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優しさってなんなんだろう

ふと、冷たい奴だと思う時がある

ほんとは、どうしたいの?って


年を取るということ

あなたの身近に、お年寄りはいますか?

☆ ☆ ☆

ほんの数年前まで、家族以外の人と暮らすなんて想像すらしていなかったけれど、いまでは隣に母がいる。母は動きが鈍り、長年身につけてしまったいろいろなことがなかなか手放せなくて

最近の困りごとは、使用済みのティッシュペーパー。そんなものが家の居間に、寝室に、ダイニングルームに落ちている。使用済みのティッシュをポケットに仕舞う癖があり、それを落としてしまうのだ。本人はちょっと目頭を押さえただけ、そう思っているのだろう。それでも家族にとっては、それは鼻をかんだ紙にしかみえない。運悪くトイレでそれをみかけると、家族には、それがとんでもない紙に見えてしまうに違いない

それが、年を取った人と暮らすという現実


もういいよ

母が我が家へ来た2年程前、あまりに寝てばかりいるので、死んでしまったのではと額になんども手を当てた。すると、母は飛び上がって驚き、こちらこそ飛び上がって驚いた。

子どもを育てていたころ、なかなかお昼寝しない我が子にイライラして、ついには、お昼寝しない子と認定して育てたけれど、87歳の母はみごとなまでによく寝る。お昼寝をたっぷりしたなら、夜は眠れないんじゃないかと思うのだけれど、朝までぐっすり。たまに好きな朝ドラぎりぎりで起きてきたり。まあ、気ままだ

あの頃はよく知らなくて、寝たきりになっちゃう、と外へ引っ張り出した。ちょうど真夏で、シルバーカーを押す母を、まるでボクシングのトレーナーのように励ましながら、遠くの花屋さんまでなんども出かけた。アスファルトにポタポタと母の顔から流れ落ちる汗。やっとたどり着いたお花屋さんでクタクタになってレストランに入ると、椅子が汗でグショグショに濡れていたっけ。どう考えてもあれは歩きすぎだった

母の足の長さは左と右では10センチ以上も長さが違って、だから靴屋さんにたのんで、片方の靴底を厚底にしてもらって。これは名案だったけれど、いまでは病院用の靴になってしまった。なぜって、何人かのお医者様に、歩くと痛いでしょ、そう言われたから。それから母は歩かなくなった。だって先生のお墨付きをもらえたのだから。母の股関節は片方すっかりなくなってしまっていた。引っ張っても同じ長さにはならないらしい。どこへ行ってしまったんだろう、母の股関節。



再び外へ

2年前、我が家へやってきた母は、いまよりずっとおばあさんで、持病の他に、白内障をかかえ、耳もきこえず、どこか遠いところで生きているようだった

それから、左目の白内障の手術をした。麻酔が効きにくい母は痛かったといっていた。他の手術のときにもそう言っていた。それなのに右目も手術すると譲らない。だからコロナ禍の今、入院して手術してもらった。今度は先生にお話しして、ちょっと強めの麻酔に変えてもらって。そうしたら少しも痛くなかったらしい

遠視の眼鏡にルーペでも見えなかったというのに、いまでは裸眼で本が読めるようになって。おまけに聴力を測り、そのデータをもとに母専用にそろえてもらった補聴器のおかげで、字幕なしでテレビが観れるようになった。時代が変わって、補聴器もメガネとおなじく個人の聴力にあわせてデータを埋め込んでもらえるものらしい

テレビの爆音が鳴り響いていた居間は、今ではすっかり静かになって、家族の日常はだいぶ普通にもどってきた


家族のストレス

夫が母の食事にストレスを抱えはじめたころ、なんだかわたしはずっとヒリヒリとすごした。自分が悪いわけじゃないけれど、母のお行儀の悪さが辛かった。食事はとても大切でデリケートなもの。ここに引っかかりがあると、楽しい暮らしには近づけない。

