集をつまんで読みはじめる。こう言ったらなんだけれども、こう言っていいのかわからないけれども、いまいち読めなくても、挫折しても、そらそうよ、という謎の安心感を与えられている気がする。それは飽き性で根性無しの私には大きな励ましだった。ここで組まれている『失われた時を求めて』全十四巻に対しそれぞれリレーエッセイをしていくっていう発想、面白い。長編小説なのだから前から順に読んでいくのが正しいだろうに、各巻でそれぞれの作家が書いていると、それぞれぶつぎりと途切れているようで、けれどもプルーストという共通事項の上に成り立っているのでどこかちゃんと繋がっている、不思議な感覚。『プルーストを読む生活』からいつのまにこんな化学反応が起こって大きなものに膨れ上がっていたのだろう、ものすごい。



9月14日(火)

『朝の記録二〇二一夏』の編集作業をしている間、子どもの本をたくさん扱う本屋メリーゴーランドで開催されているおぱんつ君の展示があまりにも可愛すぎて癒やされにいきたかったのだけれども、どうしても繁華街を経由しないことには行くのが難しいので、土日を避けていこうと考えていた。展示期間は一五日あたりまでと限られており、昨日思い立って足を運んだ。天井からぶらさがるおぱんつ君、部屋のかたすみで食事をとろうとしているおぱんつ君、関西限定の白いおぱんつ君、どれもこれもあまりにも可愛く、キーホルダーを買おうかどうか迷ったけれども、よほどのことがない限りできるだけグッズ系は買わない、と決めているので、見るだけに留まった。おぱんつ君が何者なのか、私にもよくわからないけれど、ぱんつ一丁で自由に生きている愛くるしい生き物だった。実物は写真よりも更に素敵。

 メリーゴーランドは小さな本屋さんで、ひととおり見て回る。久しぶりに来たけれども、内装自体がちょっとだけ絵本の中みたいでいつきても癒やされる。ちょこちょこと幼い頃に読んだ本が挟まれているのを見つけるだけでも楽しい。『海のアトリエ』というずっと気になっていた絵本を読んでみたり、懐かしの本を捲ってみたりして、たまたま、今読んでいる『家族最初の日』の植本一子の最新作の、自家出版の日記本『個人的な三ヶ月 にぎやかな季節』が置かれていた。『家族最初の日』は二〇一〇年で、その本は今年の一~三月なので、娘さん方がたいへん成長している。赤ちゃん、というか、産まれた時、を書いていたのが、もう、写真なんて見たら随分大きくなって、勿論その間の一一年分の日記も出版されているのだけれど、私個人からしてみれば勝手にタイムスリップしたかのような心地だった。最新作は自家出版ならではに製本がおもしろくてとても良いし、まだこの家族についてなにも知らないのに、大きくなった娘さんの写真とか見るだけでぐっと来てしまうので、買っていた。

 展示に行くと毎回疲れてしまうので、少し歩いたところにあるカフェでコーヒーを頼んでしばらく『家族最初の日』を読んでいた。一日分が短いので、するすると読んでいけてしまう。次女が産まれ、更に育つ、その間に簡単に数ヶ月が、紙面では過ぎていってしまう。ご本人も時間が早く過ぎていって驚くといった旨が書かれているけれども、読み手としてもいちいち驚いている。あとよく情報を入れずに読んでいるので、「ECD」というのがもしかして「いしだ」由来なのか、と秋に差し掛かる頃合いでようやく気づいた瞬間、ふふふと笑っていた。ずっとECDってなんなんだろうって思いながら読んでいた。びっくりするほどずんずん読めてしまう。時折、家族のぎすぎすとか、大丈夫かな、と不安になったりするのだけれど、

“夏頃に雑誌で見て狙っていたブルゾンが入荷したとの連絡あり。石田さんがちょうど休みの日で家にいたので、一人で伊勢丹へ。もちろん買いました。気持ちが大きくなり、財布とソファまでも。私もまったく稼いでいないというわけではないので、良しとする。誕生日プレゼント(六月)もらってないし、出産がんばったし、家事育児がんばってるし。家に帰って石田さんに着て見せると、「僕もそんなの欲しい」と。一緒に着てもいいよ!(植本一子『家族最初の日』ちくま文庫 P.154-155)”

 という、一〇月八日の日記にほほえんだ。良すぎ。あとソファがうらやましい。楽天スーパーセールあたりでソファを迷って以来、ネット上でのソファ検索が止まらない私。なかなか「これ気になる」と思った比較的お手頃価格のソファは、店舗展示されていないものばかりだ。

 昨日は友人の誕生日でもあったのでLINEでおめでとうと言うと、ありがとうという言葉と妊娠しましたという言葉が返ってきて、わーーーーーー!!! と盛り上がる。わーーーーー!! 最近ほんとう、交友関係が狭い中でも結婚しましたとおめでたの報告が多い。暗澹とした世の中でも喜ばしいことはたくさんある。読んでいる本でも過去とはいえ出産の文章に立ち会った(?)し、なんだかそういう日だった。でもちょっとさびしい。びっくらおどろいたり嬉しくなったりさびしくなったり心騒がしい夜を落ち着かせるというよりは更に騒がせるように『Number』九月号の大谷翔平特集を読んだ。これを買うためにメリーゴーランドに加えてもう一軒書店に向かって早速読んだ。本人やチームメイトなどのインタビュー記事も、特集記事もどれも読み応えがあったけれども、来年以降もこうして大きな特集が組まれて誰もがわくわくとしているといいな、と思う。まだシーズン終わってないけれども。今日は試合が休み。明日はまた試合。シーズンホームラン数を抜かれたらしいけれども、むしろ気にせずにのびのびとやってくれたらいいなあ。ミーハーは、その場その時の楽しさをものすごく大きな熱量で享受できるのでとても楽しい生き方だとしみじみ。スーパースターだろうと友人だろうと二次元のイケメンであろうと見知らぬ誰かが飼っている猫の動画であろうと、生活に彩りを与えてくれる存在ってありがたい。



9月15日(水)

 ほとんど勢いに任せつつ(多大なる)理性をはたらかせつつ楽天スーパーセールで頼んだものが続々と届いている。買った中では一番余分だったのではないかと考えているコーヒー用のポットがやってきた。注ぎ口の直径が数ミリのいかにも繊細な美しい姿をしている、あれである。今までは一般的な形状の電気ケトルで注いでいたのだけれど、当たり前とはいえあまりにも勢いよく出てくるのが明らかにコーヒー向けではない。飲食に対してさほどこだわりが強い方ではないのだけれど、家にいる時間が随分と長くなったことや多少のあこがれもあったので、ポチられた。そしてきた。全体にはステンレス製なのだけれど、持ち手が木製になっており、やけどの不安がない、212キッチンストアなどで売られていそうなちょっとおしゃれな雰囲気を醸し出している子。大体のことを形から入る人間としては、見た目だってそこそこ大事な要素だった。さっそくコーヒーを淹れてみて飲んでいる。美味しい。味が違う、気がする。明らかに、劇的に、異なる点は、ケトルから出る湯の勢いが強すぎるせいなのか、こされずにカップに落ちていったコーヒーの粉が感じられないことだ。これはいい。そういえば、以前通っていたカフェのオーナーが、美味しいコーヒーとはどういったコーヒーなのかを教えてくれた時、冷めても美味しいコーヒー、と言っていたので、冷めるのも待ってみようかとも考える一方でぐいぐい飲んでしまう。夏の間はホットコーヒーはすっかりご無沙汰だったが、気温が下がってきて温かい飲み物にうっとりするようになってきた。

 昨日は全体的にくたばって、布団とスマートフォンがお友達といった、おおよそ横になって動画を見て時々声を出して笑ったりして総括するとだらしがないとしか言いようのない一日だった。合間で『家族最初の日』を読んでいると、クレジット引き落としの場面でぎょっとするような金額、といった日で、伊勢丹でのブルゾンやソファが言及されている。それを読んで私もいくらか、すん、と冷静になり、最近向上していたノートパソコンやソファへの物欲がぐんぐんと減退していったので、動画は大量に見ていたけれども、そうした商品をひたすら眺めるネット上でのウインドウショッピングはなされなかった(これはこれでけっこう妄想が捗って楽しいのだけれども)。

『家族最初の日』で日々つづられている家計簿を眺めていると、日々スーパーに行ったりドンキに行ったり、安売りに敏感なアンテナを張りながら買い物がなされているのがよくわかり、面倒臭がりな私は感心する。でもスーパーがストレス発散の場になっているような旨が書かれていて、なるほど、だった。子育ての赤裸々がつづられている、それは、戦いといってもよかった。むしろ戦いそのものだった。なごやかなことばかりではない。危うい、と感じる場面もあるし、途中、児童相談所に問い合わせたあたりはほんとうに胸が苦しくなった。暗澹たるそうした瞬間の次の週にはちょっと楽になったような日記になっているとほっとする。そうしたことを繰り返している。どれほど切羽詰まっているかを考えてしんどくなるたびに、この本の十年先の未来、『個人的な三ヶ月』の写真を見る。そして、大丈夫、と思ったりする。覗き見している私が、大丈夫、と思うこれは一体どうした立場なのだろう、しかも時間だけはたっぷりあるような贅沢な人間として。




