記憶喪失

 今日父が「こんなのが出てきた」と言って幼稚園時代の私の連絡帳を持ってきてくれた。記憶というのは面白いもので、当時毎日先生に手渡していた小さな連絡帳に指が触れたその途端、様々な記憶がおもちゃ箱をひっくり返したみたいに蘇ってきた。

 たとえば幼稚園に着くまでの道のり。ちょこんと並んだお地蔵様、カッパの看板が立っていた池、つつじの生け垣や横断歩道。ざわざわした教室の様子、お遊戯や工作の時間がどんなだったか。自分はどんな子供だったか。

 古い持ち物は古い記憶のひきだしを開ける鍵になる。思い出したのはとりとめのないことばかりだったが、懐かしいという感覚を味わうのはとても楽しい。これは大人の特権だと思う。

 父もまあよくこんなものを取っておいてくれたものだ。連絡帳には何一つたいしたことは書いていなかった。ただ毎月のカレンダーに、幼稚園に来た日付のマスにだけスタンプが押してある。これによると私はあまり休まない健康優良児だったようだ。

 そろそろ表題に触れよう。さっき「古い持ち物は古い記憶のひきだしを開ける鍵になる」と書いたが、逆に言えば「鍵を失った記憶のひきだしはめったなことでは開けられない」ということである。大掃除だの引っ越しだので私は散々古い持ち物を捨ててきた。年を経てそのことにやや悔いを感じる。

 流れ過ぎ去っていくものを留めておくのは容易ではない。私の中にはもう二度と開くことのないひきだしが多分たくさんあるのだろう。ここに文章をつづることでせめて今から鍵の保管くらいできればいいが。

 これこそ生活と名づけられるささやかなことから忘れていくなんて、なんだか少し悲しいではないか。