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聞こえてきた3つの声

11月に会おうねと約束していたnoteの方に会えなくなった。原因はわたしのバタバタ生活だった。その方から今日、ご連絡があった。

その方も、かつてクラファンを提案されたことがあったそうだ。けれど、考えてみたら恐ろしく負担のあることなのでやらなかったとおっしゃっていた。そして、ご支援して頂いた。

懸命な判断だと思う。クラファンは世間で思われているほど簡単なプロジェクトではない。ギリギリで止まれた方と進んだわたし、同じタイミングでか、と驚いた。

そして、今日も、わたしは知人に連絡をした。それがクラファンの宿命だ。いつもはお一人なのだけれど、今日はお二人に連絡をした。クラファンのご支援のお願いだ。

これが、なかなか腰の重い作業で、できれば連絡なんてしたくない。けれど、それでもクラファンが立ち上がっている間は連絡しようと決めたのだ。

今日は二人の反応が実に対照的だった。

お一人は、実に不快そうだった。だから、こんな話を切り出してしまって申し訳ないと思い、そう伝えると「umiさんね、そこがあなたの悪いところなのよ。謝るぐらいなら初めからやらなきゃいいじゃない!」ときた。ふむふむ、この方はわたしのことをそんな風に思われていたのかと思ったり、これって言葉のあやって奴だろうかと感じてみたり。まあ、どれほど振り返ってみても、面と向かってこんなことを人に言われたことはない。

話している間に相手の声がどんどん大きくなっていく。そして、これは実は初めての経験ではない。実は三人目だ。三人共、割と親しくしてきた時期のある方々だ。人生の別々な場所で一時を過ごしてきたそのお三人の声がどんどん荒々しくなり、イライラと大きな声になっていく。

そんな共通点がある。

それから五分後ぐらいに、もう一人、懐かしい方に連絡をした。けれど、彼女の反応は正反対だった。その活動は何を変えたくてやるの?という質問が続いたのだった。

実はこうした反応は、これまでたくさんいただいている。そして、そんな方は決まって人の話を聞く姿勢を持たれている。だから会話になる。

その後、もやもやとしたものが自分の中から消えていくのを感じていた。同じ日に対照的な反応が返ってきたことで、自分の中で言葉にできなかったものが言葉にできた。

クラファンを立ち上げた人が皆、わたしと同じような経験をするとは限らない。モノを売りたい人なら。断られる時、わたしには必要ありませんと断られるだけなのだろう。

けれど、わたしのケースは少し違う。

いや、かなり違う。

話しを聞きたくない一定数の人たちがいて、そうした人たちには特徴がある。

どんどん声が大きくなる。もちろん、自分の知人だ。その方々がわたしに向かって声を荒げられた事は一度も無かった。そんな付き合いをしてきたはずの人たちがイライラと声を荒げ、笑ったり、苛立ったりを始めるのだ。

ここがどうにも分からなかった。

なにが彼女たちの中で起こっているのかわからなかった。言い方が悪いのか、伝え方が悪いのか、どうにもわからなかった。

だから、クラファン一週間目にダウンした。言われた言葉が澱のように潜在意識に留まっていたのだろう。

けれど、今日はちょっと違った。

少しわかったのだ。

あの声の大きさや、イライラとした対応は、答えを持っている人たちの、その答えを守ろうとする強さなのだろう。

そうした人たちにとってわたしは急に目の前に姿を現した厄介者なのだ。だから、まるで威嚇するように高笑いされたりする。いまさら何よ、と。なに言ってんのよと。世の中は、そりゃ誰かが変えるだろうけど、あなたじゃないわ、と。

自惚れるなってことなのだろう。

こうした常識を頑なに守ろうとする力は強い。これまで続いて来た常識はあなたなんかじゃ変えられないわよ、というその思いがどれほど複雑なものなのか。

なぜ、彼女たちの声がどんどん大きくなるのか、ようやく分かってきた。

常識はそれほど強い。そんなどうなるもんじゃないという当たり前が、おかしいというわたしは、彼女たちには大人になり切れていない駄々っ子にうつるのだろう。だからこそ、まるで娘に言うような言葉を平気で放たれたのだ。「umiさんね、そこがあなたの悪いところなのよ。謝るぐらいならはじめだから言わなきゃいいじゃない!」と。

とんでもないプロジェクトを始めてしまったものだと思っていた。

幾度も折れた。

けれど、ようやく分かった。

わたしがこれから相手にしていかなければいけないのは、その、あなたの話など聞く耳などわたしは持たないわ、という人たちなのだ。それが世間の当たり前だったのだ。

世間の常識はこんなふうに姿を現すのかと驚いた。それが分かって良かった。ようやく気分が落ち着いた。悪いのは彼女たちじゃない。もちろんわたしでもない。悪いのは島国のこの国なのだ。

わたしの話を聞こうとする人たちは、皆、留学経験があったり、英語のお仕事をしてこられた方ばかりだ。異文化を体験されてきた人たちだ。すべてが同じじゃないことを体で感じてきた人たちなのだ。

だから、相手が一体何を言いたいのか、まずは知ろうとされる。何が問題なの?と。

けれど、そうではない人たちは、そのお金、何のために集めるの?ばかりを問われる。

けれど、それは答えても答えても彼女たちの納得する答えにはたどり着けない。

そりゃそうだ。モノを売っているわけじゃないのだ。これから変えたいものがあるという手にとれないもののために動いていきたいのだ。目に見えるものでなければ納得できない人がいて当然だ。絵空事より飴玉の方がいいに決まっている。

そして、わたしはクラファンをやって良かったと、今日初めて思えた。

クラファンで動いて、沢山のご支援をいただいて、そこからリアルで動きはじめて、大きな声を何度も浴びせられてきた。

そんな動きをしてみて、ようやく見えてきたのだ。

わたしが厄介だと思ってきた当たり前は、わたしの知り合いの半分だった。

そして、それが世間だったのだ。

面白い経験だと思う。

だから、もう伝わらない人には連絡をしないことにした。それは、電話する前になぜかわかる。

けれど、そんな人たちに連絡したことはわたしにとっては必要なことだった。初めてわかったのだ。なぜ、知り合いだったはずの人があれほど攻撃的な人に変身するのか。ずっとそのことが知りたかった。

わたしは今日、はっきりと世間の常識が自分の隣にあることに気が付いたのだ。

クラファンは素晴らしい実験だったということだ。だからもうおしまいにしよう。実験はおしまいだ。ようやく腹落ちした。わたしは、きっとそのことを知るためにクラファンをやらなきゃいけなかったのだと思う。

今日は、そんなことに気づかせてもらった。


※最後までお読みいただきありがとうございました。


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