9月16日(木)

 久しぶりに小説を書いていた。そんなにたくさん書いたわけではないけれど、テキストデータの最終更新日が八月になっている小説だったので、ずいぶん離れてしまったなと反省しながら、どうにか。手を動かさない日が続いていた。どんな長さであろうとどんな内容であろうと小説を完結までもっていける方々を尊敬しながら、果たしてこれはほんとうに終わるのだろうかとふつふつ考える。ずっとそう言っている。それから楽器を弾いたり。

 多少精力的に動けたのは、なんとなく『家族最初の日』の文庫版あとがきに目を通したら、え、と息を呑んでしまう部分あり、それは植本一子を既によく知っている方であればもうとうに知られている事実、ではあるのだけれども、『家族最初の日』が始まった二〇一〇年から、二〇二一年の最新作に至るまでの中に、大きな変化が存在していて、しばらく考え込んでしまった。そして動きたい、というか、動かねば、といった前向きな勢いで諸々作業を進めた後、合間を縫ったり夜に一気に読み進めるなどして『家族最初の日』を読み終えた。すべて読んだ後に改めてその後書きを読んだ。書かれている文面は当然ながら変わらずそこに存在していた。まだまだ読み返せそうにない、という植本さんの言葉にしょんもりする。

 私の目の前には二〇二一年の三ヶ月間の日記が置かれているけれども、その間のことごとを知らずにこの本を開いていいものなのか、迷う。もちろん、日記はどこから読んでもいいけれど、人生が過去から未来に向かって進んでいくゆらぎのないベクトルは、創作物で一ページ目から完結までの道のりが存在しているのと同じでもあった。それでも結局、二〇二一年から読むんだろう。手元にある、本の手触りが良い、そうした他愛もない理由で。

 夜、マジバケの続き。トルーナ村の殺パペット事件イベントの終始を見る。何度見ても、この可愛らしいグラフィックのゲームで最初にぶつかるイベントとしてはかなり重い。その間、一回気絶。途中、気絶ゼロを目指してみたいとまた性懲りもなく高度な目標を立てかけたが、レベル上げの最中にアランシアが気絶した時、最後にセーブしてから随分と時間が経っており、それを巻き戻す気力がなかったので気絶に関しては諦めた。こういったあたりの細かいネタを書くにはこの日記は不適であり、そうなるとやっぱりマジバケ用の日記企画の復活、なのだろうなあ。日記というよりはプレイメモといったところだけれども。

 それにしてもレベル上げがなんだかとても楽しい。ゲームの意欲が俄然高まっている。

 そんなこんなで今日は一六日なのだけれど、ついにコロナワクチン接種一回目だ。今の生活を続けていればまず感染リスクはかなり低いけれども、いずれ帰省をするならばワクチンは打っておくに越したことはないし、賃金労働への意欲がないわけではまったくないので(労働にまつわる心境はまた整理したいところではある)今から問診票を書かなければならない。レトルトカレーとゼリーと冷凍ご飯等々の準備はできている。どんな副反応が出るだろう。明日はたぶん、ワクチンについて。


9月17日(金)

 一二時に接種を予約していたコロナワクチン。自転車でいける距離のはずが、何故かGoogleカレンダーに入れていたメモには違う個人医院の名前が入っており、それによると電車を乗り継いでいかなければならないと出ていて少し焦った。たぶん、予約をトライする中で何故か印象深い名前だったんだろうけれども(というほど目立った名前ではない)、電話の履歴から検索しなおすとやっぱり近場だったので安心して向かった。

 院内は同じ時間帯に予約していたであろう人が既に何人か待合室に座っていた。大規模接種センターがベルトコンベアのような流れ作業で接種されていくというのを風の噂でいくつか耳に入れているので、それを少し体感してみたかったような気持ちもあったのだけれど、個人医院でも大概ほとんど流れ作業で、診察室に呼ばれたら特に質問もなく接種された。はい、ちくっとしますよー、はい、終わりですー、といったあっけない速度で、ほぼ痛みなく終えた。体感では十秒も室内にいなかった。

 普段インフルエンザなど打つのと同じように、癖で腰に手を置いて二の腕を出したら、「そんな力入れなくて大丈夫ですよー笑」と医師も看護師もやや嘲笑するように言って少し腹が立ったのは私の器が小さいせいでもあるだろう。そんなつもりじゃないぞ。でもあとで調べたら筋肉注射は腕を下ろしたままのほうが安全とのことで、目から鱗だった。腕を上げると穿刺する地点に神経が近付いてしまうらしい。今年の三月に学会が発表したようだった。今まで当たり前とされていたことを見直すのはいいことだった。しかし、ぼんやりしているとどんどん情報がアップデートされていって置いていかれるというのも身を以て感じる。ちゃんと情報を集めていなかった私の方があかんかったのはわかるけど、どうにもこうにもあの馬鹿だなあみたいな声のトーンが蘇る。そうした些細なことをいちいち気にしてしまったあたり、ちょっと気が立っていた、力が入っていたのだろう。むん。どうどう。

 接種後待機の間、持ってきた『個人的な三ヶ月 にぎやかな季節』を読み進めたけれども、どうやらこの十年分を一気にジャンプするには、私の受け入れ体勢が整っていなかったようだ。二〇二一年に起きている植本さんたちの家族のかたちに、心が追いつけない。その前に、この十年の間に起きたことをやっぱり読むべきなんだと理解する。

 副反応対策に自分を甘やかすあらゆることごと、を用意していたけれども、一回目はそんなに反応は強くないという巷の大半の例からはずれなかったようで、一晩経った今も、運良く、熱はなければ倦怠感もなく、打ったあたりは多少痛いけれども腕が上がらないというほどではない。レトルトカレーはシンクの下に眠ったままで、いつも通り食事を作り、いつも通り食べた。違うことといえば、帰りにコンビニに寄って、ポカリスエットの凍らせたゼリー飲料が大量に用意されているあれはきっとワクチン需要なんだろうなあと横目に見ながら、ご褒美でもなんでもないのだけれどもワクチン接種イベントを終えてなんとなく気が大きくなって買ったクリームぜんざいを夜に食べたくらいのものだった。

 本という気分にならなかったので、無料公開されている『ゴールデンカムイ』を一気読みしようとするが、そんなにすらすらと読めるタイプでもないので休憩を挟みながら進める。前に一巻だけ読んだような記憶があるのだけれどその時はいまいちはまらなくて、改めて読んだらまあ面白い。日露戦争後の話ということもあって、頭をちらつくのは『坂の上の雲』。

 アイヌ料理漫画かと見紛う勢いの食事描写の気合いの入れ方、噂には聴いていたけれども、これは確かに。どれもこれも美味しそうでお腹が鳴りそうになる。しかしアイヌの料理は狩猟と深い関わりあり、なので、特にヒグマとの戦いがやっぱり見ていて恐ろしいものの楽しい。ちょっと布団にごろんと横たわりながらたまに三毛別熊事件をはじめ各地の獣害事件のウィキペディアを読んだりするのだけれど、そのさまを目の当たりにしているような感覚になる漫画描写。熊は恐ろしい。星野道夫さんだって、最期はヒグマだ。けれども、恐ろしいものだからこそどこか怖い物見たさにも似て好奇心をそそられ、畏怖の念を抱く。

 あと土方歳三など重要人物として出てくるのだけれど、このじいさんがまあ、流石に土方とだけあって、めちゃくちゃかっこいいのだ。じいさんに限らず登場人物みんなとても魅力的。

 それにしてもものすごい情報量の漫画で、どれだけ取材、情報収集(特にアイヌ関係)を重ねて描いているのだろうと、想像するだけで果てしなくてくらくらする。それでいてけっこう笑えて、ふんだんに使われている下ネタももはや風物詩じみたことになっている。無料期間は二〇日までだそう。間に合うのか?




