見出し画像

「気働き」できる人

「気働きできる人ね」、ふいに声をかけられた。振り向くと、その人が微笑んでいる。憧れの年上の人。

学生のイベントに「一緒にいかがですか?」と声を掛けられた。教えてもらった一号館にある小さな会議室のドアを開けると、学生の中にその人が居た。

企画が通った、大学オリジナルグッズを販売することになったのだという。クラスの中央に置かれた机の上に、校章付きのノートや鉛筆やマグカップ等が並んでいた。発売に先駆け、校内でキャンペーンを張るという。そこから数回の会議を経て、キャンペーン当日、束のチラシを手に声を張り上げ校内を歩き回った。

その日、その人にふいに、「気働きできる人ね」と言われた。


その人とは、大学のNPOのクラスで会った。クラスにゲストがくる、そう聞いて出た授業で、いよいよという時、持ち時間が無くなり、その人は教室を後にした。まるで、CM直後、幕が下りた映画のよう。あの話しの続きはいったい何だったのか、そんなことが気になり、近くの若者にしきりに残念だと囁いた。

それから数日後、「会って下さるそうです」、繋いでくれた学生が話しかけてきた。ただ、喜んだのもつかの間、その人に会いに行く直前、図書館のパソコンでその方の名前を検索して驚いた。これはしまった、迂闊なことをしたと慌てた。

告げられたその部屋は、赤い絨毯の廊下の一角にあった。小さくノックし、細くドアを開けると、言葉にならない言い訳を繰り返し立ち去ろうとした。その時、「どうぞ、お入りになって」とドアが開いた。緊張したまま勧められた椅子に腰を下ろすと、その人が淹れたてのコーヒーに小さな甘いお菓子を添えてくれた。そして、「あなたが初めてよ」と口にされた。大学に来て、学生の方から声を掛けられたのは、あなたが初めてだと。

大手企業の日本本社の副社長だったその人の部屋を、それから幾度となく訪ねた。そして3年後の別れの日、その人に、「ここから違うことを始めては駄目よ。あなたがするのは今ここで学び研究してきたこと。それを手放さないことよ」と告げられた。




「この会社が欲しいのは30代ですから。連絡したって無理ですよ」、そんなセリフを耳にしたのはもう6度目だった。

夫が仕事を辞め、夫婦で就活をはじめていた。夫にとっては2回目の転職。とはいえ、既に50代後半。これはまずいことになったと慌てた。

けれど、書類審査まで進む夫ととは違い、50代女性が正社員を望むのは、きっとシンデレラのガラスの靴に足をいれるより難しい。求人票に年齢などないけれど、ハローワークの人は問い合わせさえしてくれない。パートがあるだろう、なぜそこへ書類を出さない、贅沢をいうな、とばかり。巷では、労働人口の減少が叫ばれ、女性の活躍が繰り返し叫ばれているというのに。

そんな頃、まだ昼を思わせる日差しの中で、夫と2人ハッピーアワーのビールを幾度も口にした。その都度、「ここから違うことをしては駄目よ。あなたがするのは今ここで学び研究してきたこと。それを手放さないことよ」、という、あの人の言葉が思い出された。


それから数カ月後、夫は再び広い社会へと戻っていった。


これが現実。

知識が不足していたわけでも、やり方が悪かったわけでもない。かつては自分を責めてばかりいたけれど、今ならわかる。この国は、体力も気力も能力もある多くの女性を、何年働いても時給の上がらないパートの世界へと閉じ込めていく。

だから、「女性が働くこと」そのことを考えずにいられない。そう、研究を離れ、数年は経つけれど、女性の働き方のおかしさをより深く考えずにはいられない。




「あなたが初めてだ!どうして日本人は考えないんだ?」、アメリカ人の若い男性が、まるで叫ぶように口にした。

あの日、遅れてクラスに入ったわたしに、アメリカ人の男性が質問した。英会話教室の先生が交代したのだ。よくあることだ。その人が、自身の出身州を尋ねたけれど、誰もが直ぐに答えることをやめてしまったという。同じ質問に10数分を費やし答えにたどり着くと、彼が「なぜ日本人は考えないんだ!?」と声をあげた。


