心に残る中国の大学受験物語
きょうは大学入学共通テスト2日目。
そして関東では埼玉の中学受験がはじまっている。
ドキュメンタリー
そんな今、中国の大学受験のドキュメンタリー番組が放送された。数組の中国人親子を数か月にわたり取材したもので、わたしは数日遅れでその番組をみた。
中国の大学は大半が国立。進学先はおおよそ全国統一大学入試の結果で決まるという。その試験を番組では高考(ガオカオ)と紹介していた。
今では大学進学率が驚くほど高い中国だけれど、一流大学に入れるのは750点満点の高考で600点以上の結果を出した人のみ。その人が中国のピラミッドの頂点に立つエリートと呼ばれる人になる。
そしてそのガオカオ、この試験はかつての科挙ともいわれているらしい。
勝ち取るために
取材を受けた親たちは、いい大学に入ることがどれほど人生にとって重要かを迷いなくカメラの前で口にした。
いい大学に入ればいい人生が送れる、今の中国ではそれが真実なのだろう。彼らに迷いはない。
取材では一流大学への進学が叶わなかった親や、一流の人として生きてきた親が登場し、今度は進学校に通う自分の子どもにそれを求めていた。
そして子どもたちも、そんな親の期待を受け止め、ひたすら学び続けているのだ。
その学びは実に高価で、苦手な教科を補うために塾に通い始めた生徒は、その塾の費用が月20万程かかるといっていた。しかも受験のために高校の近くに中古のマンションを借りて暮らす親子もいた。
修行僧
どうせ加熱する大学受験の話しだとどこか侮っていた。
ところが次第に修行僧をみるような心持になっていったのだ。
誰一人として自分だけのために受験に向き合ってはいない、そんな気がしてきた。
目的は600点越えで、親も子も中高の6年間をひたすらそこに向かって励む。スポーツをすることすら受験の邪魔になる。恐らく彼らは中学に入る前からそうやって多くのものを諦めて手放してきたに違いない。
ところがその親たちがスパルタママパパなのかといえば、そうではない。彼らはひたすら静かに我が子を見守っている。まるで自分にできることは環境を整えることだけとわきまえているかのように。そして子どももまた親の献身ぶりを気の毒にさえ思っているのだ。
あれはよそ行きの顔なのだろうか。
親が子どもを怒鳴るシーンなど一度も出てはこなかった。それから親に反抗する子どもの姿もみられなかった。
長期にわたる不自由な受験生活の中で、親は子を思い、子は親を思う、そんなシーンがチラチラと垣間見れたのだ。
そんな彼らがだんだんと修行僧にみえてきた。
教育のパワー
いつか著名な若き中国人ピアニストが父との葛藤を密着追跡番組で語っていた。
父親が彼をピアニストにしようとマンションを借りて二人で暮らしていた。けれど厳しい練習に耐えかねた息子が練習から遠ざかると、父親がその高層マンションで「ここから飛び降りろ!」といったという。その時以来、彼は父から離れ、有名なピアニストになった今も父を赦せないでいた。
子どもの教育には何かが潜む。
わたしも子どもがまだ4,5歳の頃、泊り客の忙しさから解放された数日後ふと気づいた。子どものヴァイオリンの練習を失念していたと。
けれどその時、わたしはもう一つのことに気づいた。
自分が我が子に大きな力をふるっていたことに。それが恐ろしく思えた。その時をもってわたしは子どもへの向き合い方を変えた。案の定、子どもはそれから数年後ヴァイオリンをあっさりとやめた。そして子どもは今でも学ぶことが好きだ。
優しさ
わたしはたまたま修行僧のような大学受験物語をみたのだろうか。けれどそれはおそらく気のせいじゃなかったと今も思えるのだ。
ピアニストの彼が語る父親と、ヴァイオリンの練習を子どもに強要していた若き日のわたし。わたしたちに共通していたのはおそらく人としての未熟さだと思う。そのことにあの日気づけてよかった。その時からわたしは学びはじめ、学びに時間がかかることを思いだし、子どもの学びを干渉しなくなった。
それでも子育てはなかなか思うようにいかないもので、人づきあいが不器用な子どもにしばしば悩まされた。絵に描いた子どものように順調に育って欲しかったのだろうか。何度となく苛立った。あれもまたわたしの未熟さだった。けれど子どもの声が聞こえるようになったとき、わたしはようやく自分が変わりはじめたことに気づけた。子どもと何かを乗り越えることで自分も変われることを知った。
教育という言葉は思っているより強い。良かれと思ったことがパワーとなり子どもへ襲い掛かかり、守りたいはずの子どもを自分自身が苦しる。そんなことが起こる。
ところがあのガオカオに向かう親子にはそれがなかった。親は子の将来を思い、子は親に申し訳ないと思う。映像から感じ取っただけだけれど、不思議とそこには優しさがあった。
受験当日、親たちは学校前で縁起のいい明るい色の服に身を包み花束まで手にしていた。
そしてどの親も試験を終えた子どもたちを実に誇らしげな目で見るのだ。まるであなたを尊敬していると言わんばかりに。まだ結果は出てもいないというのに。
おわりに
考えてみるとスポーツエリートも、音楽や美術のエリートも一つのことに時間を使い続ける。その行為を愚かだと笑うことは簡単だ。
けれどそこには目標に向かう過程で互いを労りあう親子の姿が映し出されていた。その高考で目指していた600点には誰も届いていなかったけれど、誰もが清々しい表情をしていた。親は子どものこれまでの頑張りを誇りに思い、子どもは自分を支えてくれた親を大切に思っているに違いなかった。
番組を観て一日が経過したというのになぜか彼らの柔らかい表情が忘れられない。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
※スタエフでもお話ししています。
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