9月18日(土)

 冷凍ご飯はいつもラップで包んで保存しているのだけれど、それをレンジで解凍してあつあつの米をほかほかと指先でつまみながら移動させたらすぐにぼとんとラップの中から米のかたまりが滑り落ちて見事に床にぶちまけられた。そんな昨日もありました。

 台風が直撃すると警戒していたら思いのほか晴れている朝。昨日の昼間から夜中にかけてぐんぐんと下がった気圧の影響多大。でも、洗濯物がたまりつつあったから、晴れてくれて有難い。台風のことをぜんぜん考慮してなかった。まだ幼いキャベツなどが、激しい風雨に晒されるのだって怖い。自然に対して、ある程度準備をすることはできても、実際に起きてみないと、何がどうなるかなんてわからない。

 小説を書きながら、この小説は一体読んだ人に対してどうした影響を与えうるのかといった想像にあまり至っていない。創作物に限らずあらゆる報道やSNSに投じられていく言葉も含め、何らかを文字なり絵なり映像なりで表現するということは、それを読んだ/聴いた/見た誰かに何かしらの影響を与え、本人の思わぬところで広がる、という可能性が少なからずあり、そこに無自覚になるのは単純に怖く、何度も何度も自分が愚かしくも繰り返してきたことだ。どう受けとめられるかを完全に掌握することはまず不可能だけれども、その表現を以て何を誰に向けて伝えたいのか、もっと、注意深く、自覚的にならないと、簡単にあらゆることに蓋をして見ないふりをしながら流されていってしまう。

 まったく脈絡がない話がとんとんと置かれているのは頭痛の影響もあるかもしれないしそうでないかもしれない。分散したものを文脈もなにもかも捨てて書くことを許容するのが日記という形態である可能性。明日はもっとまともに文章が書けたらいいな。ところで『ゴールデンカムイ』が面白すぎて読み切れそうな気がしてきた。



9月19日(日)

 昨日は初めてスタバでトッピングを頼んだ。看板に掲げられていたカフェミスト+はちみつ、というものになんとなく惹かれ、レジも特に混んではいなかったので、そもそもカフェミストとは一体なんなのか尋ねると、カフェラテみたいなものらしく、コーヒーに加えるスチームミルクのふわふわした部分を取り除いたもの、といった説明(たぶんもっとちゃんと説明してくれていたんだと思うが忘れてしまった)。カフェラテなどよりもコーヒー感が強い、とお姉さん。なるほどなるほどと。はちみつについて尋ねるとこれはトッピングだそうで無料でしていただけるらしい。スタバでトッピング。慣れ親しんだ人がやるアレだ……とどきどきしながらじゃあそれで、と頼んだのは教えてくれたレジのお姉さんがとても優しくてほどよい明るさの方だったからだった。熱心にコーヒー一杯安くなりますよサービスについても教えてくださった。それは知ってます、と心の中で思いながらも、なんだかお姉さんの笑顔がやはり可愛かったのでふむふむ、と聴いていた。実際に来たカフェミスト+はちみつは当然すぎるのだけれどもごりごりに甘く、コーヒー感はあんまりなかった。コーヒー関係の区別について私はよくわかっていないので先程ちらりと調べたら、比較対象であるカフェラテとの違いはコーヒーにあり、カフェラテはエスプレッソ、カフェミストはドリップコーヒーだそうで、それだと一般的に考えればカフェラテの方がコーヒー感は強い、気がする。まあいいのだった。普段コーヒーはブラックで飲むような人間ではあるけれども、決して甘いものが苦手というわけではないしはちみつは好きだ、だからカフェミスト+はちみつも、予想以上に甘かったけれども味わいながら少しずつ飲んだ。スタバで初めてトッピングを頼んだからといってなにが特別かということもない、のだが、なんかどこかむずがゆい。身の丈に合わぬことをしたような気分。身の丈とは。

 そういうわけで甘いカフェミストを飲みながら恩田陸『ネバーランド』を久しぶりに再読していた。この本は昔から大好きで、何度読んでも、ひりひりとした甘くない青春に引き戻される感じ。なんか迷走している、という時には好きなものに触れるのが一番だと思い、新しい本に行くよりも再読をしたわけだけれども、楽しくてどんどん一気読みしてしまった。舞台化されたりしてほしい。

 畑へ向かうと、周辺でコスモスが一気に咲いていて、桃色の花びらやかぼそい糸がからまるような葉がさわさわと風に大きく揺れていた。空はすっかり高く、台風の気配はどこにもなかった。




9月20日(月)

 先週はすっかりだらけた一週間を送っていた。よく昼寝をしたし、食事もてきとうだったし、全体的に部屋もぐだぐだだし、楽天の通販で届いた商品の段ボールの残骸がたたまれもせずに積み重なっているし、『ゴールデンカムイ』に没頭して止まらないし、いや『ゴールデンカムイ』は悪くないし本当に面白いから仕方ないのだけれどもそれを中心として全てがなし崩しになってしまっているのがなんとも自分としてはやるせない雰囲気。なので今日は生活を整えようと決意する。

 ちょいと用事があり観光地方面へ向かったのだけれど、そういえば連休の中日だったということを電車に乗って思いだした。やたら混んでいてびっくり。すっかり閑散としてしまっていたあちこちの店も昨日はお客さんの入り、景気よさそうだった。インスタ向けのような写真、のれんに手をかけて店へと入っていこうとしている、という瞬間をお互いに撮っているカップル、その行為自体も楽しいしいろんな小さな思い出とかを写真データにしてたくさん作りたいんだろうなあとかぽやぽや斜め後ろの方で見つめる。幸せなのはいいことだけれども後ろ混んでるぞ、とは思う、斜め後ろ。

 もうあと二ヶ月ほどすれば紅葉の季節になる。そうしたらもっと人は増えるんだろう。なんだかなあ、と思わないところはないわけではないのだけれども、私自身も来週は大阪の文フリへの出展を検討しているわけなのだから同じようなものだろう。

 そう、文フリ、に向けて、ぼちぼち準備をせねば、ということで告知文章を書いていた夜。日記本に関して憂鬱が持続していて、出すべきではなかったのではないかとずっと考えている。それでも作ったし、実物がきたら落ち着くのかもしれないけれど、手元にくるのはぎりぎりの予定なので、落ち着けないままだ。これを終えたらなにか楽になれるのだろうか。いや、今でもじゅうぶんに楽をしているのだけれども、ずっと引っかかっていたものが取れるように、解放されるように、落ち着くだろうか。わからない。なんだか、もやもやと身体の中にためこみながら、空回りを続けている感覚。だから今もこれからも、空回りの一つなのだろう。空回りながら、どうにかやっていくしかないんだろう。でも制限をきちんとかけたなかで、楽しかったらいいなと思う。ようやく人の前に、通販でないかたちで差し出せること自体は嬉しい。久しぶりにこうしたイベントに足を運ぶことも。どうなることやら、がくがくとふるえながら、日々。



9月21日(火)

 文フリ大阪と『朝の記録二〇二一夏』、どうにか告知文を仕上げて、通販ページも合わせて公開できたので昨日の私は一〇〇点満点だ。ここに至るのに時間がかかったのは、腰が重かったのは確実に理由としてあるけれども、文章を練り上げるのが大変だったのではなく、ぎりぎりまで日記本の値段を決めあぐねたからだった。私は商人に向いていない。

 でも書き終わって世に出してしまえばとても気分が楽になった。八月三一日までの日記を終え、小説を挿入するかどうかの葛藤をぎりぎりまでやりながら校正作業、編集作業、終わってからも、自己満足の領域を最後まで出られなかったような気がして苛まれ続けた、そうした呪われた心地がずっとまとわりついていて、いよいよ最近は急にアトピーがひどくなってきていた。ずっと空回りを続けていて、ただエネルギーを消費していくだけで、投げた球は放物線を描いてどこにもぶつかることなく回転していき霧の向こうに消えて、落ちた音もしない、心地。けれど実際に球を投げたわけではないから、投げてみるしかないのだった。怯えながら投げてみるしかない。文フリはなにか殻を破るきっかけになるだろうか。

 そうして球を投げてみたら、受けとめられる音が聞こえた。有難いことに早々に予約をいただけて、既に文フリで一冊も手に取られなかったとしてももう大丈夫で、心が引き締まって創作頑張ろうとなっている。あまりにもちょろい。いや、ちょっと嘘をつきました。一冊くらい手に取ってもらえたらいいなあと思ってる。なにもかも、どうなるかわからないけれども、買いに回るのも楽しみなので、つまり、ようやく、ちょっとした浮ついた不安が取り除かれつつあるのだった。

 梨を切って食べながら、昨日は川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』を読み始めた。とても楽しみにしていた新刊。美術館はたまに訪れる程度だけれども、すごく面白い。一緒に美術館を訪れる白鳥さんは盲人なので、声に出して目の前にある作品について話すわけなのだけれども、著者である川内さん、そして友人のマイティさん、時にまた別の友人と、会話をしながら進んでいく。美術館って、あまり声を出してはいけないような厳かな雰囲気もあるので、その場で思ったことを言語化していきながら鑑賞するというだけでも楽しそうだし、そしてなにより、人によって見た印象というのは全然違う、というのが明らかになって面白いのだった。そして、白鳥さん自身も、その絵がどんな絵か、というのを知りたいのではなく、その絵を見た人たちの会話や反応に面白みを感じているという。

