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【介護】一人で抱えこまないで。


介護が始まると何もできなくなると思っていた。母が祖母の介護をしていた頃の、何十年も前の記憶が今も鮮明に残っているから。


ところが、その母の介護が始まったけれど、今のところわたしはそれでもなんとか動けている。

実は今、このnoteは宿泊先のホテルで書いている。結婚記念日がそろそろで、夫に誘われて宿泊することにしたのだ。もちろん介護中にそんな気ままな動きはできない。けれど働いていて同居している娘が、

「いいよ、行っておいでよ。明日は在宅だし、おばあちゃんは大丈夫だから。明日のお昼もおばあちゃんの分は用意して会社に行くから、行っておいで」

と言ってくれたのだ。なんと、ありがたい。


ただ、昔の介護はきつかったと思う。

母は大変だった。

固形物が飲み込みにくくなった晩年の祖母に、母は毎食白身魚のすり身をお味噌汁に入れてスプーンで食べさせていた。他にもお膳の上には色々と乗っていたような気がするけれど、はっきりとは思い出せない。家族の食事と祖母のメニューが毎度違う、だから母は大忙しだったはずだ。

祖母は掛かり付け医さんに自宅で頻繁に点滴を打ってもらっていた。

あの頃は気づいていなかったけれど、母は祖母の体のケアを一人でやっていた。天気のいい日に寝ている祖母の髪を一緒に洗ったことはあったけれど、祖母はその他の、一切の体のケアを他の人には決してさせなかった。祖母は母が良かったのだ。

そんな介護を、わたしも手伝った。一緒に暮らしていたから仕方なかったというより、手伝う方が自然なことだったのだといまは思う。

ただ、日に何度もおばあちゃんに呼ばれるのは勘弁してほしかった。ちょうどドラマが盛り上がっている時とか、好きな歌手が歌い始めた時に限って、おばあちゃんがumiさ〜んとわたしを呼ぶのだ。


ただ、わたしはそのおばあちゃんに育ててもらっている。

大家族で、小学生の頃までわたしは8畳の間でお婆ちゃんと寝ていた。

記憶にあるのは、幼稚園に上がる前の頃から。

夏の暑い夜、祖母がゆるりと団扇をあおぎながら、昔話や色々な話をしてくれた。その団扇から送られてくるやわらかい風がヒューとわたしの顔にかかるのが気持ちよくて、それが何往復かする間には、わたしはすっかり眠りについていた。


朝、わたしを起こしてくれたのもおばあちゃんだった。毎朝髪をとかしてくれた。

あれはおやつだったのだろうか、水飴を祖母が巻いてくれた。透き通った柔らかい水飴の入ったプラスチックのボトルに箸を差し入れ、それを上手にくるくると巻きあげて、ちょうど一口サイズの水飴の塊をニコニコと微笑みながらわたしに手渡してくれるのだ。糖分の塊だ。わたしに虫歯が多かったのはあの水飴のせいだったのだろうか。わたしはそれを何度もおかわりした。

そのおばあちゃんとは、冬になると湯治に出かけた。毎年いく宿は決まっていて、隣町に住むお婆さんと一緒だった。わたしはそのおばあさんのお孫さんの男の子と一緒に遊んだ。一日5回も6回もおばあちゃんたちと温泉に入り、勢いよく流れ落ちる温泉水をごくごく飲んで、気ままに泳いだ。その男の子と裏山を走り回り、よく喧嘩もした。もちろん私が勝った笑。それから随分大きくなって、ある日買い物に入った隣町の大きなお店で、おばあさんに声をかけられた。びっくりしたけれど、それがあの湯治のお婆さんだった。

夏に絽の着物姿で日傘をさす、スーと背の高い細身のおばあちゃんを思い出す。記憶を辿ると、あれはお寺に向かうバス停だった。わたしはいつもおばあちゃんと一緒で、その祖母は毎月お寺に足を運んでいた。そのお寺について行くと、いつも決まって和菓子の入った白い小さな紙袋をお寺の和尚さんの奥様に「良くいらっしゃいましたね」と言って手渡たされた。けれど、わたしはそのお菓子を一度だって口にしたことはなく、ただ黙って祖母の隣に座っていた。畳のめとそのお菓子の袋をじっと見ていたのを思い出す。

考えてみると、おばあちゃんの介護をわたしが手伝ったのは当たり前のことだったのだ。おばあちゃんとわたしは特別一緒に長い時間を過ごした。

そのおばあちゃんは、わたしが進学して家を出たその年の5月に亡くなった。

東京に行ったのが確か3月。それなのに、毎晩夢でおばあちゃんに呼ばれた。どういういきさつで帰省したのかは思い出せないけれど、4月に1週間、おばあちゃんに会いに帰った。そしておばあちゃんとたっぷり共に過ごした。

そういえば、夜寝る時、おばあちゃんの手を取り、神様おばあちゃんを連れて行かないでねとお願いしていた頃があった。あれは幾つの時だったのだろう。もう思い出せないけれど、わたしはおばあちゃんが大好きだったのだ。

それから、翌月の5月、おばあちゃんは亡くなった。

けれど、もう夢にはおばあちゃんは出てこなかった。

あゝ、わたしは会いに帰ったんだと、後で思った。



そのおばあちゃんは、亡くなるその日の朝、母を呼ぶと、

「⚪︎⚪︎ちゃん、お迎えが来ました。そろそろお別れしましょう」

と言ったのだそうだ。

母は気が動転して、親戚中に連絡をして、その日は大慌てだったという。

それから、祖母は馴染みの顔ぶれに囲まれてその夜静かに旅立った。

嫁だった母は、祖母に結局きちんとご挨拶はできなかったという。



介護には色々なストーリーがあると思う。

わたしが母を介護しようと決めたのは、そんな母を見てきたからだ。あれほど人に尽くした人だ。それが望みだと言うなら、最後まで家でと思わずにいられない。理想なのかもしれないけれど、今は本気でそう思っている。

すっかり忘れていたけれど、それでも、人はやっぱりどこかで忘れていた色々を思い出す時がある。

母が誰かに尽くす様をわたしは見ていた。だから粗末になんかできない、そう思ってしまうのかもしれない。


そして今、娘が母と暮らす日々を過ごせてよかったと思っている。

娘が同居していなければ、こんなふうにわたしは自由に外になんて出られない。娘と母は、わたしの知らない時間を過ごしている。二人がどんな会話をしているのかわたしは知らない。二人が二人だけの時を過ごせるのがいいと思っている。

そして、わたしは母のようには辛抱強くない。介護は一人ではちょっと無理だ。

この形がいつまでつづくのかはわからないけれど、親と暮らす生活が始まって4年目、最初はわたしだけが母と関わっていたけれど、いつの間にか家族が母と深く関わるようになっている。

そんな日々はきっと忘れてしまうだろう。けれど、いつか娘も必ずこの平凡な日々を思い出す日が来るのだと思う。



※最後までお読みいただきありがとうございました。


※こんな素敵なお知らせが届きました。いつもお読みいただきありがとうございます。


※スタエフでも話しています。

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