あなたは悪くない、と言われた日
今日は家族と寺にいった。一年に2回家族と寺に行く。そしてお経を唱えていただく。義父と父のために。
とはいえ、あなたには宗教がありますか?と問われたら、きっと迷うだろう。
けれど人生の折々で感じてきたのは、自分にはなんとなく仏教がしっくりくるなぁということ。だから、わたしはきっと仏教徒なんだと思う。
そもそも父が亡くなるまで実家の宗派を知らなかった。そんな人はきっと少なくないはずだ。仏教には時代で大きな流れがあるようだけれど、江戸時代には寺は役所のようだったはずだ。戸籍の届け出を漏れなくすると、仏教徒と言えない人が排除できた。だからこそ住む場所で宗派が異なる。よく考えられた仕組みだと思う。
多くの家で、食事の前に手を合わせたりはするけれど、他の宗教のようにバイブルが家に普通にあるわけでもない。仏教は祈りを日々の暮らしに取り入れるというよりは、どこかに所属するためのものだったに違いない。
わたしは50代で恐ろしいほど不幸が重なった時があった。泣き面に蜂とはいうけれど、いやいやそんなものではなかった。人生の総棚卸とでもいうほどの出来事がいっぺんに押し寄せた。その一つ一つがすべて自分とかかわりのあることだった。すべてが終わりを告げるようなことばかり。
同じことが起きても、運のいい時には何でもなく通り過ぎることでも、運のない時には、同じ問題でも大問題に発展するということを聞いたことがある。言葉とは面白いもので、そんな言葉を聞くと、あゝきっとわたしと同じような経験をした人がいるのだろうと思ったりする。
そんなことが本当にあった。何もかもが上手くいかなくなりついには人間不信に陥った。
その頃、本ばかり読んだ。そうして、数年かかったけれど、沢山の問題を自分の中で整理した。神様なんていないなんていう人がいるけれど、あの頃は本当にそんな気分だった。
その頃思っていたのは、運だけじゃなく、自分の何かが悪くて、だからこんな風に何もかも失ったのだろうと思っていた。そう思うしかなかった。
そして色々なものを手放し別れを告げたけれど、最後に一つだけ自分の力では処理できないことがあった。自分はそれをも手放すことを望んでいたけれど、それは人としてどうなんだろうとわからずにいた。手放さなければ自分が傷つく。けれど、もうこれ以上の傷は耐えられそうになかった。
そのとき読んでいたのが、確か吉川英治の『親鸞』だった。折々で仏教にぶつかりながら歩いて来たけれど、その時もやっぱり仏教だった。といっても親鸞は浄土真宗だ。それなのに、その本を読んで、なぜかわたしは曹洞宗のお寺に電話をした。毎年訪ねて行っている義父の眠るお寺だ。
ご相談したい旨を告げた。沢山のお坊様のいらっしゃるお寺だ。どなたと電話で話したのかはわからない。お寺に着くと、お顔だけは知っている若いお坊さまが小さなお部屋に通して下さった。
とはいえ、なかなか話せない。そんなプライベートな話をしてもいいのかすらわからない。
それは、わたしの人生でも最も大きな問題だった。それは心理学がご専門の方だとかセラピストにお話ししても、きっとわたしは悩み続けるだろうと思われた。わたしの中では善悪の問題だった。
今はいい。今はあまりに苦しすぎて手放すのがいい。けれど、それが人としていいのかどうかが分からなかった。やがてそれが元でわたしは既にどん底だと思っているここよりもはるかにどん底に落ちていくのではないかと思われた。いや半ばそれを確信していた。それ以外に考えようがなかった。だからなかなか話せなかった。それでも口にした。
すると、そのお坊様が、「それはあなたのせいではありません。あなたは何も悪くありません」ときっぱりと答えて下さったのだ。それからその意味も解説して頂いた。
その日、お寺を出た時、空が眩しかった。
3年程考えてばかりいた。
人に言えないことってあるものだと思った。それを聞いて頂いた時から、わたしの中から悩みが消えた。
わたしはあらゆるものから解放された。
そして、仕方のないことってあるんだなと思った。
人生にはどうしようもないことがあるものだと思った。
3年も考え続けてばかばかしかったかと言えば、そうでもなかった。わたしはことごとく色々な角度から自分の問題を検証し続けた。それが無駄だったかと言えば、そうでもない。その時間が惜しかったかと言えば、やっぱりそうでもないのだ。
わたしは動けなくなった。けれど、その時間はわたしが再び生きていくために必要な時間だったのだと思う。
人生には、自分ではどうしようもないことがあるんだなと思った。
そう思うことが出来てよかった。
それだけでよかった。
どうしようもないことってあるのだ。
今、わたしはスタエフで毎日liveをしている。きっともう連続配信は一年を超えた。その配信の前に真言を3回唱える。たまたまお会いした方が、人に会う前に口を漱ぐという意味で真言を唱えているとおっしゃった。その方にその真言が書かれた紙をいただいたのだ。
お仕事の件でお会いした方だ。お会いしたのはたったの1度。またいつかお会いすることがあるかもしれない。けれど、その方とは、その真言を受け取るためにお会いしたと思えてならない。
その日から、わたしはスタエフで話す前に真言を3回唱える。サンスクリット語なのだろう。意味もわからず、音もわからず、それでもただその漢字に振られたルビを声に出して読んでいる。それだけで守られているような安心感がある。言葉で自分の口をすすぐ、その感覚が実に自分の中でしっくりとくる。
だからわたしはきっと仏教徒なんだろうと思っている。
そしてわたしは仏教で救われたのだと思っている。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
※スタエフでもお話ししています。
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