「ふたりが混乱している様子が面白い」

 どうやら彼は、作品に関する正しい知識やオフィシャルな解説は求めておらず、「目の前にあるもの」という限られた情報の中で行われる筋書きのない会話こそに興味があるようだった。逆に、作品の背景に精通しているひとが披露する解説は、「一直線に正解にたどり着いてしまってつまらない」と言う。ひとつの作品でもその解釈や見方にはいろんなものがあり、その余白こそがいいらしい。(川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』集英社インターナショナル P.22)

 このころのわたしは、まだ大きな勘違いをしていた。なにしろ白鳥さんは目が見えないのだから、なんだかんだ言っても作品に触れるほうがいいだろうとか、体験型のほうが楽しめるかもしれないと思い込んでいた。しかし、白鳥さん自身は、触れるか触れないかには微塵もこだわりがなく、平面でも映像作品でも彫刻でも関心があれば「いいね、見たい」と微笑んだ。

 ただし興味がないものは「俺はパス!」と言うので、なんでもいいわけでもない。彼の好みを端的に言うならば、作品としては「よくわからないもの」。ジャンルでいえば現代美術である。

「わかりにくさこそが、たまらないんだよねー。むしろわからないほうがいい、なにひとつわからん! 意味があるのかもわからん! くらいが最高」(同上 P.50)

 この本を読みながら、以前読んだ末長幸歩『13歳からのアート思考』を思いだす。本棚を探しても見当たらないので、引越の際に売ったのかもしれない。有名なものからほとんど知られていないものまで、様々なアート作品を中学生・高校生の生徒に見せ、その印象について話し合い、授業を進めていく、といったようなもの。豊かな感性で、思わぬ感想が出てきたりするので読んでいて面白かったし、アートというのは、作者の意図とか時代背景をとっぱらって自由な感性で見ても大丈夫なんだと、鑑賞にインパクトを与えた本だった。

「そのひとがそのひとのままで作品を見たり、作ったりすることが尊いと思うんだ」(同上 P.51)

 これは、マイティさんの発言で、『13歳からのアート思考』を読んで思った自分の印象にも繋がるし、美術に限らず、あらゆる創作という分野で言えることだと思う。正しい知識がないと楽しめない、なんてことはなく、そして正しい見方なんてものもない。まさにそうだ、と私も思う。

 読んでいて、とにかく流れていくみたいで楽しい。美術館にも行きたくなるなあ!



9月22日(水)

 中秋の名月と満月が重なったとのことで夜を楽しみにしていたのだけれど、太陽が落ちて間もない頃ににわか雨が降り始めてコンクリートと雨が反応しあった匂いが地面からたちのぼっていた。夜になっても空は明るかった。雲の輪郭や厚みが遠目にわかるくらい。けれど月がどこにあるかはわからなかった。

 雨が降っている頃、皮膚科の待合室に座っていた。もっと人のいない時間帯にすれば良かったなと後悔しながら待ち時間の間にスーパーへ行って、だんご粉を買いに行く。去年も当日、仕事帰りにスーパーに寄ってだんご粉を買いに行ったのを思いだした。去年はきなこも一緒に買ってきなこで食べた。きなこが家にある覚えがいまいちだった。きなこは好きだけれど去年と同じというのもなんだか味気ないのでみたらしにすることにした。みたらしのタレだったら基本的な調味料と片栗粉さえあれば作れるようだった。うろうろ回って時間を潰すにしてもそうだだっ広いスーパーというわけでもないし、卵が切れていたのを思いだしたけれどすぐに家に帰るわけでもないから生鮮食品は買いづらい。卵はセールで一パック一九〇円になっていたけれどそんなにセールっていう感じの値段でもない。最近卵が高い。卵はあきらめて、帰りにもし思いだしたら買おうかと思い、同時に忘れそうだという予感も濃厚に、だんご粉に加えて、切れかけていた醤油と料理酒と久しぶりにインスタント麺の俺の塩たらこ味。これめちゃくちゃ好きなインスタントなんだけれども、アトピー悪化で皮膚科に行くような人間が食べるべきものではないなというのは思った。

 引越してから通っている皮膚科なのだけれども、優しげな物腰で話しやすいのは有難いのだけれども、あんまり治療に前のめりじゃないというか、ほんとうにただ薬を出すだけ、みたいな感じなのがちょっと物足りなかったりする。実際そんなに重いアトピーでもないからかもしれない。

 基本的には健康体なのだけれど皮膚科だけはいろいろ通っていろんな医師に診てもらって、薬の量ひとつとっても人によってまったく違う。前に行っていたところはものすごい量の塗布薬を出す先生で、なんなら半年分くらいなんじゃないかというくらい量を出す、これだけ出せば文句は出んだろうというような圧すら感じさせる先生だった。でもちゃんと前回と比較しつつ説明をしっかりしてくれていた。いろんなタイプがいるものである。

 診療所を出る頃には太陽は完全に落ちて、雨の匂いがしていた。

 夜中にみたらし団子を作ろうとしたが竹串がないことに気づき、なんだかすこし面倒臭くなって大きめの団子を作り茹でていくとこのあたりが失敗で、サイズが大きいのでなかなか浮かばないうえどこまでじゅうぶんに茹でられているのかいまいちわからないという事態になって結局茹ですぎてちょっとかたくなってしまった。みたらしのタレは、水とみりんと砂糖と醤油と片栗粉、を、小鍋で混ぜて少し煮立たせておしまい。片栗粉がだまだまになった以外は概ね満足。団子が出来上がってもう一度外をみても月の姿は見えないままで、満月なのだし高く昇るのは夜が深くなる頃、と諦めずにいたけれども結局雲の向こうにあるままだった。全体的な雲のぼんやりとした明るさが満月を物語っていた。だから団子を食べ尽くした、あっさりしたしつこくない味、もうちょっと濃くても良かったかも。食べ終わる頃にはすっかりずっしりとした質量が腹へ。げっぷが出そうで出なかった。出たかもしれないけれど覚えていない。

 月にまつわる本でも読もうかと思ったけれども『目の見えない白鳥さんとアートを見る』が面白いので横道に逸れられない。絵を、自分の積み重ねてきたものを通して、あるいは隣にいる人の印象を通して、見る、面白さが、本を通じて伝わってくる面白さ。楽しいなあ。そういえば、人とそうした美術館に行くのなんてもういつ以来していないだろう。マイペースなので一人でうろうろするのが好きだし気を遣わなくて楽ちんだから、というのが大きな理由ではある。でも旅行が一人旅も気の合う誰かとの旅行もどちらもそれぞれ楽しいように、こうしたものも一人で見る楽しさと誰かと見る楽しさはまた別種のものだ。

 深夜、なかなか眠れず、不意に、そろそろ『ブルーピリオド』の新刊がでるんじゃなかったか、と思って確認したら今日発売日だった。Kindleだったら日付線越えたらすぐに買って読めてしまうので布団の中で読んだ。これも美術だ、と読みながら気づいた。懐かしいキャラクターがたくさん出てきて憂え敷く鳴ったり子どもたちの顔や言動にゆらゆらに揺れたり、ううう、と呻き声をあげたくなった、そしてずるい引きで終わった。夜にぼんやり読むには勿体なかったので読み返そう。

 九月、もう少ししたら『三月のライオン』の新刊もくる。続々と好きな漫画の新刊が出てくると嬉しい。

 卵を忘れたと思いだしたのはこの日記を書いている途中でのことだった。やっぱりな!




9月23日(木)

 文フリに向けて準備を進めなければ、と思い必要なものをあぶりだすとぽろぽろと買わなければならないものも出てきて、noteでの『朝の記録二〇二一夏』の試し読みの公開、お品書きの作成、等々、肩に力が入ったまんまで準備。既に怯えているし、慣れないことをしていると大きく消耗する。小説の進みは相変わらずよくない。もう九月も末になるというのに、ずっと足踏みをしている。

 買い出しを兼ねて自転車を走らせ、前日に受診した皮膚科で処方された薬を薬局で受け取った後、すぐに買い物、という気分になれなかったのでカフェに入ってホットのドリップコーヒーを頼むと、席はほとんど空いていなかった。誰かと喋るというよりは一人で勉強したり仕事したりする用、のような、巨大なテーブルを数人で共有するタイプの席について、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』続きを読もうと本を出す。

 右隣に座っている人は文庫本を読んでいて、左隣に座っている人はパソコンを二台出して本格的なノマド仕事モードで取り組んでいる。心の中でお疲れ様ですと呟いた。テーブルは透明なパーテーションで一人分ずつ区切られており、向かい側に座っている人の様子もなんとなくうかがえて、語学勉強をしている人、本を読んでいる人、パソコンに向かい合っている人、iPadに絵を描いている様子の人、と多種多様で、あんまり観察するのも趣味が悪いのだが、つい目を走らせてしまう。

