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四ツ谷駅のホームで繰り広げる、大人の友達論

「なんかさぁ。高校生の時の方が、すごく楽しく過ごせたよね。」
始発が走り始めて間もない四ツ谷駅のホームで思わず口に出た私のセリフ。
夫も少し間が開いて、「その言葉、悲しいけど今すごく自分の心に響いてる。」と呟いた。

友達というのは、難しい。
夫婦2人朝方に痛感せざるを得なかった。
今、何が私たちの中で起こっているのか言語化できたけど、まとめきれていない思いを忘れないうちにそのままここに書き出しておこうと思う。

友達論というワードを題名にしたが、論じるというよりぼやきを連ねただけかもしれない。大変申し訳ない。


私たち夫婦には、随分と長い付き合いの友達たちがいる。
そこそこ多い数で、10年ほどの付き合いになる友達たち。

昨日、Airbnbを借りてその友達たちと一晩過ごした。
私も夫も、それぞれ違う場面で「どうしよう、全然楽しくない場所にいる」と感じた晩だった。

中高生の青春を共に過ごしたあの気持ちではいられない。
疑問を抱き、疑念を抱き、緊張をはらんでいた。

私に限れば、結果として友達の前なのに一言一言発するのも緊張してしまう。何も言えず、何かを言えばその場が白んでしまう最悪の状況に陥った。
発言することをやめ、周りの会話も言葉として認識するのをやめ、ただ1人洗面台で歯を磨いた。

そしてその晩、宿泊先で一睡もできなかった。
私の睡眠に落ちる最強コンビを仕掛けても眠れず、だからといって先ほどまでのことを思い出してとても落ち込むわけでもなく、時折不満と怒りが込み上げそれを冷静にただ処理していて、それ以外の大体は「無」の時間を過ごした。

結果、「今の私はこのコミュニティで集まることは暫く避けた方がいいし、今後絶対に宿泊しない方がいい。」ということだけはっきりとした夜になった。

夜中3時を回り、友達たちが疲れて死んでいく状況を確認してから、夫の元に行った。
夫も寝ておらず相当疲れているようだった。

私だけ始発で先に帰ろうと思っていたが、一睡もできなかったことを知った夫は一緒に帰ろうと言ってくれた。罪悪感と安堵感が混じった気持ちになった。やはり夫は友達ではなく家族なのだと強く思った。
こういう時にしっかりと責任感と正義感を持つところが、
私が夫を好きな理由だし、同じ価値観で安心する。

2人で朝方部屋を出て、駅に向かって歩いた。
「今回の集まり、なんか色々と失敗しちゃったな」と夫がぽつりと呟いた。
これまでそんなことを言うことがない明るい夫が、そう呟いた。

ぽつり、ぽつり、ぽつり。
お互いの煮えきれない想いを、
うまく言葉にできない想いを言葉にできない代わりに、
その場面の描写とセリフを口にする。
ぽつり、ぽつりと。

その発言の合間合間に、沈黙がある。
お互いにどの言葉が一番気持ちに近いのか、脳内の全ての言葉の引き出しを開けては閉めてを繰り返した。

夫婦同時にこんな風に感じたことはなかったからこそ、
お互いに「今」言語化することが大事だと思って、言葉を探す。
一睡もできていない頭を動かして。


「小さなコミュニティでできた習慣を
でっかいコミュニティに持ち込んできた時、
別の小さいコミュニティの人たちが違和感を覚えたり、疲弊したりする。
自由になったからこそ、違和感が生じている。」

言語化したら、私たちはこうなった。


友達たちと出会ったのはいろんな制約のもとにいた中高生時代。
同じ経験をし、独自のノリや習慣を一緒に作ってきた。

みんなが大学生になり、社会人になり、制約がなくなった。
友達コミュニティの中で、小さなコミュニティが形成され、それぞれのコミュニティで独自のノリや習慣が形成されていく。
私と夫だけにあるノリを持ってきている可能性もゼロじゃない。

それを大きなコミュニティに持ってきた時、大きな違和感が生まれてしんどくなって喋れなくなったり眠れなくなったりする。

新規のノリや習慣の感じ方は個人に委ねられている。
私と夫も家族という形に変わり、1つのコミュニティとして多くの時間を過ごしているからこそ、今回私たちは同じ気持ちになって、言語化の結果に納得している。

