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新幹線の隣席ガチャ


子供連れが新幹線に乗り込む。長女はまだ0歳だ。隣の席には若い女性がいた。その女性は0歳児を見ると小声で「あ〜ーー、最悪」「ハズレだ」と言った。


子連れの親の反応
ショックだ。「ハズレだ」と思う気持ちはわからんでもないが、もう少し寛容な世界になって欲しい。公共の乗り物に乗るときはいつも気を使う。例えば、子供を遊ばせてクタクタにしてから乗るなどして大変なんだ。

Twitterの反応↓
擁護側
「ハズレだ」なんて口に出すべきではない
泣いていたとしても紳士でありたものだ。品がない。
→対策として子連れ優先車両があっても良い
→もっと紳士になろう。口に出してはいけない。一言「気にしませんよ」と声をかけてやるのがスマート

否定派
感覚過敏、頭痛があると脳内に声が突き刺さる。そんな私たちが「ハズレだ」と思ってはいけないなんて社会は寛大ではない。
子供がいる時点で「うるさくなるかも」と思ってしまう。
うるさい子供を躾けないでほったらかす親がいる中で子連れの寛容さを求めるのはおかしい
→ハズレだと思うのは当然だし、ハズレのパターンはいくつかある。香水のきつい人、横柄なおっさんなど
→躾けのしない横柄な親に腹が立つ人が多い。

中立
子供だから泣いたりするのは当然である。大事なのは親がしっかり対処しようとしているかである。
自分は子供嫌いだから「ハズレだ」と思ってしまう。けど、声出てしまうのはだめ
耳栓すれば解決→これにも「悲しくなった」という母親の声も上がっている
おもちゃを持参して対策してる
→大事なのは親の対応ではないか
→自衛手段はあるのでそれを実行していこう

過激派
最悪だといった人に説教してやる。

記事の結論
寛大さ、優しさが必要だと主張
→社会のあり方の「理想」を主張している

私の感想
・一般客の目を気にして電車に乗りにくい人がかなりいるなら、子連れ優先席や優先車両をもうけても良いと思った。
・子どもが泣いてしまったりするのはもはや不可抗力であるので親の対応に期待するしかない。そこで誠意を見せられないと、他のファミリーの社会的な居場所が窮屈になっていくと感じた。
・ハズレを引いてしまった場合に対処できることがあるなら準備しておいたほうが平和的だ。
・ハズレを引いてしまった人や小さな子供を持つ人がお互に寛容である社会にするには、お互いに心の余裕がないと難しいと感じる。「最悪」と言ってしまった人はもしかしたら自分の理性で止められたかもしれない。無愛想に耳栓を付けられて悲しいと感じたり、厄介者あるいは無関心を決め込まれていると感じてしまうセンシティブな親は一言「ぐずっちゃうかもしれないですけどよろしくお願いします。」と愛想よく言えたらお互いに協力できるかもしれない。無愛想にヘッドフォンを付ける前に優しい顔で「気にしないで下さいね!」と気持ち良く言えたら親も心が救われるかもしれない。そうした心の余裕から生まれる「気遣い」「優しさ」は裏を返せば、余裕がない人に求めることができない。
・余裕がない人はいるし、理不尽はいくらでも起こり得る。そうした場合、どのように関わるのが適切か。それは「どうにもならない」ので「できるだけ目を逸らす」「無関心でいる」の徹底だろう。

意見
さて、紳士でいることと無関心に対応することは両立出来ない。
紳士でいられるのは、目の前の事象に「余裕がなくなるほど気にはならない」と感じている状況の時のみだ。
無関心でやり過ごすときは、目の前の事象に「余裕がなくなるほど目障りだ」と感じるときなのだ。
私の思う真の自衛手段は「自分のキャパを広げる」ことである。それは、匂いのきつい人や、うるさいオッサンが来たり、でかい外人が来たり、子供をほったらかしてうるさい子連れがいても「別に。。。」と思ってしまえる様な鈍感力を身に付けることだ。決して「我慢する」のではなく「スルー」できる力である。広がったキャパから生まれる「余裕」を持って一言声を掛ける。こうすればお互いにWINーWINになれると思う。

もしかしたら、「最悪」と口にしてしまった女性は自分のキャパを広げるための訓練の半ばであり、これから余裕のある大人になるかもしれない。
いい意味で表面上は他者を気にかけ、本心では気にしない“鈍感”を維持している方が人生楽にやって行けるという方法はあらゆる場面でつかえる方法かもしれない。

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