 続きを読み始めた白鳥さんが依然として面白くて、コーヒーを飲みきるまでに随分と進み、読み切ってしまうのも勿体ないので途中で止める。目が見えるからといって見えているとは限らない、という話がほんとそう、と思うばかりで、それはほんとうの視覚的な意味に限らずあらゆるものごとに対してそうで、その人の知識とか経験によってバイアスがかかったりまったく知らない領域があったりして、見落としたり誤って捉えてしまったりする。視覚的な意味でも、色覚の差異や、バイアスや、光の加減、意識の集中、等々、様々な要因によって、見えるものがきちんと見えているとは限らず、そして人によって見えているものは違う。それをコミュニケーションを通じて深めていくのが実体的ですごくいい。奈良の興福寺の仏像の見物もほんとうに面白かった。千手観音が、まさかそんな親しげな境地に辿り着くとは! 思いついたこと、見えることを声に出して伝え合うことで、当初からは考えられない、一人では到底辿り着けない本質的な正体に近付く、なんて面白いんだろう。文章が整理されていて滞りなく読めるし、実際のアート作品の写真も載せられているから、自分も白鳥さんたちと同じ場所に立っているような感じで楽しめてきている。

 読みながら、視覚に対する興味はずっと強いままなんだな、と思う。見るという行為のあやうさ、面白さ。

 色や目、光、絵に対する興味がまた育っていったせいか、夜は少しだけ絵を描いた。文章が全然進まなくても、他になにか作るものがあって、自分を支えるものが存在している。なにかひとつだけでは、弱いし、それでは自分の性分に合っていないのだろう。手を離したり、また手を出したり、浮いては沈むようなことを繰り返していくのだろう。



9月24日(金)

 三八度八分の発熱、という夢を見て、あまりにも不吉で起きてしばらくげっそり。しかも、ハロワに行った先で検温がなされたら発覚、という、夢らしからぬいろいろと生々しさ。実際はハロワに行ったところで検温は行われないし、夢の中でのハロワは妙に広々とした空間で普段行っているところとは違ったのだけれど、一人称としてハロワだと認識していたからハロワだったし、一人一人におでこに当てて検温する非接触型の検温がされていた。そして三八度八分だった。いそいそと帰って駅のホームへ向かうエスカレーターに乗って電車に揺られて帰宅して夢の中でも横たわった。起きてから熱をはかるといつも通り紛うことなき平熱だった。潜在意識にある恐れ、が表出したような凝縮したようでいやな感じだ。

 おととい、百均などへ買い出しに行ったにも関わらずカフェに行っただけで実は百均に行かなかった。なぜならばカフェを出た矢先雨が降り始めて、雨脚としては強烈で、自転車に乗っていて傘すらなかったのですぐに全身が濡れてしまい百均どころではなくなってしまったからだった。

 よく晴れた昨日は祝日、夏にも負けず劣らずな暑さで、気温の落ち着いた夕方になって改めて買い出しに出かけた。表の商品棚はすっかりハロウィンに向けたディスプレイなので、オレンジや紫の原色がちかちかと目に入る。少し入れば今のご時世らしく、除菌グッズ系が並ぶ。種類も数もかなりのもので、私が眺めている間にもいくつか買われていった。百均のこうしたものはちゃんと効果があるんだろうかと、裏面を読む。一番わかりやすいのはエタノールの度数。一番高くても六二%。やらないよりはましだろうけれども、ウイルスに対していえば七〇%はないと十分に意味をなさないだろう。ものによっては度数が表記されていなくて怪しい。それでも堂々と陳列されているのを見ると、騙しにかかってるみたいに思えてしまう。同じようなことが店先に設置された噴霧式のエタノールでもたまに思う。明らかにエタノールが少ないと臭いでわかってしまい、うーん無意味。そういうわけで、百均のエタノール類は見るだけとなり、他の必要なものをかごに入れていく。一番悩んだのは、飛沫防止用のパーテーションをどうするか、ということだった。コロナ禍でのイベントを既に終えた先人たちのレポを見ていると、百均を駆使して手作りで作った方もおられ、それを参考に(ありがたい)最終的にはDIYを決めた。つっぱり棒を二本、棒を接着させ固定するためのブックエンド二つ、そして肝心のパーテーション部分は、ラッピング用の透明なシート。アクリル板とまではいかずとも、大きめの透明なビニールがないかと探したが、これが限界だった。

 帰宅後、早速DIY。家にあるガムテープなど使って作ると、案外つっぱり棒はきちんと固定され、ブックエンドになにか重石になるものを置けばそう倒れることはなさそうだ。四〇センチ×五〇センチのラッピングシートは当然ぺらぺらとしていて頼りないといえば頼りなく、果たしてこれは意味があるのか? と疑ってしまうが、もう少し大きめにしたいとなれば付け足せばいいし、結局のところ、ないよりはマシ、という精神的な類かもしれない。あの除菌商品と同様に。とりあえずどうにかなりそうな見た目で満足。アクリル板と比べてのメリットは、価格の他、収納の場所をとらず、持っていくにも邪魔にならないところも良い。工夫を共有してくださっている先人に感謝。

 夜、少しだけ白鳥さんの続き。優生思想についての話。「ほとんどのひとになんらかのレベルの優生思想はあるんじゃないかと思う」と言う白鳥さん。諦めたように、ではなくて、世間話のような口調、らしかったから、きっと毅然としたものが彼のなかにあるのだろう。私自身もそうだろう、とても、無い、と断言はできない、そうした自覚があり、自分にある思想に時に流され、時に拒み、ここまできている。そして誰もに、大なり小なり、存在している。目の見えない白鳥さんの中にもあるという。

 障害があることによって、不向きなことがある。障害があっても、できることがある。健常者でも、向き不向きは存在し、できることはできるし、できないことはできない。お互い、不得意な分野は確実に存在する。できない、からといって、この人は駄目、と烙印を押すんじゃなく、できなくても全然いい、とおおらかになる、許容する、それは今、私が自分に求めているひとつなのだと思う。競争社会にそまり、できないでいると心ない言葉を浴びせられる様子をまざまざと見てきた中で、できることを目指して、そして自分も、できない人に対してどうしてだ、ともどかしい思いに駆られ時に苛立ちがそのまま表出する。そして反省する。難しい。そういうのは健常者同士でも確かに存在している。たくさん、たくさん。

 芋づる式に思いだしてしんどくなってきたので、今日はここらで。



9月25日(土)

 秋冬野菜が基本的にはすくすくと育っている中、ほうれん草だけがなかなか芽が出ない。ほうれん草は本来冬の野菜なので、まだ気温が高いため発芽は難しいのかもしれない。ようやく出た、といった芽も虫に少し食べられてしまったのか弱々しく子葉がしなり、土の上に寝転がっていた。なので、種をもう一度蒔き直した。来るたびに、相変わらず、白茄子とピーマンなど。茄子はそろそろ終わり。人生で、こんなにも茄子とピーマンを食べた一夏はなかったというくらいよく食べた。子どものころ、というか、大学生になるあたりまで、この二つはずっと苦手だった。大人になると食の嗜好が変わるというけれども、私の場合は大抵の場合食わず嫌いで、地元を出て一人暮らしをするようになってからスーパーで安売りされている野菜を優先して買ったり、人との食事の内容が明らかに変容したりすると、自然と好き嫌いは改善されていった。

 苦手な食べもので印象深いのはかぶだ。実家ではほとんど出たことがないのだけれど、小さい頃、おばあちゃんちで味噌汁に入って出てきた。味噌汁の味にかぶの味がぐんと沁みていて、今なら美味しい、といえるのだけれども、当時の私にはなにか味噌汁であって味噌汁でははない、明らかに味の違う、異様な食べもののように思われて、それは私にとっての味噌汁の概念を覆すような体験で、食べることができなかった。その時、「こんなに美味しいのに」とおばあちゃんが残念そうに言って啜っていたことを強烈に覚えている。あの味噌汁は結局どうしたのだろう。親が食べたのだろうか。

 夏の間はできるだけコンロを使いたくなくて、レンジを駆使して一回分ずつ作っていた味噌汁も、暑さが和らいだ今はたくさんの具材を放り込んで、味噌を投じる前に最早煮込んでいる、というくらいしっかりと火を通しているから、味噌以外にいろんな味が汁に混ざっている。昨日は白茄子にピーマン(緑も赤も)、にんじんにえのき、仕上げにわかめと青ネギ、と何がなんだかよくわからないような味噌汁。味噌汁の味は実家の味だとか家庭の味だとかいう話を聞くけれども、実家では白茄子もピーマンもにんじんも入っているところを見たことがない(記憶の限りでは)ので、全然、家庭の味ではないと思う。かぶの味が沁みた味噌汁にぷーぷー不満を垂らしていた人間も、随分雑食となり、なんならわかめが入っていたら大抵美味しい、というくらい舌が適当になっている気がする。そのくらいが生存にはちょうどいいだろう。