それは幾度も感じてきた。

口にしたことはないけれど、違和感ならあった。



20代後半で夫の駐在が決まり、香港に住んだとき、異文化間で小さな衝突が度々あった。そんな時、そこに触れようとする人などいなかった。


「あなたはおかしい!」、指をさされ、そう叫ばれたことがあった。

それは、香港の英会話スクールで、映画の話しがテーマの日、隣のイスラエルのクラスメートが、『シンドラーのリスト』を観たと言い、その後、聞いた内容をクラスで説明した時のこと。その瞬間、大きな声がクラスに響き渡った。それは、近代史に触れることのなかったわたしが、歴史観の中へ放り込まれた瞬間だった。日本人のあなたに戦争を語る資格があるのかと。

けれど、その国の女性と言葉を交わすうちに、やがて親しくなり、それから数珠つなぎのようにその国の人たちと知り合い、互いの家で料理を振る舞い、共に子育てを楽しんだ。

国を離れ、知らない国の人たちと触れ合う中で、小さな誤解や、解けないしこり、小さな衝突を幾つも超え、それでも共に時間を過ごすうち、わたしたちは互い歴史や、暮らしや、働き方の違いを知るようになった。




ただ、時々思うのだ。

ところで、一歩国を出る前、いったいわたしは何を考えていたのだろう。

果たして、何かを考えたことがあったろうか、と。




これまで幾つもの職場で働き、どうして彼は、どうして彼女は、ここで仕事を終えたのかと思う時があった。

尋ねると、大概深い理由などなかった。指示されたことをやっただけ、そんな答えが返ってきた。そこがどうにも気になった。人が交渉に入る一歩手前で立ち止まることが。「そう言われたので…」そんな言葉を当たり前のように口にすることが。交渉の一歩手前でそこから先踏み込もうとしないそのことが。

そんなことが気になっていた。

ただ、そこは、おそらく説明してもなかなか難しい。

伝わらない。

なぜなら、それは、知らないから。


知らないことは、実は罪深いことなんじゃなかろうか、そんなことを時々思う。知らないことの先には、考える行為が生まれない。知ること、それが全ての始まり。

考えない社会、それは実は罪深いことなのかもしれない。

「なぜ日本人は考えないんだ?」、あの言葉は、あの日の、あのクラスにだけ向けられた言葉ではない、そんな気がしてならない。


この平和な国では、語り合うことをなかなかしない。語り合い、少しだけ押し、そして少しだけ譲歩する、そうして徐々に獲得して得る確かな感覚。そんなものを徐々に積み上げた時、人は自分の言葉を獲得するのだろう。

そして、そんなものと引き換えに手に入れる記憶やテクニック。そんな繰り返しに、徐々に奪われていく経験。そんな日々を過ごし、やがて人は社会に出て、命令に従い働くようになる。そこから決してはみ出さすことなく働き続ける。

仕方ない。

それこそが、この社会が望んできた形なのだから。



それでも、どこかで、この社会がクルリと変わることを諦めたくない。


働くと、人の個性はよく見える。見えなかったその人の姿がよく見える。


目立たず、注目などされてたこともない人が、徐々に姿を現し、周りを心地よくさせることがある。なぜなら、その人は、周りがよく見えているから。お願いされた「タスク」の周りの情報を、その人が求めているものを、その人が必要としているものを、その人は感じ、考えている。だからこそ、仕事の周りの物事がよく見えている。

少なくとも、わたしはそうして働いてきた。そして、そんな人を幾人も知っている。

それが男性とは限らない。それが総合職女性とも限らない。それが専門職に就く人とも限らない。実は、わたしたちの周りには、そんな「気働き」のできる普通の女性が沢山いる。

なぜなら、多くの女性が機会を奪われ、声を奪われ、狭い場所へと閉じ込められてきたから。既に諦めてしまった人も多いけれど、それでも、目立たず、地味で、脚光など浴びたこともない平凡な女性の中に、それができる女性が少なくない。

与えられるものが少なかったからこそ、多くの女性が悩み、小さな夢を幾度も手放し、それでも起き上がり、自分の居場所を探し求めてきた。だからこそ、彼女たちは「気働きのできる人」へと成長し、人を慈しみ寄り添う心を獲得してきた。

そう、わたしの思うわたしらしい働き方は、そんな「気働きのできる働き方」。

デジタル化の進むこの社会、言われたことのその先を考え、周りの様子を感じとり、時に話しあい、時にぶつかり、時に妥協する、そんな力を蓄えた女性たち、そんな人たちに光が当たる社会であってほしい。

そう、それこそが、人間にしかできない、これから最も必要とされる働き方なのですから。


#私らしいはたらき方

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?