母がズーと音をたてると、夫がチラリと母をみて、その夫のチラリにわたしはぎくりとしてしまっていた。父が亡くなって以降、一人暮らしで舌の力が衰えてしまっていた母。話し相手がいなかったのだろう。すすらないと食事がうまく喉を通らない。曲がった背中が、茶碗を持つ手を支えきれない。

人はいろいろな部位の筋肉をつかって食事をしている、そんなことに気づいて観察をして。それから母と工夫してスプーンを使ったり舌の体操をしてみたり。やがてズー音が小さくなり、そんな頃から、食卓での皆の会話が聞き取れるようになった母が、思いがけないところで笑い声をたてるようになった

わたしは自分を繊細で完璧主義な人間だと思っている。けれど、いつかいった占いでは、あなたは大雑把でパワフルな人よといわれた。それを家族も認めているのだけれど。どちらが本当なのかはわからない。それでもわたしには繊細な部分があって、母が家族になじむためのプロジェクトにいっとき全力を注いだ。年上の母には申し訳ないけれど、直してほしいことは繰り返し伝えた。耳が聞こえなかったころ、母のすべてが乱暴で、わたしはそれに耐えきれなかった。だから繰り返し、お茶碗の音、カーテンを引く音、ドアの音、食事の音、そんな日常のいちいちを見直してもらった。今ではよくわかる。母が音のない世界にいたということが


人はどこまで人でいられるんだろう

母がわたしたちと暮しはじめてちょうど一年が過ぎたころ、田舎の母の知人に電話で尋ねてみた。「母はここにで暮らして幸せなのでしょうか?」と。答えは瞬時に返ってきた。「今、お母さんがそこにいるのなら、それが答えですよ」と

母がわたしのもとへやってきたとき、母はすでにそれを決めていたんだ、そう思うようになった。あの夏、川の水位が上がり、水が家の中へ流れてきたとき、母は台所にいて、居間へでてみると、母の65年使ってきたすべてのものがゴミ捨て場へ運び出されてしまっていた。ものの30分ほどのことだったらしい。父のいた頃にも、水害ならあった。初めてのことではなかった

それから我が家へやってきた母は、1年後、公証役場で遺言状を書き上げた。にわかには信じられないきょうだいたちの取った行動。母の財産は既にきょうだいのものになっていた。母の住んでいた家の権利までも。それをひとつずつ追いかけて、その都度、わたしは故郷に別れを告げた。今となっては、目もみえず耳も聞こえなかったことが、母にとってはよかったのかもしれないと思えてならない

わたしはよく考える。母の姿はいつかの自分だろうと。母は日に日に元気になり、こもりがちだった自分の世界から、徐々に小さな我が家の小さな世界へ心を開きはじめている。母がいつまで元気でいられるのかはわからないけれど、わたしが外出した昼間はお昼寝できないなんて言う。な~んだ、甘えん坊だったのか、と母のことが分かってくる。そういえば寒い夜、冷たくなった母の両足を自分の足で包んで寝ていた父、そんな父とわたしはどこか似ているのかもしれない

年を取り、自分の望むことが何一つかなわなくなってしまう、そんな母の姿を見たあの日、わたしは「不憫」という言葉の意味が分かった気がした。そして、わたしにはそれがなにより辛い

それでも、優しさって、いうほど簡単なものじゃないのかもしれない


☆ ☆ ☆

この文章は、毎日たくさんの方を訪問リハビリとしてお世話されているセイコさんが書かれた下の記事を読んで、書いてみたくなった母とわたしたち家族の2年間の記録です。

実は、母の食事の「音」問題は、理学療法士であるセイコさんに、たくさんの資料を送っていただき、その資料を参考に親子でとりくんだものです。まだ食事の際に空気を飲んでしまっているのか、ごぼごぼとゲップが出てしまう時があるのですが、それでも、うまく物が呑み込めなかった母が、椅子に座り、茶碗を片手で持ち、スプーンが徐々に箸へ変わり、今では食事を楽しめるまでになっています。セイコさんの豊富な知識と優しさに助けられています💖

だから、noteでの出会いって素敵だと思うのです💖

最後まで読んでいただきありがとうございました😊

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