 夜に『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』を読み終えた。単なる盲人の方との美術鑑賞という枠にとどまらず、もっとおおらかに想像の広がる本だった。映画の話題も出てくるが、まさに全体にドキュメンタリー映画でも見ているような感覚だった。アート作品や、その場にいた人たちの会話が入っていることで、立体的な臨場感があるのだ。そして、出てくる人たちの、気持ちのいいくらいのさっぱりした態度が、全体的にこの本の少し重たい部分も含めて軽妙にしつつ、どこに転がっていくのかわからないエンターテイメント的面白さも生み出している感じがする。しかし、とても深い。思わず立ち止まらざるをえない、鋭い指摘も入る。わたしは、きっと、決めつけでかかって、たくさんの大事なことをこぼしながら生きてきたんだろうな、と本を通して思う。かつてたくさんあった食わず嫌いと同じようなものかもしれない。

 みんな、この世界で笑いたいのだ。苦しかったり、もうなにもかもどうでもよくなったりすることがあっても、この世界で笑っていたいのだ。




9月26日(日)

 小説でとっているスペースなのに新刊が日記とはいかがなものか、というのはずっとくすぶっていて、だからこそ日記と小説を合わせて一冊にするという手を一時は考えたけれども断念し、ずっと小説の進行が悪いし書こうと思っても書けるのならば苦労せえへんわとまあまあ諦めていたのだけれども、昨日になってやっぱりせめてフリーペーパー用に小説を書きたい思いが高まって書き始めた。お昼を食べてから書き始めたので昼間の時点で〇字で、二〇〇〇字くらいの掌編小説にするつもりが気付いたら七〇〇〇字近くまで書いていた。

 というところで朝は終わった。朝はばたついていた。今、既に文フリは開催されていて、入る前の胃がきりきりした不安はずいぶんと緩和された。ありがたいことに何冊か迎えられていってなんというか率直に泣きそう。小説スペースなので『どこかの汽水域』が人気です。最終的に推敲して印刷するのに深夜二時くらいまでかかったフリーペーパーも手にとられていっています(ほんとうに作ってよかったありがとう昨日の自分)。どうなるかと思った日記本もぽつりぽつりと出ています。それから、嬉しいお言葉をいただいたり、少しだけこみいったような話をしたり、頭が真っ白になりそうになりながら、口から出てくる言葉がどれもこれも拙くて申し訳なくなるくらい。ありがたいです。すごく、小説を書こう!! というエネルギーが出てきてます。今日のことは、明日以降詳細に書きたい。



9月27日(月)

 文フリ大阪、大きなトラブルなく終了。

 設営準備を手伝うまではいかなかったけれども、早めに動いた(おかげで一駅乗り過ごしたけれども余裕で間に合った)ので落ち着いて設営できた。カンボジアに旅行に行った際、可愛らしいお姉さんが店番をしていた布屋で買った美しいグラデーションの布を敷きたかったというのはずっと考えていたことだったので、達成されて良かった。飛沫防止用の簡易パーテーションは、一通りぐるりと回っても施しているブースは少数派だった。頒布物が少ないからできたことなのかもしれない。イベントに参加すること自体があまりにも久しぶりで、コロナが流行って以降は初だったので、どのような感染対策がスタンダードなのかいまいちよくわからない。

 開会して以降、文フリ大阪には何度か足を運んでいるけれども、やっぱりどこかまばらな感じはあるものの、たくさんの人がいて賑わっていた。お隣の方がものすごく積極的に無料配布を渡されていて、ああそういうふうに声をかけていかないといけないのか、と思って多少まねしてみたけれども完全コピーは人見知りにはハードルが高すぎた。あの声をかけるタイミングって難しい。

 はじめて一冊くださいと言われた瞬間、その五百円玉、がとても特別な硬貨になった。名前も顔も知らない人たちが立ち寄ってくれて、中には気になっていましたと言ってくださる方もいた。席をはずして、戻ってきたらすぐに、買いに来て、待たせてしまったのかな、と思いながら、待ってくださったこともありがたかった。立ち読みがなされて、最終的には手に取られなかったことももちろんたくさんあったし、離れたけれどもまた戻ってきて買っていってくださった方もおられた。誰も前を通らなかかったり立ち止まらない時間が長いと不安が湧いたりもした。いろんな感情に支配されていた。少し席を外して他のスペースを見に行ったりもしたけれども、後でTwitterを見るといろんなこぼしものがあったんだなあと思う。一人参加だったのでじっくり回るのは難しいとはわかっていたけれども、もっと見て回る時間は長くても良かったかもしれない。午後が深まってくると随分人も少なくなっていたので。一人参加の難しさ。

 来てくれた方の中に、朝の記録について、小説について、いろいろと話してくださった方がおられた。どうして朝の記録を始めたのか、どうして続けられるのか。その方は日記を長く続けていたけれども、これからもずっと書き続けていくんだと思うとプレッシャーを感じて怖くなった、と言っておられて、そういう感情になることはないか、と言われて、私はあまり考えたことがなかった。なんだかんだで書くことが好きなのかもしれません、と言ったけれども、その好き、というのは、使いやすい言葉だから使っただけで、ほんとうに私は書くのが好きなのかどうか、わからないし、言いながらも絶対もっと違う言葉があるはずだと確信していた。それなのに安易に好きという言葉を使ってしまった。好きってなんだろう、とすら思うのに。いや、書くのが好きなのはたぶん間違いないけれども、既に違うものに変容している気もしていて、他に出てこなくて、その方が離れてからも、そのことについてずっと考えていた、夜になっても。

 この日記をその方が読んでおられるかはわからないけれども、一応書いておきたい、自分のためにも。

 くねくね考えていたんですが、ようやく、好き、よりも自分の感覚に近い感覚が見つかりました。文しか残らなかったのだと思います。狭いなりにいろんなことに手を出してきたけれども、結局、文しか残らなかった。嫌な言い方をすれば、余り物みたいなもの。余ったんです。余ったから、好きなんだろうな、と結果論として考えている。書くのなんて、たいてい苦しい。産むのは大なり小なり苦しみが伴うと思います。それでも時に、がちっと文章がはまった、とか、推敲でめっちゃ良くなった、とか、ものすごく筆が乗った、とか、書きたいところが書けた、とか、完結した、とか、読んでいただけた、とか、節々で喜びが生じる、麻薬みたいなところもある。私は自分で文章を書く行為にたくさん助けられることがあり、現実でしんどい時の逃避先になったひとつが創作で、文章は自分自身から乖離しすぎない言葉を吐き出せて、ああ、私は私が生きていくのに文が必要なんだろうな、と思っている。だからこの先ずっと書いていくことにも今のところためらいがない。それがなんの意味をなさずとも、そこにたいした価値がなくとも。でも、書けない時なんて、誰にでもあります。私もしょっちゅう書けません。小説なんてまさにそうです。書きかけの物語が待ち続けています。もう手遅れかもな、と思うこともあります。無理をする必要はないし、また書きたいときに書いたらよくて、でも、書きたい、という気持ちが少しでもあるのなら、私は書きましょ、と思います。書かなければ、というのは義務感で、義務感は時に流れを堰き止めるので、つらくなる。書きたいから書くのか、書かなければならないから書くのか、天秤にかけて、後者が明らかに重いのであれば少し休んで、また書きたいな、と思った時に戻ってこればいいんじゃないかな、という気がします。人は、決して他人の文章を書くことはできないから、自分の物語を、かたちにしたいのならば、一歩ずつ進んでいくしか、道はない。それはもう紛れもない事実です。けれど、プレッシャーを自分にかけるのは、しんどいです。なので、肩の力を抜いて、文がしんどいなら文とまったく関係ないことをして、また書きたい時に戻ってきたらいいんじゃないか。プロならば仕事なのでどんな状態であれ作品を世に出さなければならないけれども、アマチュアはそんなことないのだから。

 たぶん、既にずっとそうして小説を書いたり日記を書いたり続けていられるということは、じゅうぶん、文を書くの好きなんだろうな、と思います。苦しいと、そういうふうに思えないかもしれないけれど。間違いなくそうやと思います。少なくとも私はそう言い切れます。いや、人の感覚なんて、他人がそう断じるなんて、ありえないけれども、好きとは、複雑だと思います。わかりやすい感情とは限らないです。そして、繊細です。そしてそれぞれ、個人の中にしかありません。だから私がここに書いていることはまるごとまとはずれかもしれません。それを理解するには、あまりにも時間もなにもかもありませんでした。少なくとも私から間違いなく言えるのは、しんどくない程度に、絶対に無理しないで、それでいつかまた書けるときに書いてほしいな、と、ほんとうに思うし、応援している。偉そうなことを書いてしまっている気がする。あの場でも、なんとか、適切な言葉を探そうとして、ほんとうに上から目線みたいな偉そうなアドバイスぶったことを言ってしまって、バカタレ-!!!とそのときの私をひっぱたきたい。ただ、私は、最終的には、お互いまあ無理のない程度に書いていきましょう、ということです。なんか、元気がなさそうだったので、もっと元気になってほしいな、と思ったんだけれども、私自身も基本的に全然元気ではない人間なので、手に取られていった本がなにか励ましなり力なりになってくれたらいいなあ。もうそれはその先の話です。逆効果だったらどうぞ忘れてください。ぶっちゃけ書くことにこだわらずとも人間楽しく生きていけると思いますが、それでもなにかを書こうとしている、作ろうとしているすべての人がいとおしくて同時に尊敬しています。

