枯れない花

 子供の頃に住んでいた家にはブランコがあった。対面型の二人乗りで、床に足を踏ん張って漕ぐ子供用ブランコだ。
 こんなものが庭に設置されていたら毎日のように遊んでいてもおかしくなさそうなものなのだが、あいにく私にはこのブランコを好んでいた記憶がない。なぜならブランコに隣接してアジサイの木が植わっており、腰かけると葉っぱがガサガサ腕や足に触れたからである。
 ブランコという乗り物はただただ天に向かっていなければ駄目なのだ。漕ぐたびに地上のものに触れるなど興ざめもいいところなのである。

 ところで私はこの障害物たるアジサイの木のほうは好きだった。梅雨時になり、群青色の花が咲くと、漕ぎもしないブランコに座ってギザギザした緑の葉っぱやその上を這う小さなカタツムリを眺めて過ごした。母などはブランコに座った私があまりに大人しくしているので「押してあげようか?」と聞いてきたほどだ。

 アジサイの青い花は今も好きで、見かけると嬉しくなるものの一つである。が、しかし、連日の猛暑でか今年は干からびてドライフラワーのようになったアジサイに出くわすことも多かった。
 花はどうしても枯れるものだが、アジサイのそれは強烈だ。遠目に見ても可憐な花の集合が茶色くくすんでいるのがわかる。近づけばまるでアジサイのミイラを見せられている気分になってくる。
 それでふと気がついた。子供の頃、庭に咲いていたアジサイのこういう姿はついぞ見た覚えがないことに。

 記憶というのは不鮮明で、適当で、都合いいように修正されていくものだ。思い出そうと努力しても、やはり私が覚えているのはしっとりとした六月の空気、這い進むカタツムリ、青く咲くアジサイだけだった。
 古い思い出を残そうと書き始めたこのブログだが、私が綴っているものは記憶ではなく単なる印象なのかもしれない。いや、おそらくそうなのだろう。幼い頃にも見ていたに違いないアジサイの枯れ姿は、美しい花の印象から削ぎ落とされてしまったのだ。

 それでもこうした記録をつけることは楽しい。一つの印象に呼び起こされ、別の記憶が目覚めてくるのが面白い。


 蛇足だが、この記事を書くにあたって「ひょっとするとドライフラワーのように枯れるアジサイは植物特有の病気なのでは? 無知で普通に枯れるのと区別がついていないだけでは?」と考え、アジサイの枯れ方について調べてみた。すると更なる驚くべき無知が発覚した。
 私がアジサイの花だと思っていた部分は実はガクで、本当のアジサイの花はとても小さなものだったのだ。ガクだから茶色く変色した後も長々と木に残って目立ってしまうのだ。病気でもなんでもない。し、知らなかった……。いや、学生時代にうっすら聞いた気もするな……。
 なおこの記事ではあくまでも幼い頃の印象を優先してガク部分を花として書いている。近年の品種改良種といい、アジサイ、奥深い花である。