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高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』《砂に埋めた書架から》46冊目

 純文学に興味を持って間もなく、私は十代の終わりに高橋源一郎を知った。

 純文学という畑で活躍している現代日本の新人で、活きのいい若手作家を漁っていれば、すぐに高橋氏に辿り着く、そんな時代だった。

 あの頃、『さようなら、ギャングたち』の単行本を、新宿紀伊國屋で見かけたことがある。裏表紙にはオーバーオールを着た、アゴの細い青年の写真が載っていた。この本を書いた本人の写真だと思った。私はそれを買っておけば良かったかも知れない。私は文庫を買った。講談社文庫の初版。当時は定価380円だった。

 キュートでポップな現代文学。80年代に出現した高橋源一郎のデビュー作は、当時、戸惑いを持って迎えられたのではないだろうか。新しい文学は、新しいゆえに理解を得るのが難しい。多くの評論家が、この作品を論じるのに困惑したという印象を私は持っている。今まで誰も読んだことのない新しい文学を、どのような切り口で論じればいいか、多くの評論家が手探りしていた感じがあった。下手にけなせば、読めていないことを指摘される恐れがあり、褒めるにしてもどう褒めればいいかわからない、というのが本音ではなかったろうか。それゆえに、『さようなら、ギャングたち』に関する書評は、おおかた歯切れの悪いものとなっていた。

 私がこの作品を読んだときの感想を正直に言えば、そのような批評家たちが書いている『さようなら、ギャングたち』の書評に、次々と目を通さなければならないほど、この作品を理解できなかった。短い章で繋ぐ形式なので、あっという間に読める。難しい言葉は使っていない。しかし、ここに書かれていることを、すんなりと理解できる人はどれだけいるだろうか。

 けれども、新しい感覚で紡がれたスタイリッシュな文章に酔うことはできる。この小説は凄い! 格好いい! ……当時の私は、そんなことをムードに流されながら喝采していたかも知れない。無理解なまま。

 その後、これは小説ではなく「詩」だ、という意見を聞いた。そう思って読んでみるとたしかに「詩」だった。でも高橋氏はこれを「小説」として書いたのだから、やはりこれは「小説」に違いない。

 大切なのは、普通の小説とは違うコードで書かれているということなのだ。

 およそ二十年ぶりに、この作品を再読してみたら、あの頃よりも本当に凄いと思えている自分を発見した。

 しかし、私の無理解は続いている。そして、この「無理解」を、私は手放すものかと思っている。

 それこそが、『さようなら、ギャングたち』の鮮度が、未だに落ちていないことの証明だろうから。


書籍 『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎 講談社文庫

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■追記■

 この書評(というよりは感想文)は、2006年7月に作成したものです。

 ここでは、著者の現在の言論活動とか、そういったいろいろなことは脇に置いといて、私がこの作品で好きだと思った表現の箇所を、数ある中からひとつだけあげて、今回の「追記」とさせて頂きます。

『さようなら、ギャングたち』の、第一部「中島みゆきソング・ブック」を求めて(Ⅳ-13)には、偉大な鉄工所で耳栓をしながら働く二人の作業員のシーンが出てきます。作業員のひとりが、グラインダーの刃とって! と頼むのですが、もうひとりの作業員には騒音がひどくて聞こえていません。激しく響き渡る騒音の擬音が、そのやりとりの合間に記述されているのですが、騒音が切れ目なく続いている表現がとても斬新で、最初に読んだときから印象に残っています。これは詩の表現だと思います。

(該当箇所を引用しようと思いましたが、できない気がしたので諦めました)

 全体を見渡してもそうですが、この小説が書かれてから四十年近くが経過しようとしているにも関わらず、一向に古びる気配がありません。古くならない、なんて、そんなことがあるのでしょうか。でも、まだ新しい感じがするのです。

 この小説は、そういう小説だと思います。

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