 と、ながながとなってしまった。

 他、いろいろと個人的に考えさせられるところはたくさんあって、反省に関してはこうした表向けのところではなく自分の内側で、忘れないうちにやろうと思う。もう、日記もずいぶん長くなってきたので。

 しかし、どうもほんとうに気が張っていたみたいで、帰りの電車で、楽しさと弱気、疲労に安堵、ポジティブとネガティブがはげしくいりまじってぼろぼろと号泣した。慣れないことをするのはけっこう大変で、ほんとうに目の前のことしか見えてなかったし、ひとつひとつほんとうに嬉しいことや、優しいひとに恵まれて、その一方で楽しさを楽しさとして純粋に許容できる心の余裕に欠けていた。これまで、なにをしているんだろうと考えることも多々あって、それでも踏ん張って外に向けてネットでの宣伝なり実際の声かけなりしたけれども、ああそれは弱気で内向的な自分が得意とする分野でないんだなあというのがよくよくわかった。外向的に頑張ろうとして(そして空回りして)疲れて泣くほどならばそれは明らかに良くない(単に慣れていないだけかもしれないけれど)。もっと大切で本質的なことに目を向けたいな、と思う。隣のブースの人がとても優しくて京都の文フリに出るそうで、私はどうしようか迷っていたんだけれども、出ると思う。それに向けて、しばらくゼロ地点にかえって、自分が楽に、弱気なままでいながら楽しめる、弱気なままでいながら他者と交わり、書き続けていられる、そんな境界を模索していきたいな、と思う文フリ大阪でした。手に取ってくださった誰かのもとで楽しい瞬間がありますように。はー! つかれた! ほんとうにお疲れ様でした!



9月28日(火)

 文フリの反動、持続中。楽しくていっぱい喋った飲み会の後とか、感情がたかぶったところから通常に戻った落差に疲労が重なっていつも鬱々とした気持ちになる。それと似ている。でも、どうも身体的にもひびが入っていたのが、ついに音もなく疲労骨折したかのように、現在がったがた。昨日、朝ごはん食べないままで、百均が開店する時間めがけて朝から出かけて、梱包材を買って、外で梱包作業の続きをして、予約分をまとめて発送。匿名発送なのでこちら側に一切の個人情報は伝わっていないけれども、日本全国どこかにとんでいくのが面白い。来ましたよー、と声をかけてくださる方の中には、簡単な所在をプロフィールに書かれている人もいる。鹿児島とか、岩手とか。鹿児島には行ったことがない。コロナが明けたら鹿児島に旅行しようよ、と、去年のどこかのオンライン通話で話していた。砂風呂に入ったり、桜島を見に行ったり。砂風呂に魅力を感じるのは、三月のライオンでその姿が描写されていたからだ。ひなちゃんたちが砂風呂に入って身動きとれずに顔をまっかにしていた。三月のライオンの最新刊は二九日発売だ。もしかしたら今日のうちに並んでいるところもあるかもしれない。楽しみでしょうがない。引越の際に、本格的に漫画を電子書籍に移行しようと思ってほとんどの漫画を売ったが、紙で読みたい漫画もあり、三月のライオンは迷うことなく今も本棚の中に収められている。

 なんの話をしていたか思いだそうとして最初をたどる。そう、身体が粉砕状態なこと。発送したら、昼ご飯にうどん。昨日の日中はやたらと日光が強くて暑かったので冷うどんをすすった。文フリ終わった直後も食べたのはうどんだった。他のなにもかもを身体が拒んでいて、寝ればすぐに戻るはずが、未だにがったがた。夜に至っては、文章を書くのに必死で、食べるのをついに忘れる。気が付くと二二時を超えていた。びっくりして、またうどんを茹でようか迷い、梨をかじった。三個で一五〇円だった、おつとめ品の二十世紀梨。梨って種類によって味も食感もまったく違うんだなと今さら理解。幸水の方が甘みが強くて好き。しかし、さすがにぼちぼちまともな食事に戻していきたい。食が崩れると、身体も戻らない。

 止まっていたら何もしなさそうで、ぼんやりしていたらずっとお金と創作の接続について考えてしまいそうで、離れたかったので何故だかハロワに行く。明らかに体調が悪そうな人みたいに映ったようで、たいへん気を遣われる。求人とか見ていてもまったくもってぴんと来ず、目が文字のうえを滑るばかりだったので早々に出ていった。かばんの中には文フリで買った本が入っていた。でも本を読む力もなく、映画もいいかもしれない、と思ったけれど、やめて、畑へ向かった。白茄子をひとつ収穫。他に人おらず、しばしぼんやりする。マリーゴールドを少しだけつんで、家に帰ってから小ぶりな花瓶に挿した。鮮やかで力強いオレンジ。

 身体的にも精神的にも崩れやすいあらゆる要因が重なってしまっただけなので、時間経過と共に自然治癒していくものとわかっている。ゆっくりとまた戻っていくのを、水にたゆたうように、待つしかない。




9月29日(水)

 少しずつ食事をまともにしたい、というようなことを書いていた昨日。文フリの疲労、気圧低下に加えて悲報。ここ数日、精神がかなりぶれていた理由の根底にホルモンバランスの崩れがあり、周期的に予測すればそろそろとは分かっており、昨日、やってきました。赤黒い姿。個人的使徒到来。気分的には、シンジくんの「笑えばいいと思うよ」の時に倒した使徒、ドリルのように地下を進んでいきネルフ本部に侵入しようとした、あの、真っ赤なドリルの感覚。腹痛が増していき、腹部に抱き枕を当てて布団に横たわる。そこからは、なんだかうまく思い出せない。Youtubeの、長い長い、マインクラフトの配信アーカイブを観て気を紛らわせていた。こういうときに動画はありがたい。それも、ほぼ物語性のない、けれど人の声は聞こえる長い作業動画がちょうどいい。なにも考えなくていいし、ぼんやりとしているうちに眠たくなって現実と夢と動画の間を行き来する。痛みや怠さが分散すればなんでもいい。ゲームや本や映画などのように、自分の意識も余儀なく動かされる、能動的な作業ではなく、完全に受動的なものがこの世にあるとほんとうに助かる。

 そうした苦しみのなかで、自分の生活を豊かにするとか、ゆとりをもつとか、丁寧なくらし、の類は、そもそもある程度の余裕がある状態だからこそ可能なんだなと気付く。いや、丁寧なくらし、をなにもかも妬むのではない。あれは、それぞれなにか自分を律する軸のようなものが存在し、背筋を伸ばしながらやっている人たちを尊敬している。でも、余裕がなかったらもうそんなゆとりとか豊かとか言っていられなかった。余裕は、身体や精神や金銭やいろんなものがあると思うけれども、それらすべてに余裕がある、あるいはどこかに余裕がなくともそれを補うだけの他の余裕がある、という状態は、なかなか既に恵まれているな、と思いながら、つまり自分もそれなりに恵まれているだろう。みんな恵まれればいい。余白はあってしかるべきだ。じゃないと、窒息する。

 それはそうとして、昨日の私には他に気を回すだけの身体的な余裕はまったく存在しなかった。朝うどん、昼うどん、夜二十世紀梨。でも、夕方あたりになると少しずつ活動できるようになってきて、朝一で回した洗濯をようやく干すだけの力が生まれた。ちょっと臭くなっていたし、夜中も干すのは嫌だけれども、干した。そして布団に

戻り、しばらくぼんやりした後、文フリ終わって以降まったく開く気すらほとんど起きなかったソシャゲを起動し(ログインだけはしていた)、あんすたで六周年のもろもろキャンペーンが開催されておりあまりの情報量に目眩を起こしながら、推しを引くためにガチャを引いたら推しがきた。妄想ドールハウスの高峯翠、☆5。これをずっと待っていたんだと感極まりながら嬉しさが有り余ってまた気分が悪くなった。推しは命を救うが、同時に命を削ってくる。

