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専業主婦って幸せの象徴なんじゃないの?


昨日「専業主婦って幸せなんじゃないんですか?」と問われた。


専業主婦ってなに?

それは昨日のかおるこさんとのスタエフでのコラボ収録でのこと。

かおるこさんは、ねえねえumiさん、専業主婦って女性にとって、

⚫︎幸せの象徴なんじゃないんですか?

⚫︎勝ち組なんじゃないんですか?

⚫︎お気軽な立場の人なんじゃないんですか?

と問われた。

彼女の周りには専業主婦がいないのだそうだ。お母様もずっと働かれてきたという。といってもかおるこさんは社会学専攻。そうした女性に関するベースは既にお持ちなのだ。けれどリアルに専業主婦時代を過ごしてきたわたしに直接その専業主婦について聞いてみたいといわれたのだ。

これは面白い。

ただ、そんな簡単な問いにわたしは戸惑った。それから、ああそうだったと思ったのだった。

考えてみるとわたしは常に専業主婦は大変です、ってところから話しをはじめているのだから。



専業主婦イメージとブランド化

そう、あの強烈なイメージについてわたしはまだ一度も触れていない。

確かに専業主婦といえば、誰だって幸せの象徴・勝ち組・お気楽な立場の人と思うだろう。それが専業主婦の世間のイメージだ。

考えてみるとどんな企業だってそのイメージ作りに苦労している。良くも悪くも誰もが、あゝそれねと思えるものを創り出したいと苦心している。そのイメージが完全に定着しているのが専業主婦。

そう、これはもうイメージ作りでは大成功した一つの作品、つまりブランドなのだ。

そして、ブランドにまで昇華したそれは、少々の時が経過したぐらいではぐらつかない。




何が問題なの?

で、その専業主婦で何が問題なのかといえば、そのブランド力が強すぎること。そこが大問題なのだ。

世間の専業主婦のイメージはあまりに強く、一度は誰もが憧れるブランドになってしまっている。

だからこそ主婦の現実が完全にかき消されてしまうのだ。

世間では主婦の優遇のみがとりだたされているけれど、この国では女性が一度専業主婦になると、ここはもう嫌だ、外へ出たいと思っても、そこからもうおいそれとは抜け出せなくなる。そう、今の主婦はそのイメージとは全然違う場所で生きている。

詳細はこちらの記事で詳しく述べている。


ただそのイメージが現実とはかけ離れていたとしても、一旦世間が受け入れたブランドをぶち壊すのは容易なことではない

そこが問題なのだ。



専業主婦のリアル

我が家の場合、夫には暮らしていけるだけの収入はあったけれど、給与が増えてもそれは子育てに消え、わたし自身が自由に使える予算は無かった

残業ばかりの夫とワンオペ育児のわたし。だからわたしは孤独だった。

そんな暮らしのどこが幸せの象徴勝ち組お気軽な立場の人なのだろう。ブランド力とは、それを持つことで、そこに所属することで、人が満足し信頼し安心を得るものだと思う。

ところがわたしはひたすら孤独だった。それからようやく働き出し、その後大学に入り出会った社会学で、なんと、専業主婦についての研究が山ほどあることを知った。

そこには、専業主婦は社会から分断されて孤独だとあった。

孤独なのは自分の問題だとばかり思っていた。

だからわたしは驚いた。

そうか、それはわたしだけじゃなかったのかと。

そう、優遇措置のある専業主婦は幸せの象徴だとか勝ち組だとかお気軽な立場の人などといわれるけれど、主婦研究では、たとえ活発な女性でも専業主婦になると孤独を感じると結論付けられている。

理由はシンプル。それは社会から分断されるから

そう、日本で専業主婦になるということは社会から分断されるということ。

それが主婦のリアル。



教育の刷り込み

その世間の専業主婦のブランド教育メディアで作り上げられている。しかもそれはいやになるほど根が深い

遥か昔から丁寧に作り上げられている。そう、まるで儒教のように。

たとえば教育では、明治14年にはすでに女子のみの「家庭経済」が必修となり、明治32年には女子教育の目標が良妻賢母になる。

法的にも明治32年に良妻賢母が高等女学校令となり、明治40年代にはそれが女子教育の基本姿勢として定着する。

昭和10年には良妻賢母がさらに強化される。

そうしてこの国では良妻賢母教育が世代を超えて長く深く社会に浸透していく。


※この章の参考文献
『〈主婦〉の誕生 婦人雑誌と女性たちの近代』木村涼子 1990 吉川弘文館




メディア

その教育で刷り込まれた思想をさらにメディアが支えた。

明治期に家庭雑誌や婦人雑誌で夫が雇用者妻は主婦という核家族が家庭の幸せという理想が描き出される。

さらに全ての女性には生まれながらにして母性愛があり、母親は子どもの無償の愛を注ぐという母性をめぐる言説が登場する。

しかも近代化の初期には女性雑誌には必ずといっていいほど「主婦」がつき、主婦向け雑誌がどんどん誕生する。

教育とメディア。良妻賢母教育を受けた人はそうした雑誌を抵抗なく、いや積極的に求める。それから教育を受けていない女性は、そうした雑誌を手に取ることがステータスと感じるようになる。人々の心の中には既に教育で作り上げられた思想が芯になっている。揺らがない。


※この章の参考文献
『〈主婦〉の誕生 婦人雑誌と女性たちの近代』木村涼子 1990 吉川弘文館



想像上の現実

いつか『サピエンス全史』を読んでいた時、ああ、これだなと思った文字が今も記憶に残っている。それが想像上の現実という言葉。

その想像上の現実は決してではない。

その本にはこう書いてある(p49)

誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存続するかぎり、その想像上の現実は社会の中で力をふるい続ける、と。

この本には、人が川や木といった客観的現実とともに、などのように想像上の現実を信じるようになると多くの人と繋がれると書かれている。

さらに時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力を増すとも。

専業主婦ブランドはまさにこの想像上の現実だ。

明治時代を迎えていかに人々の暮らしがかわったとて、家族は依然として家族。それが客観的現実。けれど教育で刷り込まれる良妻賢母思想想像上の現実

するとどうだろう。

時が流れるうちに、良妻賢母思想は果てしなく力を増し、母は良妻賢母という想像上の存在なくしては評価されないほどになった。

つまり、教育で植え付けられた良妻賢母思想はメディアを通して補強され、そうした教育を受けた人たちがそれを購読し続けたというサイクルがある。

三歳児神話もその過程で生まれた。コラボさせて頂いたかおるこさんは専業主婦も神話だと思うといわれた。

そう、専業主婦は神話であり、想像上の現実なのだ。

※この章の参考文献
『サピエンス全史上』ユヴァル・ノア・ハラリ 2021 河出書房新社



おわりに

専業主婦は実にお気楽に見える。けれど、明治、大正、昭和初期ならいざ知らず、既に日本の女性は男性と同じように学び、働き、海外留学や海外旅行だってしている。視野が広くなっている。

だからわたしは思う。誰かに自分の人生を完全に預ける生き方がどうして幸せなのかと。それでは自分の人生は生きにくい。たまたま夫に深く愛され、自らも夫を愛し、経済的に恵まれ、互いが健康であったなら、そのブランド力は信頼できるのかもしれない。けれど全ての条件が揃わなければブランドだと思っていた生き方は単に不自由で不安定なだけだ。

それでも人々の専業主婦に抱くイメージは変わらない。それは教育とメディアで作り込まれた信仰に近い思想なのだとわたしは思う。


※最後までお読みいただきありがとうございました。


※スタエフでもお話ししています。


※かおるこさんとのコラボはこちらです。


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