そして冒頭のセリフが、ポロッと出てしまった。そして沁みてしまった。
「なんかさぁ。高校生の時の方が、すごく楽しく過ごせたよね。」

友達たちから見たら、なんでこんな風に思うのか理解できない、そもそも「集まりの雰囲気がなんか違う」と感じていない人もいるだろう。
それはそれでいいのだ。何も否定はしない。

でも、「友達が笑った顔は高校生のままなのに、全然違う人間のように見えてしまうのが辛い。」
この私の気持ち自体は認めていたい。辛いものは辛い。

後出しにはなるが、私はこの違和感を感じたことは初めてではない。
人には、時に今はこの人と友達だけど離れていたいと思うことがある。いつも、いつでも、友達で居られるわけじゃない。」
という考えのもと、自分から距離を置いていることもあった。
友達って難しい。

夫はフレンドリーで友達をとても大事にするから、これまでこの言葉を理解していなかった。というか、できなかった。
しかし今回の件で初めて心の底から理解・共感したようだった。
私は理解してもらえて嬉しい気持ちと共に、
分かってしまったということに悲しさと虚しさをちょっと感じた。
私もしっかりと都合のいい人間だなぁ。

人は、ずっと変わらないということはできない。
必ず人は何かの要因で変わっている。
高校生のまま私たちは生きていられない。

「あの時みたいに時間が解決してくれるよ。」
と経験者の過去の私がそういってくれる。

「でもさ、ここ数年ずっとこんなままでずっと違和感を感じててさ〜、もう友達という形自体が終わったんじゃないかなって思ったりするんだよね。もう関わるのやめた方がいい気がする。」
と今日の私がぼやいてる。

「昨日誰かも言っていたけど、ずっと好きなやつとだけ関係を築く年齢じゃないって。大人になることを覚えた方がいいよ。」
と未来の私が呆れながら言ってる気がする。

大人になったら、
友達だと思えなくなっても、自分を騙して、
関係を続けていくのが大人なんだろうか。

先人達は皆口を揃えて「友達は大事にした方がいいよ〜」という。
先人達が言う友達は、どこまでを友達だと指してるんだろう。

自分が長期間心地いいと思えない空間でも、
過去の時間の延長で付き合わざるを得ない関係を、
付かず離れずを繰り返してでも大事にした方がいいのだろうか。

このコミュニティの何が難しいって。
私以外のみんなは、仲間意識がとても強い。一時期誰よりも気持ちをわかり合った経験を共有しているのも関係して、仲間意識がとても強い。


誰かが、特定の小コミュニティにしか顔を出さなくなったことが分かると、みんなで大きなコミュニティにどうやって戻したらいいかなと親切に考えてくれるのだ。臨時会議が開かれるくらいに。
誰かが離れることを「寂しい」と素直に口にする。

その親切心が、素直さが、心を苦しくさせる。
離れることを許してくれないようで、友情が手綱に見えてくる。

でもこの親切心があったからこそ、戻って来れる雰囲気がいつもあるからこそ、メンバーも変わらずにこうやって集まれているのも事実なのだ。
友達たちの人生の節目に立ち会えたり、思考の成長を感じてほっこりしたり涙したりすることもある。
そして集まるとみんなが口々に「楽しいね」と、
出会った頃と変わらない笑顔で言葉にする。

楽しい瞬間も、
どうしようもなく苦しい瞬間も、
同じ時間の中にあるからこそ難しい。

今までと今回で大きく違うのは、
「夫婦2人とも」同じような気持ちになってしまったからこそ、
これから皆とどうしていいのか分からない。

それぞれの小さなコミュニティでノリや習慣が成熟してしまった今。
私たちの違和感だけの気持ちに従って「直せ」なんて言えない。
そんな独りよがりなことをしてはいけない事ぐらい分かってしまっている成熟してしまった頭脳も、今はある意味憎い。
長年過ごしすぎてぶつかる事さえ避けるようになってしまった。

大人になると
友達って、難しいな。

空がどんどん朝模様になってきて、フレッシュで新たな1日を始めようと空気が動き出す。その流れに乗れない私たちは重い足取りで帰路に着く。
そして言語化できた気持ちを見なかったかのようにベットで目を閉じる。

一方フレッシュな朝の流れに乗れた友達たちは、
桜の下で満面の笑みで集合写真を撮り、
眠りにつく私たちに写真を送ってくれた。

Umi









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