 夜、鎮痛剤が十分効いて腹痛も鎮まった状態で、少しずつ元気が出てきたのは、夜になって通販発送した『朝の記録二〇二一夏』の到着のご報告が届き始めたからでもあった。いつだって、誰かのもとに自分の本があるのはほんとうに嬉しい。これはWeb上にはない、物理的な魅力だ。私が自分の文章を本にするのは、自分のためではあるのだけれども、誰かの手元にある光景がどうしようもなく美しいと思うからだ。けれどそれは手に取られていかなければ成り立たない光景であるから、やはり、とてつもなく恵まれているのだ。手に取られた先でなにを受けとめられるかはわからない。特に今回は日記だし、しかもほんとうに平凡なので、小説のように最初から最後まで丁寧に読み通すようなしろものでもないし、まあ、好きに読まれていったらいいな、と思う。私も好きに書いているので。二〇二一夏、としてまるでいつ続編をつくってもよさげな題名にしたけれども、今のところ、続きを作ろうという気持ちにはあまりなれない。日記を本にするという私にとってのひとつの目標は、憧れは、達成された。それに何人かの方が手を上げてくださった。その時点で十分に満たされた。文フリに参加して余計にその思いは強くなった。だからきっとここが終点な気がする。もちろん、いつでも心変わりする可能性、あるけれど。てきとう。

 文フリをはじめ、今後のことについて考えた。今回参加した純文学という場について、今後どうしていきたいかについて。小説スペースで出て、『どこかの汽水域』が思っていた以上に奮闘した。この本は、私が考えている以上に、もっと波及していけるかもしれない。少しずつ、少しずつ。わからないけれど。だから、もっとこの本が、届くかもしれない誰かに届くように、適した世界にいたい、と思う。もちろん、この後に書いていくものも。大事なのは、そうしたことだ。自分の文章が秀でているとは考えられないけれども、無理なく好きなように文章を書き続けていようと思うのなら、いろいろと諦めがつく。そうするとまた見えてくる世界あり、今、わりと視界がクリア。諦めというと言葉が悪いかもしれないけれど、こだわっていると逆に視界が狭まるので、もっと、大事なところにフォーカスされていって、削ぎ落とされている。元気を少しとりもどしたのかもしれない(生理二日目なので身体的にはかなりしんどいはずだけど)。

 なので、文フリ、参加して良かったんだろう。

 なんてことを考えながら眠ったら、今日は夢を見た。自分は大学生だけれども、新学期始まって以来学校にいかず、実家で半年ほどずっと過ごしていた。そして、親のなんらかの一言(内容は忘れた)をきっかけにそれなら出ていくわと喧嘩腰で、地元を出て、下宿先に戻り、大学はテストが近付いていてまったく授業に出ていないし過去問の伝もないしどうしようと思っていたら優しい友人がいて久しぶりにたくさん話して一緒に授業に行って、いろんなことがぽんぽんと、自分が心配しているよりもずっとなんだかスムーズにいって、現実そんなうまくいくわけないんだけれども、なんだか前に進んだという話だった。それはファンタジーというよりはかなり現実に近い質感だったので、目が覚めてもどこかまだ学生気分だったが、とうに学生を終えており、今、半年ほど職を辞していても、特に試験だとかそういう迫り来るものは存在しない。なんか、おもろいことしたいな、と思う。おもろくて、なにか、世界をほんのすこしゆさぶるようなこと。能動的に立ち止まりながらも、流動的になること。頑張りすぎずにいること。自分ひとりではできないことなら、誰かとともに。




9月30日(木)

 朝起きたら、一方的に見させてもらっているだけなのだけれど、作家の中村菜月さんの出産のおしらせがあり、反射的に、喜びが派手な花火みたいに次々とはじけた。赤ちゃん、通称ごきげんちゃんがおなかの中ですこしずつ大きくなって動き出している様子などを、こっそりと日記で追っていたので、あまりにも感慨深くてこちらまで泣きそうだった。中村さんを見ていると、川上未映子の『夏物語』の夏子たちを思いだす。最終章の、怒濤の、一気に坂をかけあがっていくような描写の渦を、流れを、光を思いだす。うまれてくる子どもも、うんだお母さんも、これからいろんなたいへんなことあるだろうけれども、健やかに道を進まれていったらいい、と影ながら思う。ほんとう。出産って、誰であろうと、無条件に嬉しくなる、生物の奇跡。もちろん、それを選ぶことが正しいとか最善だとかいう話ではなく、あくまでもひとつのラヴのかたちだけれども、もう、すごいなあ、すごい、すごい、おつかれさまです、よかった、すごい、とロボットのように言葉を並べていくことしかできない。朝から嬉しい。

 昨日は生理二日目で、個人差はあれど私の場合たいてい二日目にずどんとしんどくなるのだけれども、今回は初日があまりにも酷かったせいか、二日目は逆にむしろ穏やかだった。出かけよう、という気になれたからだ。『3月のライオン』を買いに行きたかったし、メリーゴーランド京都で開催されている坂口恭平の展示も昨日までだったから観に行ってみたかった。平日だし、午前中ならばいくらなんでも人は少ないであろうと思い、日記を書き上げて、朝ご飯代わりに梨を切って食べて、外に出た。

 彼のパステル原画を目にするのは初めてだった。夏の日々だろうか、あざやかな青空に白い雲のコントラストが、しかしやわらかく目を通り抜けていく。凪いだ水面の描写がとても好きだった。少し濁った水面に、ぼやけた雲が映る、草が揺れる、光が照る。水が一面に張られた田圃の風景とか、遮蔽物のない、どこまでも奥行きを感じさせる素直な絵に、彼が見る世界の愛情を感じる。私たちは生きているだけでだいじょうぶ、と肯定されているよう。

 確か、奈良で私営図書館ルチャ・リブロをされている青木さんが、鹿児島か熊本かとにかく九州を訪れたときに、九州はパノラマだと書いていたように記憶している。ルチャ・リブロは背の高い木々に囲まれた日当たりの悪い場所に建っており、僕らはそうした場所が性に合っている、という話。私にとって九州で思い出が深いのは長崎で、長崎は遠目からすると崖のような斜面に住居が次々と建っていたりする坂の町で、更に長崎といえば地形からして非常に入り組んでいるので、パノラマ、という印象はあまり抱いていなかったのだけれども、なるほど、これが九州のパノラマの一部か、と絵で納得する。

 せっかくなので坂口恭平の本でも久しぶりに読もうかなあと本を立ち読みしていたのだけれども、いかんせん私の方の体調がまったくもって万全ではないので、目が字の上を滑る滑る。新刊の『土になる』とか『躁鬱大学』とか、気になっているものはあるのだけれども、どうも心身の反応が鈍かった。

 つい最近もおぱんつ君の展示のためにメリーゴーランドに来た。その時には見かけなかった(もしかしたら置いていたかもしれないけれど気付かなかった)『ぼくは川のように話す』という絵本が、噂には聞いていたのだけれども、めっちゃくちゃ良くて、そこに描かれている光や人や言葉、川の描写、吃音をめぐる文のひとつひとつ、こちらの方がなぜか今回の展示とも深い部分で繋がっているように感じたので、絵本を買うことにした。流動に身を任せている。

 そして、前回来た時には植本一子さんの二〇二一年の日記を買い、その前に一〇年以上前の最初期の日記を読んで、二〇二一年に飛ぼうとしてこれはいかんと踏み留まったので、店主さんに植本さんの今までの日記はないですか、と尋ねたところ、二冊と、そしてフェルメールの絵を撮影して回ったという本が奥から出されてきた。悩んで、赤が印象的な『家族最後の日』を買わせていただいた。先に読んだ『家族最初の日』と『家族最後の日』の間には『かなわない』があるはずで、それは3月のライオンの新刊を買う時に一緒に買おうかなと決めた。

 河原町の方へ足を進め、丸善に入って無事『3月のライオン』と『かなわない』と、その他またもぽいぽいと気になる本を手に取る。読めない体調のくせに。

 そして久しぶりにうどん以外のものを食べたいと思ったのだけれど、目に入るのはラーメンとかステーキとか牛丼とか天ぷらとかカツとか、とにかく身体が元気なひと向けなものばかりで、もっと体調が微妙に悪いひと向けの優しい食事はないのか、弱った人間にはうどんしかないのか、おかゆとかないんだろうか、と勝手に力無く憤りつつも、元気がない人はこんな繁華街を歩くわけがないのだから当たり前だった。自己完結。しょんぼりと歩きつづけているとどんどん苦しくなって、それでもうどんに抗うように鎌倉パスタに入って、たらこパスタなら食べられるような気がしたのであっさりとしていそうな醤油バターを選んだ。やりいかが使われたもので、たらこもいかも、トッピングの大葉も、和風の醤油バター味もとても美味しく、量もさほど多くはなかったので無事完食。でもそのあとはもうぜんぜん元気がなくて、それはパスタのせいというよりは病み上がりだったせいであり、水曜日だから元気であれば映画も観たかったけれども諦めて帰宅すると、そのままベッドに倒れ込んで気絶するように眠った。起きたら部屋は暗くなっていた。結局夜はうどんを食べた。最後のうどん。でも、今朝はしっかりと寝たし、快調。『3月のライオン』も、買った本も、そもそも文フリで買った本も、読みたい本はたくさんある。少しずつ今日から読めていけたらいいし、ぼちぼち、執筆も再開しよう。

たいへん喜びます!本を読んで文にします。